「梶さん、カラオケに行きましょうよ」

 お店を出てすぐに、酔いのまわったあっ君が陽気に二件目の提案をした。ダイニングでのあっ君は本当に楽し気で、お酒を次々とお替りしていた。つられるように私もそれなりに飲んでいたから、ちょっと酔っている気がする。

 梶さんは、と言えば大人の飲み方で、あっ君の勢いに釣られることもなく、時々テーブルにあるおつまみを口にしてグラスを傾けていた。場所が居酒屋なんて賑やかな場所ではなくて、もっと大人の落ち着いたバーなんかだったら、きっととても絵になっていただろう。そんな梶さんの姿を見てみたい気持ちもあったけれど、私から誘うわけにもいかないし。そもそも、洒落たバーなど行ったこともないし、知らないから本末転倒だ。

 あっ君からカラオケに誘われたけれど、梶さんはちょっと困り顔だ。多分カラオケは得意ではないのだろう。知り合って間もない私から見ても、カラオケでマイクを握りしめて歌う姿などとても想像できないもの。もしも梶さんが私の想像を超えて熱唱する系なら、是非聴いてみたいけれど。

「淳史。雪乃ちゃんは、明日休みじゃないんだよ。二軒目は、なしだ」

 梶さんがあっ君を窘めた。

「えぇー、つまんないなぁ」

 あっ君はふらふらと歩きながら梶さんに抗議しているけれど、表情はとても楽しそうだ。もしかしたら、盛り上げるためにわざと我儘に振舞っているのかもしれない。

「梶さーん」

 おねだりするように再びカラオケに誘うあっ君に、梶さんも、困ったやつだなぁ、という顔を向けている。

「あっ君、大丈夫? 結構、酔ってるよね」

 ふらつくあっ君の体を支えるようにすると、しがみつくように抱きついてきて驚いた。私なんかよりずっと体の大きいあっ君だから、思わずこっちも足元がふらついてしまう。

「じゃあ、今度雪ちゃんと二人でカラオケに行く」

 きーまりっ! と、もたれかかったまま元気に叫ぶあっ君の体を、梶さんが代わりに引き受け、抱えるようにして立たせる。両足を踏ん張りあっ君を支えていたから、軽くなってほっとした。

「ごめんね、雪乃ちゃん。いつもはこんなに酔ったりしないんだけど」

 あっ君のことをフォローしなから、梶さんがタクシーを止めてあっ君を乗せた。運転手さんに行き先を告げると、あっ君にお札を握らせる。素直に乗り込んだあっ君は、後部座席の窓を全開に開けて、ニコニコとご機嫌な顔をのぞかせた。

「雪ちゃん、またねー。梶さん、雪ちゃん泣かせないでくださいよ。僕のお気に入りですからね」
「わかった、わかった」

 念を押すあっ君に笑いながら返事をすると、梶さんが運転手さんに頭を下げてドアが閉まる。あっ君は窓越しに手を振り、私もそれに応えて手を振り見送った。
 走り去るタクシーが遠ざかり、梶さんが一息つく。

「ごめんね、雪乃ちゃん」
「いえいえ。とても楽しかったです。あっ君から、あんなにお気に入りにして貰えるなんて光栄です」

 クスクスと笑っていると、梶さんが静かに見つめていることに気がつき心臓が反応した。ドキッとするような瞳と視線が合う。目を逸らすことができなくて、鳴り続ける心音が少しずつ大きくなっていく。

 そんな瞳で見ないでください。櫻子さんに向けるべき瞳を、私に向けないでください。これ以上、心を勘違いさせないで……。

 高鳴る鼓動を必死に抑えつけ、平気なふりを装った。

「私たちも、帰りましょうか」

 想いを抱えて鳴り続ける心臓に目を瞑り、明るい声を振り絞って出した。隣の梶さんを意識してしまったら、きっと私の心臓はどうにかなってしまうだろうから。

「帰る方向が一緒なので、夜遅くても安心です」

 視線を逸らしながら、また平気なふりを装った。梶さんは、私の言葉に、うん。なんて短い返事をした。
 多くの言葉を口にしない梶さんが今何を考えているのか解らなくて、私の心臓は唯々音を大きくし主張するように鳴り続ける。

「こんな夜道、一人じゃ絶対怖いですから」

 多くを語らない梶さんの代わりに、一人言葉を口にしていた。私が話すことをやめてしまったら、この静かな夜に気持ちを抑えることができなくなりそうだった。

 引っ越してきてまだ間もないこの町で、もし梶さんが居なかったら私はどうしていただろう。ああ、そうだ。いつもなら、佑を呼びつけているな。私のことをいつだって心配してくれる佑だし、時間だけは有り余っているから、不安がる私からの連絡を断ったりはしない。きっと、ママチャリをギシギシ言わせてやって来たに違いない。
 そんな佑の姿を想像すれば、安堵感が込み上げてきて、さっきまで梶さんにばかり持っていかれていた心が、落ち着きを取り戻してきた。

 声には出さないまでも、安心感に口角が上がり緊張していた頬の筋肉が緩んだ。心臓が速くなったり、そうかと思えば安堵に落ち着いたり、少し酔っているのかもしれないと、今度は夜空を仰ぐ。その勢いに任せて話題を変えた。

