ゴールデンウイーク最終日。佑がママチャリに乗ってやって来た。彼の移動手段は、マイカーと呼ぶ随分と年季の入ったママチャリだ。佑のお母さんが使っていたものをお下がりでもらい、自分は新しい自転車を買ってプレゼントしていた。お金なんてないくせに随分と見栄を張ったと、その当時佑の優しさをヒシヒシと感じながらもからかった。

 そんなママチャリの荷台に乗せてもらったことは何度もあって、うまくいかない二人の現状に文句たらたらの帰り道とか。彼氏にフラれた私の憂さ晴らしに、遠出するぞ。なんて、まるで車でも運転するみたいな言い方で、川沿いを二人乗りした。
 新しい曲ができた夜に叩き起こされて、深夜荷台に乗って夜の大通りを歌いながら走ったこともある。思い出すと、ホント、どうしようもなく、くだらないことばかりしてきたな。

 そういえば、二人乗りなんてしてるから、警邏中の警官に注意されたこともあった。当時佑はまだ高校生だったから、私が散々怒られたんだよね。へこへこと頭を下げる私の横で反省している素振りで俯きながらニヤニヤしている顔が見えて、あとからひじ打ちしたっけ。今思い出せば笑えてしまう話しだ。

 こんなくだらないことは、佑とだからできるんだ。小さい頃から姉弟のように過ごしてきたから、自分の情けないところも、弱いところも、ダメなところも、全部躊躇うことなく見せられる。
 これが好きな人だったら遠慮しちゃうし、よく思われたいし。乙女心というやつに、普段の自分を少なからず抑え込んでしまうだろう。

 父が不意にこの世からいなくなってしまった日も、私はぐちゃぐちゃの顔を佑に見せて泣き続けた。突然のことに心はついていかず、辺り構わず声を上げ泣いた。

 母はそんな私の背中をさするようにしてくれていたけれど、その母だって突然の出来事に世界は色を失っていたはずだ。二人きりになってしまった私たち家族のそばで、無垢な笑顔を見せ、小さな手で私の手を握り。抱っこしてと近づいてきた小さな佑を抱きしめた時。生きている人の温もりは、体中を包み込むように温かくて、佑を抱きしめる手を解くことができなかった。佑という六つも年の離れた小さな男の子の存在は、母と私にとってかけがえのないものだった。

 高校生になり、身長もグンと伸び、男らしさが増した佑は、心強い存在にもなっていった。男手がなくなったら困るだろうと、力仕事があれば何も言わず当たり前のように手伝ってくれた。共働きだった佑の両親も、あんまり役に立つ気はしないけどと、冗談交じりに佑をうちに寄越してくれた。家で一人留守番させるよりも、星川家にいる方が安心だからとも言ってくれていた。佑の家族の気遣いがどんなに心強かったことか。

 空いてしまった父の穴を埋めるのは容易いことではないけれど、そこから目を逸らして貰えることが、この時の母と私には必要だった。この先も生きていくためには必要だったんだ。

「スタジオで、デモ音源作ってきたんだ」

 部屋に上がり込んだ佑は、冷蔵庫の中を物色してペットボトルのコーラを取り出しベッドに座る。体を受け止めるスプリングの反応を確かめてから、赤いキャップを捻り喉へと黒い炭酸飲料を流し込んだ。

 ゴールデンウイーク中は、とてもいい天気で夏日が続いていた。この近くにアパートを借りている佑は、たかが自転車で五分とはいえ、マイチャリを走らせてきたものだから喉が渇いているのだろう。コーラを喉に流し込む音が、ゴクリゴクリとこちらにまで聞こえてくる。

「お腹は?」
「ぼちぼち」

 一先ずSAKURAで買ったクッキーをベッドの前にあるローテーブル置いたあと、キッチンへと戻りお湯を沸かしてコーヒーの準備をする。

 コーヒーの粉が収まる、缶の蓋を開ける瞬間が好きだ。ため込んでいた香りを缶の中から放出するその瞬間は、たまらなく幸せな気持ちになる。シューシューと、小さなSLのように音を出す薬缶の火を止めフィルターの周りからゆっくりとお湯を注げば、さっき感じた幸せにプラスして、コーヒーのいい香りが部屋の中を漂い始める。

 梶さんにもらったマグカップにコーヒーを注ぎローテーブルに置くと、いつも見ない新しい食器にほんの僅かだけ視線をやる佑だけれど、特に何か言うでもない。それほど興味はないのだろう。

 ミュージシャンというのは一様にそうなのか。私はその手のことに詳しくないけれど、佑はマルチプレーヤーだ。普段は、ギターを弾いている姿しか周囲には見せないけれど、実際は鍵盤もできるし、ドラムだって叩ける。

 何度かスタジオに付き合わされてその姿を見ている私は、なんて器用なのだろうと感心していた。私が弾ける楽器といえば、小学校の頃に授業で習った鍵盤ハーモニカや縦笛くらいのものだ。それだって、今弾けと言われても、すっかり忘れてしまっているだろう。

 コーラを一旦ローテーブルに置いた佑は、ジーンズのポケットからスマホを取り出し操っている。少しすると、曲が流れだした。音源は、ギターの音から始まった。優しくつま弾く弦のあとに佑の声がのる。

