マンションのそばに辿り着くと、見慣れた自転車と佑の姿があった。エントランスの灯りを受けて佇む佑の姿はぼんやりと浮かび上がっていて、右手に持っているスマホの画面が光っているのが、少し離れたこの場所からも何となくわかった。

「佑」

 静かな夜に飲み込まれるくらいの音量で呟いた名前だったのだけれど、梶さんも佑の存在に気がついた。私の発した音に反応したというよりも、エントランスのそばに佇む、ぼんやりと明かりを受けた存在に気がついたのかもしれない。

 並んで歩いたままエントランスに近づくにつれて、立っている場所から微動だにしない佑の目が、とても鋭いことに気がついた。機嫌が悪そうだ。
 引っ越してきた時から梶さんの存在を快く思っていなかったのもあって、二人一緒に夜遅く戻ってきたことが気に入らないのかもしれない。佑の鋭い目は、私たちを見ているというよりも梶さんを見ているのが、近づくにつれてよく解った。きっとこんな夜遅くまで出歩いている私を心配しての態度だとは思うけれど、怒った顔で梶さんのことを見て欲しくない。

 さて、どうやって佑の気持ちを宥めようか。

 この場を取り繕うことばかりに気が向いていたら、梶さんが口を開いた。

「こんばんは」

 私が何か言葉を思いつくよりも先に、梶さんが佑に向かって挨拶をした。佑に睨みつけられているというのに、物怖じしない穏やかな口調だ。接客業をしているから、こういう相手の扱いには慣れているのかもしれない。

 それにしても、その目はないよ、佑。

 梶さんに声をかけられた佑は、小さく首を動かしただけで挨拶もしない。話しかけられても尚、機嫌はよくならない。だからと言って、佑に対して非難めいたことを口にするのは、梶さんがいる手前憚られる。対面しただけでも感じが悪いのはあからさまなのだから、これ以上幼馴染の評価を下げるのはいただけない。できることなら、仲良くとまではいかないまでも、敵対するような態度だけはして欲しくないのだけれど。

「どうしたの?」

 梶さんよりも、一、二歩早く前に出て、佑の傍に行き訊ねた。梶さんを睨みつけていた鋭い視線は一旦鳴りを潜め、今度は不貞腐れたような顔つきになる。

「こんな時間まで、何やってんだよ。心配するだろ」

 不貞腐れた顔を心配し怒ったように変える佑を見てから、彼が手にしているスマホの画面に目やった。開いていたのは、見慣れたアプリのメッセージ画面。もしかして、とバッグの奥底に入れたままになっていた自分のスマホを取り出すと、佑から何度も心配しているメッセージが届いていた。未読無視。

「うわっ。ごめんっ」

 慌てて謝ると嘆息している。

「幼馴染の……、佑君ですよね?」

 佑がまき散らす不機嫌な空気を浄化でもするように、梶さんが穏やかな声音で訊ねると、佑は答えもせず、更にふんっというように嘆息をした。今度は、目線さえ合わせない。感じが悪いこと、この上ない。

 佑は、一度気に入らないと思うと徹底するところがある。梶さんを気に入って欲しいなんて無理は言わないけれど、折角お隣同士になって、お店にも通っているのだから、ご近所事情も考えて敵対心だけでも抑えてもらいたい。

「こんな時間まで雪乃ちゃんを連れまわしてしまって、すみません」

 ずっと年下の佑に低姿勢で謝っても、ご機嫌は斜めのまま。何か応えるわけでもなく無視するようなその態度に、子供過ぎるでしょ、と今度はこっちが嘆息してしまいそうだ。

「何か用だった?」

 この場の空気を取り繕うように、つとめて明るく訊ねた。

「ちょっとな」

 どんな用があるのかは応えず、佑は曖昧に言葉を濁した。そんな佑と一緒にいるのはとても空気が悪くて耐え難いのだけれど、心配してくれていた気持ちを無碍に扱うことなどできるわけもない。

 家族同然の佑だから、心配することは当たり前だ。
 それでもこの態度は、さっきまで帰る場所が同じということに浮かれていたテンションを下げるには充分だった。

 気まずい空気を孕んだまま、梶さんと三人でマンション内に入り、エレベーターに乗り込んだ。狭い空間は、居心地の悪さを益々増幅させていく。梶さんとあっ君とで過ごした、さっきまでの楽しい食事会が嘘みたいに重い空気だ。

