外はすっかり夜の様相が濃くなり、Uzdrowienieの閉じたシャッターに街頭の明かりが当たっている。来た時よりも、通りの賑やかさは薄れていて、SAKURAだけが煌々と明かりを灯し、賑わいを見せていた。

 食事へはあっ君も一緒だと思い、姿を探してみたけれど見当たらない。梶さんが、そんな私の様子に気がついた。

「淳史は用事があって、今日はもう上がってるよ」

 お酒の席と言えば、盛り上げ役のあっ君は必須だと思っていたから、既に帰ってしまったと聞いて拍子抜けしてしまった。

「あっ君、帰っちゃったんだって」

 美香に言うと、「ふーん」なんて、特に興味もないのか反応は薄い。

 あっ君がいたら楽しいし、美香なら一緒に盛り上がる気がしたのに残念だな。

 二人がお酒を飲んではしゃぐ姿は、容易に想像できた。

「明日も仕事だから、近所のお店がいいよね」

 美香に同意を求めるようにして顔を窺い、私たちは梶さんへ頷きを返す。
 マンション方面に向かって歩き、駅の繁華街に出た。駅前はまだまだ賑やかなもので、酔客があちこちで笑い声をあげていて、楽しげな雰囲気が伝わってくる。中を窺える居酒屋からも、笑い声やはしゃぐ声が聞こえてきていた。

「どこがいいかな。あまり賑やか過ぎない方がいいかな」

 梶さんが看板やお店に視線を走らせていると、美香が突然立ち止まった。

「あのー、すみません。私、用事があったことを思い出しました」

 私と梶さんは、ほぼ同時に美香を見た。

「せっかくのお誘いなのにすみませんが、今日は帰ります」と梶さんに頭を下げた。

 突然のことに驚く私の耳元に、「二人で楽しんできなよ」と美香が囁いた。
 美香の真意を理解し、驚きに目を見返す。微かに頷くようにして笑顔を見せる美香に、流石恋愛マスターと思わず感心してしまった。

「今度また誘ってください。雪乃のこと、宜しくお願いします」

 私の背中に手をやる美香は、梶さんの方へと少しだけ押し出すようにした。そんな私を引き受けるように、梶さんが解りましたと美香へ頷きを返す。笑顔の美香は、くるりと踵を返して駅へと足を向け行ってしまった。

 少々唖然としたまま美香の後姿を見送っていると、梶さんが隣に並んだ。
 同じように美香のことを見送る梶さんの表情を隣から見上げ、突然投げ出されたことに不安定な気持ちになっていた。

 美香がいたからお酒に誘ってくれたのだろうし。美香が帰ってしまった今。このまま解散になり、二人でマンションに戻ることになるんじゃないかという気がしたからだ。

「どう、しますか?」

 窺うように、梶さんを見る。
 折角美香が気を利かせてくれたのだから、できるなら二人で一杯でもいいからお酒を飲みにいきたい。梶さんと、二人だけの時間を過ごしたい。
 祈るような気持ちで返事を待っていると願いが届いたのか。

「僕と二人でもいいかな?」と控えめに訊ねられて、「もちろんです」と満面の笑みが浮かんだ。

 でもね、勘違いしちゃだめだよ、雪乃。一度誘ってしまった手前、このまま帰すのも悪いなんて、人のいい梶さんだから思ってくれたのかもしれないじゃない。だって、梶さんには櫻子さんがいるのだから。

「じゃあ、軽くいきましょうか」

 心とは裏腹に、会社の飲み会さながらに軽い返事をする私を、梶さんが見つめていた。

 梶さんと二人、近くのダイニングバーに入り個室に案内された。このお店の造りは、団体用の大テーブルの他には、すべて個室になっているようだった。

 不可抗力とはいえ、梶さんと二人きりになってしまった。おかげで、ここに居ない櫻子さんに、わざわざ個室を選んだわけじゃないです、という言い訳が自然と頭に浮かんでくる。