「櫻子さんとは、どのくらいのお付き合いなんですか?」

 どうしてか、そんな質問をしてしまった。訊いてしまってから、もっと他の話題にすればよかったと思う。だって、梶さんてば、応えるのに間が空いたから。櫻子さんとのことを話すのは、抵抗があるのかな。恋人の話を根掘り葉掘り訊かれるのを、男の人は嫌がるかな。ていうか、根掘り葉掘り訊く気は、ないけれど……。ああ、でも。ちょっとは、……知りたいかな。ただ、二人のことを知ってしまったら、つらいだろうな……。到底敵わないだろう自分を比較するのはつらすぎる。

 頭の中であっちこっちに答えが行ったり来たりしていると、梶さんが口を開いた。

「僕と櫻子さんは、大学の時からだよ。僕が一年生の時に彼女と知り合ってね。僕にとって櫻子さんは、今でも高嶺の花だな」

 高嶺の花。女性の方が年上だと、恋人同士でもそんな風に思ってしまうものなのだろうか。それとも、尊敬するからこそ、そんな表現をするのだろうか。私には、解らない感覚だな。

「それから、ずっとですよね。二人は、とても仲良しさんなんですね。いいなぁ」

 羨ましいと感じたのは、本心だった。誰かと長く好い関係を保つというのは、とても難しいことだと思うから。私には、たまたま佑という姉弟みたいな関係を築ける相手がいるけれど、それ以外で考えれば、長く付き合ってきている間柄なんて数えるくらいしかいない。社会人になってからは、美香がその一人だけれど、それだって、しょっちゅう一緒にいるわけでもない。社内では行動を共にしているけれど、一歩外に出てしまえば、たまにしか会うことはない。休みの日に連絡を取り合うわけでもない。大人になるにつれて、交友関係は狭まっていく。それは私に限ってのことなのかもしれないけれど、本当に心を許せる相手とじゃないと不安が増殖して、平穏な日常は望めないからだ。余計なトラブルはできるだけ避けて、日々穏やかな気持ちでいたい。そうなると、上辺の浅い付き合いを増やすのは、ちょっときつい。かと言って協調性がないかと言えば、そうでもない。社内でも社外でも、何か集まりがあって誘われれば、できる限り断らないようにはしている。自分からは、誘わないというだけだ。

 そう考えれば、梶さんと櫻子さんの関係というのは、本当に理想だ。お互いに好きな仕事をやり、その上ですぐ近くにいて互いを見守ることができる。意識し、向上し、助け合える二人の関係は、とても理想的だ。

「櫻子さんは、本当に素敵な方ですよね」

 櫻子さんが素敵すぎるから、私は感情を抑えるしかない。そんな風にどうにか理由を付けなければ、梶さんへの想いを押しとどめることができない。

「あんな風に、素敵な女性になりたいなぁ」
「雪乃ちゃんだって、可愛らしくて、とても素敵だと僕は思うけどな」

 社交辞令だとしても、嬉しいな。スキップしたくなっちゃうよ。

「梶さんだけですよ、そんな風に言ってくれるのは。あ、あと、あっ君と」

 言って笑う。

 あぁ、やっぱり少し酔っているのかもしれない。なんだかとっても楽しい。梶さんとこんな風に話せる時間に、幸せを感じる。この時間がずっと続いたらいいのに……。

 儚い夢を抱いて、幸せで楽しくて、口角は上がりっぱなしだ。

「雪乃ちゃん、恋人はいないの?」
「残念なことに、いないんですよ。困りました」

 肩を竦めて笑ってみたけれど、これじゃあ、あまり困っていないみたいだよね。

「そばにいてくれるのは、前に話した幼馴染くらいのものです。でも、弟みたいなもので、異性とは程遠い関係ですよ。六つも離れてるんですから。オムツも替えたことがあるくらいなので」

 両手の指を六つ立てて梶さんに向けながら、自虐気味に笑う。

「一応、ミュージシャンなんですけど、ちっとも売れてなくて。今年で契約が切れちゃうかもしれないので、今一念発起で新曲を仕上げているところです。それが売れたら、継続してもらえるみたいで」

 さらりと佑のことを話すと、梶さんが難しい顔をして応えた。

「厳しい世界だよね」

 会ったこともない幼馴染のことを真剣に考えてくれているのか、心配そうな顔をするからつい勢い込んで言ってしまう。

「もっと謙虚になればいいのに、文句ばっかり言ってるからダメなんですよ、佑は」

 わざとらしく憤慨してみせる。

「幼馴染の彼は、佑君ていうんだ……」
「え? あ、はい」

 梶さんが佑の名前に反応した。

「アレンジャーのアレンジが気に入らないとか。プロデューサーの言いなりにはなりたくないとか。口だけは、達者で。そんなの、売れてから言いなさいよって話です」

 矢継ぎ早に言うと、梶さんは真面目な顔のまま話しを続けた。

「自分の曲に誇りがあるんだろうね。そういう気持ちは、解るな。自分がプライドを持っていることなら尚更、曲げたくないところっていうのは、誰しも持っているものだろうから」

 意思の強そうな眼差しで、佑の気持ちを汲んでくれたのが嬉しかった。あんな風に話したけれど、佑の曲がどれだけ素敵なのか、私が一番よく解っている。言いなりにならず曲げたくない気持ちも、ちゃんとわかっている。冗談で言った私の裏腹な気持ちを理解してくれたような気がして嬉しかった。

「梶さんは、優しいですね。ありがとうございます」

 佑の気持ちを理解しようとしてくれたことにお礼を言うと、梶さんは小さく首を横に振った。

「それが雪乃ちゃんの優しさなんだと、僕は思うよ」

 梶さんは、また逸らすことのできない瞳で私を見つめた。