平日真ん中水曜日。随分とのんびり過ごした、長いゴールデンウイークは終わっていた。
 この間に、私はSAKURAで常連扱いをしてもらい、Uzdrowienie(ウズドリャビャニャ)では、あっ君と仲良しになり、梶さん自身から雪乃ちゃんと名前で呼ばれるようになっていた。
 櫻子さんがそばにいない時に梶さんから名前で呼ばれると、いけないと思っても心は正直に反応をする。けれど、櫻子さんがそばにいる時は雪乃ちゃんと呼ばれる度に顔色を窺っていた。そんな後ろめたさを浄化でもするみたいに、あっ君はいつもそばに来て笑いを巻き起こしてくれていて、なんてありがたい存在だろうと思っている。

 定時に仕事が終わり、一旦家に戻る。
 今日は、エプロンと引き換えに梶さんからお願いされていた用事のある水曜日だ。時間が欲しいと言われたけれど、それがなんなのか、まったくと言っていいほどわからないし想像ができない。

 ちゃんと訊けばよかったな。

 とにかく、スーツ姿では堅苦しい気もするので、普段着に着替えてからお隣のインターホンを押した。
 やたらと緊張しながら立っていると、すぐに梶さんの声が聞こえ、ドアが開いた。

「わざわざごめんね。じゃあ、行こうか」

 相変わらず何の説明もないまま、梶さんは鍵を閉めて先を歩きだす。どこへ行くのか訊ねることもできないまま背中をついていった。

 マンションを出てから大通りに向かって歩くと、タクシーを一台止める。後部座席に二人で乗り込むと、梶さんが港区の方へと行き先を告げた。混みあった道路を行き、車のライトや街のネオンが眩しい大通を抜け、しばらく進むと路地へとタクシーは入っていく。たどり着いたのは、どうやらポーランド料理のお店のようだ。

「うちの叔母が、ここに家具を卸したことがあってね。その時に料理をいただいてから、僕が気に入ってたまに顔を出しているんだ」

 お店は料理店というよりも、外観は日本のカフェに近い雰囲気を持っていた。店内は、家庭的で暖かみのある優しいオレンジ色の光に溢れていた。使い古されているけれど、とても丁寧に扱われているのがよく解る、楕円形の大きなテーブルを中心に、二人掛けのテーブルもある。Uzdrowienie(ウズドリャビャニャ)にあるような雑貨も所々に飾られていて、とても親近感がわいた。

 敢えて、大きなテーブル席に座る梶さんの隣に私も座る。テーブルの真ん中には、小さなレースのテーブルクロスが敷かれていて、鉢植えが置かれていた。天井は、あまり高くない気がする。
 上を見上げていたら、梶さんがほほ笑みを向けた。

「ポーランドの家はね、天井が低い造りが多いんだ。それで、つい足元にものが集まりがちになるらしくて、だから、あれ」

 梶さんが視線で示した先には、天井からハンキングプランターがぶら下がっていた。ぷっくりとした白いポットのような鉢に、綺麗な花が活けられている。あんな風に低い天井からぶら下がっていたら、邪魔にならないのだろうか。

「ポーランドの人は、使い勝手よりも、素朴でいてお洒落で、穏やかな雰囲気を求めているんだよ。だから、綺麗なレースの敷物も、汚れてしまうことなど気にせず、キッチンにも平気で飾る。それに、小さめの観葉植物も、よく飾るんだ。人は、緑があると気持ちが落ち着くからね」

 説明しながら微笑む梶さんの方が、癒しの効果は絶大だ。

「ゴテゴテとたくさんの花は飾らない。シンプルに三種類か四種類。窓辺のカーテンに、テーブルクロスのレース。どれも汚れてしまってはもったいないと思わせる繊細なデザインなのに、躊躇することなく使う。それから、気がついたかな」

 梶さんの視線を辿った先には、家族写真がたくさん飾られていた。

「ポーランドっていう国はね、とても複雑で辛い歴史を乗り越えてきたから、何よりも家族を信じ、一番に大切にしているんだ。僕は、そんな国のそんな人たちが大好きでね」

 優しいまなざしは、眩しくてたまらない。

 このお店は、ポーランド人の奥さんと日本人の旦那さんが細々と営んでいる。奥さんを愛する旦那さんが、実家だったこの家をポーランドの建物のように改築して、奥さんのために沢山の家族写真を飾っているのだそうだ。