 テーブル席で向かい合い、目の前の梶さんに電子メニューを手渡した。

「お食事まだですよね。私のことは気にせず、どんどん食べちゃってくださいね」

 梶さんは、ありがとうとタッチ画面のメニューを受け取り眺めていたけれど、注文したのは、ビールと厚切りベーコンに揚げ出し豆腐とおつまみが少しだけ。それに比べ私は、SAKURAであれだけガッツリ食べたにも拘らず、つい唐揚げや串揚げにサラダも頼んでしまった。美味しそうに写っている食べ物の写真を見ているうちに、胃が刺激されてしまったらしい。

 梶さんの生ビールと、私が注文したマスカットサワーがすぐに届いた。お疲れさまとグラスを合わせ、マスカットの甘味と炭酸に喉の奥がしびれて顔を顰める。

「可愛いの飲むね」
「子供なんです」

 肩を竦めると、梶さんが微笑む。少し、気恥ずかしい。視線を合わせ続けていられなくなり、再びメニューを眺めた。

「あ、ここ。もつ鍋がある。食べたいけど、今日はお腹いっぱい過ぎる」

 たっぷりのニラが乗った美味しそうな牛もつ鍋。夜はまだまだ涼しいから、この季節なら鍋だっていける。

「じゃあ、また今度二人で来ようか」
「はい」

 もつ鍋が食べられる嬉しさに軽く返事をしたけれど、今梶さん、二人でって言わなかった?
 聞き間違いだろうか。けれど、こんなこと確かめるなんて、できやしない。大体、櫻子さんがいるのに、二人でって、おかしな話だよね。社交辞令ってやつかな。気を遣ってくれているんだよね。

 メニューのもつ鍋写真に目を奪われているふりをしながら、脳内はめまぐるしくそんなことを考えていた。
 大体、鍋は二人でつつくよりも、大人数で食べた方がいいに決まっている。そんな言い訳まで考えている始末だ。

「櫻子さんとあっ君も一緒なら、楽しそうですよね」

 梶さんがほんの少しだけ苦笑いする。

 あれ? 何か可笑しなこと言ったかな。

 梶さんの苦笑いが移ったように、私まで頬が歪んだ。それを誤魔化すように、グラスに手をやり、マスカットサワーをごくりと飲み込んだ。炭酸が喉に痛い。

「梶さんは、櫻子さんと出掛ける時は、どんなところへ行くんですか?」

 噛み合わない会話をやめて二人の日常を訊ねた。二人がどんなデートをしていようと、私には関係のないことだと思っても、梶さんがどうやって櫻子さんを大切にしているのか知りたくなってしまった。
 どんな風に愛し、どんな風な言葉をかけるのか。自分には一生向かないであろう梶さんの想いを、疑似体験ではないけれど聞いてみたい衝動にかられてしまったんだ。すると、梶さんが再び苦笑いを浮かべてしまった。

「櫻子さんとは、出かけたりはしないよ」
「えっ!?」

 恋人同士なのに、出かけることができないなんて。お店を経営するって、本当に大変なことなんだ。

「お二人とも、忙しいですもんね」

 それなのに、私なんて相手にしてくれて、何だか申し訳ない気持ちになってきた。

「雪乃ちゃん。もしかして、何か勘違いしてないかな?」
「え?」

 勘違いって、何をだろう。

「僕と櫻子さんの関係」
「関係って、二人は恋人同士ですよね?」

 当たり前の事実だと思っていたから、すっとその言葉を返したら、梶さんが「困ったなぁ」と笑みをこぼした。

「正確には、恋人だった。が正しいんだ。過去形だね」

 当たり前だと思っていたことが覆されたとき、事実を事実として認識するのに数秒の時間を要してしまう。まるで脳内のバグを修正するみたいに、頭の中は二人の親しく話している場面や、櫻子さんが「梶君」と愛しそうに呼ぶ声や。ついさっき見た、梶さんの襟を直してあげている仲睦まじい姿がグルグルと目まぐるしく行き交っていた。

