櫻子さんに頂いたコーヒーが飲み終わる前にUzdrowienieのシャッターが閉じ、お店横の路地から梶さんとあっ君がカフェに向かってくるのが見えた。さっき話した時にはよく確認しなかったけれど、Uzdrowienieの路地の奥にもSAKURAと同じように裏口があるのだろう。
 梶さんたちの姿に残ったコーヒーを一気に飲み干して、カウンター席から立ち上がる。

「櫻子さん、ごちそうさまでした」

 少し離れた場所に立っていた櫻子さんに頭を下げると、彼女がふわりと傍に来た。

「どういたしまして。また来てね」

 頷きを返すと、Uzdrowienieの方からこちらに向かってくる梶さんの姿を見つめていた櫻子さんが「梶君のこと、よろしくね」と付け加えた。

 自分の恋人を託すような言葉は、私に責任の重さを知らしめるようで戸惑ってしまう。
 櫻子さんにそんなつもりはないのかもしれないけれど、目の前にいる恋人を差し置いて一緒に食事に行くことに疚しさを覚えるには充分だった。戸惑ったまま表情をうまく作れずに苦笑いが浮かんでしまうと、櫻子さんは「雪ちゃんたら、本当に可愛い」と相好を崩した。
 私のどこが櫻子さんにとって可愛く映ったのか解らないけれど、苦笑いは加速した。

 会話をすると度々私のことを持ち上げてくれるけれど、櫻子さんの方がずっとずっと素敵で可愛らしい。清潔感のある白いシャツはいつだってピッと糊が効いていて、開襟の襟元から覗く華奢なチェーンが鎖骨の上を滑らかに流れているさまは悩ましい。後ろで一つに束ねた緩やかにかかるウェーブの長い髪の毛からは、ほんのりシャンプーの香りがしている。近くを通ると微かな香りがして、鼻腔までくすぐられてしまう。こんなに素敵な人だから、梶さんの恋人だと理解せずにはいられない相手なのだ。

 櫻子さんは、未だ梶さんの方を見つめていた。
 寂しいのだろうか。本当は、梶さんと食事へ行きたいのかもしれない。
 あっ君が一緒だとは言え。たかだか最近越してきただけの隣人が、櫻子さんを差し置いて梶さんと食事をするというのはどうなのだろう。断った方がいいかな。今更かな……。

 長く付き合っていくうえで、一緒にいられる時間がすべてではないのかもしれない。けれど、目の前で他の女性と楽しそうに食事へ出かける恋人の姿を目にしたら、寂しい気持ちは芽生えるだろう。もしも私が櫻子さんの立場なら、きっと寂しくなる。目の前に梶さんのお店があっても、お昼休憩でカフェに来て会話をすることができても。私ならとても寂しい。だって、こんなにそばにいるのに、触れ合える距離にいるのに、抱き締めあう時間は少ないだろうから……。

 そこまで感情を入れ込んでから、自分の考えていることが急激に恥ずかしくなってしまった。まるで自分が櫻子さんにでもなった気になり、梶さんへの想いにシンクロしていることは大それたことに思えた。

 私の感情を知る由もない櫻子さんに向かって、わずかに首を傾げて気持ちを誤魔化すように苦笑いを浮かべてしまう。すると、櫻子さんの眉根が少しだけ下がった。
 その表情に、どうしてか落ち着きなく胸がざわついた。櫻子さんがシャツの胸元に手をやる。一体、今何を思っているのだろう。
 考えていることがわからず苦笑いを抑えることができずにいると、カランとカウベルを鳴らしてカフェのドアが開いた。

「雪乃ちゃん」

 屈託なく声をかけてくる梶さんに、櫻子さんが小さく息を吐いたのがわかった。溜息の原因を知りたくて振り返ろうとするのと同時に、梶さんが私の手を引いた。躊躇いもなく自然ととられた手に驚く間もなく、梶さんが笑顔を向けてくる。

「行こうか」

 梶さんに手を引かれ二、三歩前に出てから、櫻子さんがこれを見て勘違いしたりしていないだろうかとドギマギした。そのくせ、握られた手を振り解くこともできず、あとをついていきながら、焦る気持ちでうしろに立つ櫻子さんを振り返る。櫻子さんは右手を小さく上げ、微笑みながら手を振っていた。その姿には、どうしてか違和感があり、心がざわざわとしていく。