「梶さん、いらっしゃい」

 イントネーションの違う日本語と微笑みで迎えてくれたのは、梶さんが話してくれた奥さんだろう。私にも素敵な笑顔をくれた。

「お腹空いてるよね。何か食べよう」

 メニューを開き、嫌いなものがないか訊ねられた。幸いなことに、特に嫌いなものはない。出されたものは、大概美味しくいただける。

 メニューに載っている料理は写真付きの物だったけれど、どれも聞いたことのない名前ばかりだった。梶さんが注文したのは、たっぷりと作られた具沢山のキノコのスープ、グジボヴァというもの。それから、見た感じは日本のロールキャベツのようなもので、ナイフで切るとお肉だけじゃなくてお米も入ってるゴウォンブキ。トマトソースの酸味はあるけれど、口に入れるとキャベツがよく煮込まれていて、まろやかでとても美味しい。

 頼んだ料理は、どれも一人で食べるには量が多く、二人でシェアして食べるように作られているように思えた。これも家族を大切にする、ポーランドならではの料理の作り方なのかもしれない。一緒に食べることで、家族の時間を作ることができるだろうから。

 キャベツの美味しさに頬を緩め、温かなスープにほっとする。

 こんな素敵なお店なら、櫻子さんともよく食べに来るんだろうな。私なんかが、梶さんと一緒に来ちゃっていいのだろうか。

「ここには、櫻子さんとも一緒に来るんですか……?」

 なるべくさり気なく訊ねたつもりだったのだけれど、梶さんの反応は戸惑い気味で、ちょっと間が空いた。

 ああ、質問を間違ってしまったかもしれない。なんだか、変な空気になってしまった。

「えっと、どうして、櫻子さん?」

 訊ね返されて、え? なんて更におかしな空気を上乗せしてしまった。
 二人で顔を見合わせ、同時に首をかしげると、なんだか可笑しくなって笑ってしまった。

 恋人同士の二人の日常を訊ねるなんて、無粋だったかな。

 噛み合わない話は置き去りにされたまま、私たちはポーランド料理を堪能した。ポーランドでは煮込み料理が有名で、このキノコのスープ以外にも、ジャガイモやソーセージ、赤カブを使ったボルシチなどがあると教えてくれた。
 煮込み料理は、日本人の口によく合うみたいで、僕はとても好きなんだとと梶さんは話してくれた。

「このお店はね、ずっとショパンの曲を流しているんだ。ショパンはね、ポーランドの首都ワルシャワ近郊の村で生まれたんだよ。その後すぐにワルシャワに移転して、二十歳まで暮らしていたんだ。ワルシャワは、ショパンの故郷なんだ」

 ショパンの音楽に耳を傾けながら、梶さんが話を続けた。

 夏場は、ワジェンキ公園というところで無料のコンサートが開かれるとか。生誕二百年にショパン博物館がリニューアルされたとか。三十九歳という短い生涯をパリで終えたショパンは、自分の心臓をポーランドに戻して欲しいと遺言に書いたとか。クラクフ郊外の通りにある「聖十字架教会」にはショパンの心臓が安置されているらしいとか。

 ポーランドの話をしている時の梶さんは、とても目を輝かせ生き生きとしていた。まるで宝物でも見つけた少年ようだ。こんな風にキラキラとした瞳で楽しげに話す梶さんを見ていれば、ポーランド雑貨のお店を開いた理由も解る気がした。

 ひとしきり料理を堪能してから、お店を出たあと肩を並べて歩いた。
 梶さんが話してくれたポーランドの話は、じわじわと私の心に浸透していった。特に、家族に対する愛情の深さに心を惹かれた。

 ポーランドという国は、社会主義という国家の中で、戦争や蜂起でたくさんの命が奪われた。互いを信じ、手を取り合い助け合えるのは、家族しかなかったという。ポーランドという国を詳しく理解しているわけではないけれど、悲しみの多い国だったことは理解している。だからこその家族愛なのだろう。