「えっと。櫻子さんは、梶さんの彼女じゃない?」

 驚き過ぎて、馬鹿みたいに訊ね返してしまった。そんな私を、梶さんが可笑しそうに見ている。

「雪乃ちゃんて、面白いね」

 目の前で笑みを作る梶さんを見ているうちに、勘違いし続けていた今までの自分の言動が恥ずかしすぎて顔から火が出そうになる。カーッと熱くなる顔と体。目の前にあったおしぼりを手にして、恥ずかしさに顔を隠した。

「すっ、すみませんっ。私、勝手にそうだと思い込んでいて。なんか、いっぱい失礼なこと言ってきましたよね。ああ、どうしよう。ほんと、すみませんっ」

 おしぼりで口元を隠し、目だけ覗かせ早口で謝罪する私を、梶さんは可笑しそうにクツクツと声を上げて見ている。

「雪乃ちゃんと話していると、櫻子さんの話題がやけに出てくるから、可笑しいなとは思っていたんだけどね」

 未だに笑いが収まらないようで、梶さんは笑みを崩さない。

「早とちりで、すみません。二人があんまりにもお似合いだったので、てっきり、その」

 何を言っても言い訳になってしまうけれど、襟を直してあげていた櫻子さんの態度は、今思い返してみてもやはり梶さんを愛しむ雰囲気に溢れていた。

「怒っているわけじゃないから、謝ることないよ。ただ、少しだけ残念な気持ちかな」

 残念。やっぱり、私ってば何か梶さんがそう感じるようなことをしてしまっているんだ。

「ごめんなさい」

 ぎゅっと目を瞑り、何度も頭を下げる。

「違うんだよ、雪乃ちゃん。これは、僕の気持ちの問題だから。雪乃ちゃんがそんな風に謝る必要はないよ」

 ぎゅっと瞑っていた瞼を開けると、目の前では梶さんが困ったような、それでいてどこか楽しげな表情をしていた。

 私の勘違いが面白過ぎたのだろうか。けれど、二人を見たら誰だってそう思う気がする。だって、あんなに仲良さそうに話す姿を見て、恋人じゃないなんて誰が思うのか。

 料理が少しずつ届き、テーブルの上が賑やかになっていく。梶さんは、料理をゆっくりと味わいビールを三杯ほどお替りした。私は、マスカットサワーを飲み終えてから、ジントニックを注文し、それと共に頼んだ料理を堪能した。

 梶さんは、また少しだけポーランドの話を聞かせてくれた。イースターの時期に飾る、カラフルなイースターエッグのことをピサンキということ。ポーランドの食器は、総称して“ポーリッシュポタリー”と言われ、手作業で作られているから、同じものはないということ。ピエロギという、餃子のような少し厚めの皮で作られた料理が美味しくて、デザートとしても食べられているということ。クラフク市の方にある蚤の市では、古く宝物のような掘り出し物を見つけるのが楽しいこと。クリスマス・イブには、突然の来客のために、席を一つ設けていること。基本的にはお肉料理が多く、スープの種類も豊富だということ。

 ポーランド話のあとは、あっ君とのことも楽しく聞かせてくれて、パンにはまっているお母さんのことも照れくさそうに語ってくれた。

 梶さんが話してくれるポーランドの話は、私の知らないことばかりで、子供心をくすぐるように楽しいものばかりだった。知らない国の知らない習慣は、どれも刺激的で夢中になってしまう。それはきっと、梶さんがポーランドという国を愛しているから素敵に語れて、私ものめり込むように聞いてしまうのだろう。

 楽し気な話を頷きながら聞いていくうちに、不意に自分について話すことがないということに気がついた。仕事は何となくしているくらいで、特にしたいと思ってついた職種ではないし。父のいない家族のことを明るく話す技量もない。幼馴染の佑のことを言ってしまえば、きっと文句しか出てこない。梶さんのように、瞳を輝かせて、幸せそうに語れる何かを持っていない自分は、なんだかとても寂しい人間に思えてきた。自分の中身が空っぽのような気がして空しさを感じてしまう。