 エレベーターが五階に着き、まるで長く苦しい潜水から地上に出て空気を求めるように小さな箱から逃げ出すように抜け出した。それほど幅の広くない渡り廊下を、三人横並びに歩くはずもなく。どういうわけか、梶さん、佑、私の順に縦一列の隊列を組んで部屋の前まで歩いていった。

 佑の背中は、見ただけでもこの状況が気に入らないと言っているのがわかるほどで、ジーンズのポケットに親指を引っ掛けて、ダルそうに梶さんのあとに続いている。

 部屋の前で立ち止まる梶さんを追い越す。

「ごちそうさまでした」と頭を下げて自分の部屋の前に向かおうとすると、「ちょっと待ってて」と慌てたように鍵を開けて部屋に入った梶さんは少しして再び出てきた。手には、見覚えのある袋が握られていた。

「これ、よかったら貰って。また、うちの親がね」

 少しだけ照れくさそうに、でも何となく嬉しそうにパンの収まる袋を差し出す。その仕種は、さっきまで大人の男性だと思っていたところに、チラリとだけ幼い雰囲気の笑みが混じっていて、私の心臓はレアなその瞬間に遭遇したことにまた反応していた。

 まだ知り合って一ヶ月ほどなのに、こんな風に笑うこともあるんだと長く知っているような感覚になっている自分が可笑しい。

「ありがとうございます。以前戴いたのも、とても美味しかったので嬉しいです」

 正直な感想だ。元々パンは大好きだし、スーパーの大量生産で賞味期限が長いパンより、ずっとずっと美味しいのだから当然だ。今度のパンは、なんだろう。袋の外からでも、とてもいい香りがしていて楽しみだ。

「その言葉を母に言ったら、とても喜ぶと思うけれど。持ってくる量と回数が増えそうだから、内緒にしておこう」

 クックッと笑う梶さん。とても楽しそうだから、つられて私も笑っていたのだけれど、そばに立つ佑だけが表情を緩めない。

 もう、協調性!

「早く入ろうぜ」

 これだもん。

 会話を断ち切るような佑の言葉に呆れていると、梶さんが申し訳なさそうな表情になってしまった。折角楽しい雰囲気になって、ほっとしたというのに。佑のバカ。

「ごめんなさい、梶さん……」
「こちらこそ、引き留めてごめんね。おやすみ、雪乃ちゃん。佑君も、おやすみ」

 梶さんに挨拶されても、僅かに首を動かす程度で言葉を発しない佑に、私の表情は苦笑いを浮かべるしかなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「おやすみなさい」

 梶さんに挨拶をして部屋に入った途端、佑がケッ、なんて零した。

「何が雪乃ちゃんだよ」

 まだ玄関ドアがすっかりと閉まりきる前にそんなことを言いだすものだから、慌ててドアノブに手をやり急いで閉めた。
 今の佑の言葉が、梶さんに聞こえてませんように。

 申し訳なさは更にさっきよりもふり幅を大きくして、私は肩を落とす。

「何をそんなにプリプリしてんのよ」

 落ち込みと呆れでテンションの低い声を出しながら靴を脱ぎ、ダイニングのテーブルに梶さんから貰ったパンの袋を置いた。

「ここに越してきて、まだ一ヶ月だろ。しかも、女がいるくせに、雪乃に馴れ馴れし過ぎるだろ」

 倣うように佑も靴を脱いで部屋に上がると、まっすぐ洗面台に向かい手を洗った。

「よくしてもらってるんだもん、そんな風に言わないでよ」

 佑と入れ違いに私も手を洗う。

「はぁ? 女がいるのに雪乃を誘うとか、おかしいだろう? 俺、なんか間違ったこと言ってるか?」

 タオルで適当に手を拭くと、くるりと振り返り頭の上から呆れたように言われた。

「そう言われると、そうだけど……」

 モゴモゴと返していると、佑がまた嘆息した。

「また二股かけられても知んねーぞ。雪乃は、男を見る目がないからな」

 返す言葉もない。だけど、頭ごなしでちょっと冷たすぎやしない?