「いってらっしゃい」

 櫻子さんに見送られて外に出ると、あっ君が待ち構えるようにして立っていた。

「雪ちゃん、お待たせー」

 軽い調子のあっ君の態度に、私の中に入り込んできた重くざわついた感情が平らにならされていくようだ。

「何が食べたい?」

 笑顔であっ君に訊ねられると、梶さんの手がするりと離れていった。思わず、その手の行方を目で追ってしまう。名残惜しい温もり。櫻子さんがいるのにという罪悪感を覚えながらも、さっきまで繋がっていた右手に少しだけ力を入れて、恋しさを振り切るようにきゅっと握りしめた。嬉しいと感じる気持ちをひた隠しにし、込み上げる笑顔が大袈裟にならないように気を付けた。

「私は、何でも大丈夫。好き嫌いはないので」
「いい子だねぇ」

 応える私のそばに来て、あっ君が頭を撫で撫でする。まるで小さな子供扱いだ。ある意味、間違いはないだろうけれど。

「淳史の方が年下だろ」

 梶さんが呆れたように笑って窘めると、てへへ。というよう笑っている。そんなあっ君も、子供みたいだ。

 子供二人を相手にして、梶さんは面倒に思ったりしていないだろうか。あっ君は従業員だから、そんなことは思わないにしろ。もう一人手のかかる子供が増えてしまったら、仕事終わりだというのにさらに疲れてしまったりしないだろうか。

「うち、明日は定休日だから、ちょっと飲めるところにしようかと思っていて、いいかな?」

 駅方面に向かって歩きながら、梶さんが訊ねる。のぞき込まれた目が優しくて、見続けることがつらい。

 そんな優しい目で見ないでください。

 膨れていく感情に歯止めが利かなくなっていくことが怖くてつらかった。

「もちろんです」

 笑顔で応えた裏側の感情を読み取られないよう、すぐに目を逸らす。なるべく自然にあっ君の隣に並び、梶さんから距離を置いた。今私にできる精一杯だ。

 向かったのは、洋風ダイニングの居酒屋さんだった。店内は大いに賑わっていて、とても平日とは思えない。それでも、案内された個室に入ると、喧騒も和らいでゆっくりと楽しめそうだ。
 席は、四角いテーブルを挟んで左右に座るように設置されていた。私が右側へ入っていくと、あっ君が続いて入り隣に腰かけた。

「やった。雪ちゃんの隣ゲット!」

 梶さんは苦笑いを浮かべて、私とあっ君の向かい側に座った。

「梶さんに、雪ちゃんは渡しませんよぉ」

 冗談を言って、最初から盛り上げてくれるあっ君は本当に面白い。あっ君が楽しませてくれるお蔭で、苦い感情を抑えつけることができる。

「あー。雪ちゃん、僕のこの気持ち、本気にしてないでしょ」

 わざと膨れて見せてはいるものの、やっぱり可笑しい。
 梶さんはといえば、あっ君の自由な振る舞いに困惑顔だ。こういう冗談は、あまり好きではないのかもしれない。バカ騒ぎするようなタイプには見えないし、きっとお酒の席では静かな大人の時間を過ごす人なのだろう。私みたいな子供では、相手になどならないのだろうと思うと申し訳なくなる。
 櫻子さんと二人なら、優雅で落ち着いた大人の時間を過ごすことができるんだろうな。静かなバーのカウンター席で隣り合いながら優雅にグラスを傾ける、そんな二人は容易に想像できた。

「何でも好きなものを頼んで」

 梶さんがテーブルの脇に立てかけられているメニューを取り、私に向かって手渡してくれる。メニューを受け取ると、「では、遠慮なく」とあっ君が代わりに応えるものだから、また可笑しくて笑ってしまった。梶さんも、流石に笑っている。

「雪ちゃんは、OLさんなんだよね」

 一通り料理と飲み物を注文してメニューを置いたところで、あっ君に訊ねられた。

「そうなんですよ、あっ君。これでも社会人なんですよ。見えないかもだけど」

 子供扱いされているのがわかるから、つい肩を竦め自虐的になる。

「バリバリ働く系?」
「そんな風に見える?」
「見えない」

 言い合って二人でクスクスと笑った。

「あっ君は、大学生だよね。将来は決めてるの?」
「うーん、一応はね。IT会社立ち上げようと思ってて、すでに動き中」

「へぇ~。機械が得意なんだね、羨ましい。私は機械音痴だから、何かあるとそのたびに頭を抱えてる」
「雪ちゃんのところになら、いつでもお助けに行っちゃうよ。雪ちゃんの家、梶さんちの隣でしょ。場所は、把握済みだから」