 この曲は、前に鼻歌で聴かせてくれたやつだ。

 ギターが一つ加わるだけで、曲に色が出る。歌詞があると、感情が見える。声が、気持ちが、聴いている人の心に、優しく穏やかに向かってくる。

「いいね。すごくいい。前のより、ずっとよくなってるよ」

 私は、佑の声が大好きだ。優しく語りかけるようなソフトな声質なのに、一度聴いたら強引なほどに耳から離れない。ううん。心を掴んで放さない。

 ローテーブルの前に座り、目を閉じ、流れてくる音楽に耳を傾けた。
 淹れたコーヒーが冷め始め、SAKURAのクッキーに手もつけず、佑の作り出した音楽に耳を傾け続けた。時折瞼を持ち上げてみると、佑もコーラをテーブルに置いたまま、自らの音に耳を澄ませるように聴き入っていた。

 どうしてだろう。この曲は、いつかの夜を思い出す。そう。仕事を始めたばかりの私が、初めてのことばかりに四苦八苦し、悩んだり凹んだりしていた時で。佑は、夢を諦めきれずに追い続け、学業の傍ら事務所が用意した路上ライブや、小さなライブハウスでの活動に明け暮れていた時だ。

 お客の入りが悪い日は、決まって佑は家の近所にある公園に私を誘った。じっとりと汗がにじむような蒸し暑い夜でも、手がかじかむくらい寒い冬の夜でも、冷たいコーラを片手に滑り台のてっぺんに上って、少しでも高い場所へ行くんだというように夢を語った。

 自分たちのふがいなさを笑っているのか、気にするなと言っているのか、どういうわけか夜空は決まって晴れていて、一つ二つしか見えない都会の星に向かって愚痴をこぼすんだ。

 気に入らない上司の愚痴を吐き出して、事務所の売り方がへたくそだとぼやいて、コーラの炭酸に顔を顰めながら飲み干した。

「早く堂々とビールを飲めようになりてぇ」

 イタズラに笑う佑に、「未成年の時期を堪能しなさい」と笑った。

 自分たちに足りないものが多すぎることを知っていても、どうすれば補えるのか解らなくて、ただただ愚痴をこぼし、炭酸の刺激に顔を顰めていた。この曲は、そんな夜に似合う。あの時の夜を思い出すような曲だった。

「懐かしい気持ちになるね」

 スマホが沈黙して数秒後、ぽつりと呟いた。いつの間にかベッドに寝転がっていた佑がムクリと起きあがる。

「公園の夜だろ?」

 得意気な顔の佑に頷きを返すと、ちょっとだけ苦い顔をして目を伏せた。

「事務所の契約が、あと半年で切れる……」

 ベッドの上で座りなおす佑を見たまま、私の目が見開いた。声にならない、え……。という呟きが自分の耳の奥だけに強く響いた。

 中学になり、佑はいくつかの事務所に自分のデモ音源を持参して訪ねていた。短大へ進学していた私は、土日になると、そんな佑に付き添って事務所まわりをしていた。

 音源の持ち込みをしてくる人なんて、きっと掃いて捨てるほどいるのだろう。曲をまともに聴いてくれることもなく、追い返されるなんてざらだった。最悪なのは、話を聞きもせず追い返され、頭を下げてデモ音源をデスクに置いていくと、背を向け歩き出した私たちに聞こえるように、その音源をゴミ箱へ投げ捨てるなんてところもあった。
 あの時、拳をきつく握り、体を震わせながらも、怒りを抑え込んだ佑の姿は忘れられない。

 そんな佑を拾ってくれた今の事務所は、曲が売れなくてもずっと契約の更新をしてくれていた。けれど、このままではもう無理だろうと、佑を切る決意をしたのだろう。現実というのは、本当に厳しい。やる気や努力だけでは、どうにもならない。数字として結果を出せない者を、いつまでも抱え込んでいることはできないのだ。

「継続、できないの……?」

 不安なのは佑なのに、訊ねる私は気を遣う余裕もなくて、声が震え、顔が強張ってしまった。
 佑は、返事をする代わりに、この曲で勝負する。と力強く言い切った。決意を胸に抱いた佑の表情は、あの夜公園で見せた力強い輝きを放っていた。

 大丈夫。絶対に大丈夫。この曲なら絶対に売れる。

 ストレートすぎる気持ちを言葉にするのは少しだけ照れくさくて、心の中で強く思い、それ以上に強く願った。
 だって、こんなに素敵な曲ができたのだから。こんな曲を作ることのできる佑を、事務所が見捨てるはずがない。きっと、佑のやる気や才能を引き出すために、敢えて契約のことを持ち出したに違いない。

 そんな風に必死に思おうとしている私の気持ちがわかるのか、佑が穏やかで優しい目を向けた。
 まるで、私自身のことで落ち込んでしまったような顔をしているからだろう。

 こんな時の自分は、本当に情けないと思う。佑の力にならなきゃいけないのに、不安な顔をしてしまうなんてダメじゃない。

「この曲が売れたら、親孝行でもすっかな」

 私の気持ちを少しでも軽くしようとしてか、佑がおどけた調子で言いながら、炭酸が抜け始めてしまっただろうコーラを再び手にして口へと運んだ。

「ぬる……」

 不味そうな顔をしつつもコーラを飲み、平気なふりをする佑に、私も気持ちを切り替えた。

「それいいね。おばさんに、迷惑かけてばっかりだもんね」
「雪乃が言うかよ」

 片方の口角を上げて、佑が皮肉った顔をした。

「私にも親孝行してね」
「なんのだよ」

 クックッと笑う佑に、幼馴染孝行。とにんまり笑顔を向けると、仕方ねぇなぁ、とばかりに口角を上げた。

 佑の夢が叶うようにと、強く願う夜だった。