「でも、今日は、あっ君も一緒だったよ」

 二人きりじゃなかったことを強調してみたのだけれど、火に油だった。別の男性の名前が出てきたことで、佑の呆れ顔は冷たさに代わる。

「誰だよ、そいつ」

 次から次と。そう言わんばかりの目で見られて、返す言葉はぼそぼそと情けないものに変わっていく。

「Uzdrowienieの店員さん。大学生でね、結構ノリがよくて楽しい人だよ……」

 応える私の目をじっと見返して、佑が深く息を吐いた。

「そいつにまで嵌められるなよ」

 真面目に返されて、少々逆切れだ。だって、あっ君のことまでそんな風な目で見られてしまうのは、何だか違う。

「もぅ、そんなことばっかり言って。あっ君は、そんなんじゃないし。大体、梶さんは、憧れみたいなものだから。私には、到底釣り合わないことくらいわかってるもん」

 自虐的になっていく思考に、落ち込みが増していく。佑は心配しているだけなのだろうけれど、その心配は勢いをつけて度を越していく。言ってしまった手前、勢いを止めることができないのかもしれない。

「憧れねぇ」

 佑が目を細めて疑心暗鬼の目で見てきた。その目を見続けられなくて、つい逸らしてしまった。なんだかんだと言ってはみても、自分の中に芽生えてしまった想いが少しずつスピードを上げて膨らんでいるのがわかるからだ。心の内側が、佑にはすっかりバレテいるのだろう。

「まー、とにかく。腹減ってるから、なんか食わして」

 そんな話はもういいよ、とばかりに話題を変えると、リビングの椅子にドカリと腰かけご飯をねだる。用事というのは、食事の集りだったようだ。それ以外の用事などないか。

 いつものことながら、本当に貧乏なんだな。生活は、大丈夫なのだろうか。バイトで稼いだお金は大学にかかる費用へと回しているようで、それ以外に使っている気配がない。楽器関係の類についていえば、高額なギターなど以外は領収書を貰えば事務所が負担してくれているようだ。親に負担をかけないようにという気持ちはわかるけれど、少しやり過ぎではないだろうか。

 そういえば、曲は順調に仕上がっているのかな。契約の継続がかかっているだけに、気安く訊ねられる内容でもない。もう少し空気のいい雰囲気の時にでも、それとなく訊ねてみよう。

 ガッツリ食べたいという佑のリクエストに、ご飯を大盛にして炒飯を作ったのだけれど、本当に大盛にしたのかと自分の行動を振り返ってしまうくらいの速さで、チャーハンはお皿の上から姿を消した。佑は、よく食べるし、早食いだ。ついでに言えば、冷蔵庫の中にあるコーラを自ら取り出し、口を付けたかと思ったらあっという間に飲み干してしまった。見ているだけで胃を壊してしまいそうだ。

 満腹になりやっと機嫌が直ったのか、シャワーを浴びたあと自ら来客用の布団を出してきて床に敷き、コロリと横になったかと思うと早々にすやすやと眠りについてしまった。

 散々空気を悪くしておきながら、自由すぎるでしょ。でも、それが佑だし、今までもこれからも、きっと変わらないだろうなと思うと笑えてしまうのだから、幼馴染というのは得な存在だ。

 食器を片付け、私もシャワーを浴びた。洗面所で歯磨きをしながら、バスルームからの水蒸気に少し曇る鏡の中の自分を眺めて、さっきまでの楽しい出来事を思い出す。

 あっ君がたくさん盛り上げ話してくれたことで、梶さんの笑顔を目の前で見ていられた。居酒屋のありきたりな食べ物もアルコールも、梶さんが笑っている顔を見ていられるだけで全部が特別なものになっていた。

 佑は梶さんのことを悪く言ってばかりだけれど、彼へと傾いてしまった心を既にどうにもできなくなっていた。今夜の出来事も嬉しくて、幸せで。こうやって思い出しただけで、頬の緩みを抑えることができない。櫻子さんの存在を思えば、心はチクリと痛みを伴うけれど、思うだけなら自由だよね。勝手すぎるとわかっていても、想いを止める術をもう見つけられない。

 ぐっすりと眠る佑のほっぺたを、ちょっとだけ引っ張る。

「怒ってばかりいないでよね」

 静かに愚痴ると、うーん。なんて寝返りを打ち、背を向けられてしまう。

 幼馴染君は、本当に自由でいいな。自由でいることの厳しさを解っていても、今目の前で穏やかに寝息を立てている佑を見ているとそう思わざるを得ない。

 ベッドに横たわり目を瞑る。もう一度梶さんのことを思い出せば、私はやっぱり幸せな気持ちになる。