「淳史、その発言はストーカーみたいだから、やめておけ」

 梶さんに言われたあっ君は、世の中世知辛いねぇと渋い顔だ。

「うちのホームページも、淳史が色々と考えてやってくれてるんだよ」
「すごいね、あっ君」
「でしょ。尊敬した?」

 得意気な顔を向けるから、うんうんと頷いた。

「それにしても、梶さんはいいっすよねぇ。こんな可愛い雪ちゃんがお隣に越してくるなんて。いつでも会いに行けるじゃないですかぁ」

 あっ君が唇を尖らせて冗談を言うから、可笑しくてならない。隣に住んでいるからと言って、友達のように行き来する間柄ではない。寧ろそんなことなどしたら、櫻子さんに申し訳が立たない。

「雪乃ちゃんにだって、都合はあるよね?」

 巧くかわしてくれた梶さんに、そうですね。と笑って返した。
 その後もあっ君は、屈託なく色々な質問や話題を繰り広げ、楽しい場を作り上げてくれた。誕生日を訊かれたり、出身地を訊かれたり、今まで付き合った彼氏の数まで訊かれて、あまりにグイグイ来るからちょっと困ってしまうところはあったけれど、それでも楽しい時間を過ごすことができた。

「梶さんも、大学在学中から、Uzdrowienieの計画を立ててたんですよね?」

 あっ君が梶さんのことを話し始めた。

「そうだね。以前、雪乃ちゃんにも少し話したけれど、叔母がポーランドから家具やインテリアの仕入れをしているから、その延長線上で店を出してみないかって提案されてね。叔母の影響で、元々ポーランドの雑貨には興味を持っていたから、いい話だなってすぐに食いついたよ。大学のうちにみっちり勉強したし、させられた。卒業して店を持てたことは、夢のようだったよ」

 懐かしさを振り返るように、穏やかに話して聞かせてくれる。その表情は、夢心地とでも言ったらいいのかな。好きなことを仕事にできている人特有の幸せな表情だ。

「すごいですねぇ。私なんて、毎日何となく会社に通って、毎月のお給料だけが楽しみな生活ですよ。特に今の仕事が好きなわけでもないし。かと言って、何かやりたいことがあるわけでもないし。社内環境は悪くないので、居心地はいいですけどね。だから梶さんや櫻子さんみたいに自分のお店を持てちゃう人って、本当に尊敬します」

「俺は?」
「あっ君も尊敬してるよ」

 催促に付け加えるように応えて笑っているうちに、注文した飲み物や料理がテーブルへと運ばれてきた。
 たくさん話したせいかとても喉が渇いていて、三人で乾杯した後、頼んだカクテルを半分ほどまで一気に飲んだ。

「雪乃ちゃんて、お酒に強いのかな?」

 いい飲みっぷりだったせいか。それとも、ビールよりアルコール度数の高いカクテルだったせいか、梶さんが興味あり気に訊ねる。

「そうでもないです。ちょっと喉が渇いていたので、一気にいっちゃいました」

 肩を竦めると、あっ君が箸を渡してくれた。気が利きます。

 あっ君と二人、届いた料理を次々にお腹へと収めていく。あっ君は細いのによく食べるし、私も食べるのは大好きだから箸が止まらない。ついでに、アルコールも進んで、あっ君はビールを何杯もお替りしていた。私も物珍しさから、あまり飲まないカクテル類をメニューの端から順番に頼んでいった。

 梶さんは、そんな私たち二人を向かい側から穏やかな瞳で見つめていて、時々相槌を打ったり、時折会話に混ざったり。大人の雰囲気が滲み出ていた。その瞳と目が合うと無性に照れくさくて心が騒ぎだす。櫻子さんは、いつもこんな穏やかな瞳で梶さんに見つめられて、そして見つめ返しているのだろうか。

 羨ましいな。

 想いが湧き上がってくるたびに、ゴクゴクとカクテルを喉に流し込み、あっ君と冗談を言い合い、食べ物を咀嚼して口角を上げ、膨れ上がる感情を抑えつけていた。