 そんな心情を押し隠し聞く梶さんの話は、自分の中にある暗い色をしたページを勢いよく破り捨て、新たなページに明るい風景画を描いてくれているような感覚になった。輝きなど持たない自分にキラキラとした光を当ててくれているようで、私までもが眩しく輝いている人間にでもなったような気がしてくる。梶さんの癒す力が心地よくてならなかった。

 外に出ると、来た時の賑やかさも鳴りを潜め、五月の緩やかな空気に包まれた。マンションまでのそれほど長くない道のりを二人で並んで歩く。歩道脇には、紫陽花が咲き始めていて、あと少しで梅雨がやってくるんだな、なんてぼんやり思った。

 隣を歩く梶さんの身長は高く、ほんの少しだけ見上げるようにして彼の横顔を見た。街灯に照らされた輪郭は、シュッとした線の細さはあるものの、男性特有のしっかりとした骨格が安心感のようなものを感じさせる。細身だけれど、以前雑貨を運んでいる時に袖をまくっていた腕は筋肉質で、無駄なものがそぎ落とされている体形は、梶さんの気質と同じに思えた。

 等間隔に現れる街灯の明かりを追いかけるように、足を前に出す。しばらく歩くと、マンションが見えてきた。通りを行き交う車の音が時折聞こえてきて、街灯の明かりがエントランスの入り口付近を明るく照らしているのが少し先に見える。
 エントランスに入り、エレベーターに乗り込んだところで梶さん口を開いた。

「雪乃ちゃん。櫻子さんとの誤解も解けたところで、聞いて欲しいことがあるんだ」

 梶さんがそう言ったところでエレベーターのドアが開き五階に降り立った。渡り廊下はとても静かなもので、吹く風のささやかな音や、夜特有のなんとも言えない音が耳を静かに刺激する。
 さわりと緩く吹いた風が髪の毛を揺らしたところで、再び名前を呼ばれた。

「雪乃ちゃん」

 音に釣られるように梶さんを見ると、彼も私を見ていた。それは、ダイニングでお互いを見て笑っていたときや、あっ君の冗談に目配せするように見つめあった時とは明らかに違う瞳で、漂う緊張感と甘い雰囲気に時間が止まった。梶さんの醸し出す空気感に反応する心臓が、どんどん騒がしくなっていく。この夜があまりに静かなせいで、騒がしいこの心音が聞こえてしまうかもしれないと考えれば、更に音は大きくなっていくようだった。

 渡り廊下を歩きだした梶さんの、少しだけ後ろをついていく。耳元では、心音がドクドクと変わりなく大きな音を鳴らしていた。梶さんは、手前にある自分の部屋を通り越し、その奥にある私の部屋の前で足を止めた。
 送ってくれたのだろう。この短い距離でも、そう捉えることのできる紳士的な振る舞いだ。

「雪乃ちゃん」

 手を伸ばせば届く距離は、眩暈がするほどの緊張感を連れてくる。返事をしたつもりだったけれど、煩く鳴る心音に気を取られ声が掠れて音にならなかった。
 見つめる瞳の熱さと恍惚というような表情は、これからなにを伝えられるのか、心のどこかで理解していた。

「僕は、君のことを好きになってしまったみたいだよ」

 梶さんの言葉に頭の中がクラクラとしてきた。あんなに望んでいたことだけれど、本当にそうなるなんて夢のようで。この夜が見せている、幻想や幻聴じゃないだろうかと思えてしまう。伝えられた言葉を現実として捉えるまでに、数秒の時間がかかった。微動だにしない私を見て、梶さんが言葉を続けた。

「初めから好きだったのかもしれない。初めて、雪乃ちゃんを見た時から、僕はもう君が気になっていから」

 見つめられる瞳から目を逸らせない。
 ついさっきまで櫻子さんの彼氏だと思っていた人からの告白はあまりにも衝撃的過ぎて、私は何一つ言葉にならなかった。