 ポーランドの話を聞いたら、実家の母へ電話をしたくなった。特に話すこともないけれど、元気にしてた? そんな風に話すだけの連絡だっていいよね。

 一緒に歩きながら、帰る場所が同じというのが嬉しくて自然と頬が緩む。恋人同士でも家族でもないのに、帰る場所が一緒と考えるだけで口角が上がってしまうんだ。櫻子さんがいるのだから、浮かれちゃいけないとは思うのだけれど、こんな時の私はなんとも正直なようだ。

「雪乃ちゃんは、いつもニコニコしてるね」

 心の中を見られた気がして、顔や耳が一瞬で熱くなる。

「ポーランド料理は初めてで、楽しかったし美味しかったので」

 誤魔化すように、つい早口になる。実際初めての料理だったけれど、梶さんが言うように、ポーランド料理は日本人の口にとても合うように思えた。

「梶さんといると、知らないことがたくさんで、とても楽しいです」

 これは、本当に正直な気持ちだった。周りにはなかった世界をたくさん知ることができる。多分今までもポーランドの食器を目にしてきたことはあっただろうし、ポーランドという国の存在も理解していた。けれど、こんな風にポーランドの雑貨や食器を色々と手に取るタイミングもなかったし、ここまで詳しく知る場面もなかった。この町に越してきて、お隣に梶さんが住んでいたおかげで、それこそ宝物でも手に入れたように私の日常は輝いている。

 梶さんを見ると、優しい瞳が私のことを見つめていた。

「僕も、雪乃ちゃんといると、とても楽しいよ」

 梶さんの一言で、不意に空気が止まった。心臓が高鳴り始める。見つめられる瞳に吸い込まれそうになる。

 足を止めた梶さんにつられるように立ち止まる。近くの道路を通る車の音が、少し遠のいた気がした。すれ違う人もまばらで、街灯が等間隔に道を照らしていた。私を見ている梶さんの瞳は魅惑的で、今までにはないものだった。
 見つめられる瞳に恍惚として、視線を逸らせない。

「ねぇ、雪乃ちゃん――――」

 名前を呼ばれ、心臓が反応する。けれど、梶さんが口を開いたのと同時に、バッグの中に入れていた私のスマホがメロディーを奏でだした。言いかけた言葉を知りたいのにメロディーは鳴りやまず、梶さんは表情をいつもの穏やかな雰囲気に変えてしまった。
 期待してはいけないはずだったのに、しっかりと期待したこの瞬間に羞恥心が込み上げて、急激に恥ずかしくなっていく。

 着信で話を遮ってしまったことを謝ると、微笑みを向けながら、とても穏やかでいて、だけどほんの少しだけ残念そうな表情をする。何か大事なことを言おうとしたのかもしれない。

 期待数値は、バッグのスマホを手に取ることを躊躇うくらいに大きい。
 振り切れない気持ちにモタモタとスマホを取り出し画面を見ると、電話の相手は佑だった。梶さんに少しだけ背を向け離れてから通話に出る。要件は、週末に行くからご飯を食べさせてくれという、いつもの集りの電話だった。空気の読めない佑からの着信に、ついため息が漏れる。
 しょうがないなと肩を竦めて通話を終えると、お友達? と訊ねられた。

「家族同然の弟みたいな幼馴染なんですけど、手が焼けちゃって大変です」

 わざと呆れたように肩を竦めると、微笑みを向けられた。

 その後、さっきのような状況には一切ならず。来た時と同じようにタクシーを捕まえ帰路についた。マンション前でタクシーから降り立ち、エレベーターに乗り込みながら、またお店に行ってもいいですか? と訊ねると、もちろんと笑顔が返ってきた。

「雪乃ちゃんが来てくれると、店内が明るくなるし。僕の仕事もはかどるよ」

 どこまで本気なのか、営業トークなのかも解らないけれど嬉しい返答だった。

「あまりお邪魔にならないようにしますね」

 笑みを添えながら返し、梶さんの家のドアの前でおやすみなさいを言った。

「おやすみ、雪乃ちゃん」

 梶さんの挨拶を聞いてから歩き出す。お隣のドアがゆっくりと閉じる。パタリと閉じて梶さんを隠してしまったドアを少しの間だけ眺め、さっきみつめられた瞳を思い出していた。

 恍惚としていた彼の瞳に、心は否応なく勘違いをし始めていた。