春は、別れの季節と共に出会いの季節でもある。卒業シーズンの今頃は、花束を抱えた学生が寂しさや不安と一緒に希望も抱え涙を流している。そんなこの季節に、私、星川雪乃は人生初の引っ越し最中だった。母と二人で住んでいた実家の一軒家を出て、単身者用のマンションに越してきた。
 母一人子一人で暮らしてきたせいか、ずっと離れることを躊躇ってきたのだけれど、春を機に一大決心をしたのだ。

 看護師をしている母がお正月を前にして「そろそろ、一人暮らしをした方がいい」と言い出した。いずれそういった話が持ち上がる気はしていたものの、実際言われてしまうと驚いたのは否めない。

 母との関係性は悪いものではなく、お互い干渉し過ぎないところがあるおかげで、巧く折り合いをつけ生活できていた。だから、なかなか離れて暮らすという気持ちになれずにいたのだ。とは言っても、その可能性を全く考えず、お気楽に今まで暮らしてきたわけでもない。母を一人にするのは確かに心配だけれど、お互いに自立するのは大事なことだ。母がまだまだ元気に働いている今だからこそ、少し離れて親のありがたみを知るいい機会に思えた。

 一人暮らしには、興味もあった。いつこんな日が来てもいいようにと大学生の頃から地道にバイト代を貯め、就職してからも貯金は欠かさなかった。そして、とうとうこの日がやって来た。

 引っ越し前日。荷物をすっかり片づけた私は、夜勤明けの母と軽くお酒を飲み、親子二人の時間を過ごした。この先一生離れて暮らすわけでもないのに、母は小さい頃の私の話を懐かしそうに口にした。普段から弱音など吐くタイプではないし、どちらかというと笑い上戸で明るい性格をしている母と、こんな風にしんみりとお酒を飲むことになるとは考えもしなかった。自立のためにと母から提案したものの、やはり寂しく思ってくれているのだろう。

 そんな母は、今頃ベッドの中でぐっすりと眠っているのではなかろうか。引っ越し日が決まった当初は手伝いをすると言っていたけれど、急に人が休んでシフトがきつくなってしまった母は、連勤が続き休みなく働いていた。今日が久しぶりの休日なのだ。そんな貴重な休みに、大変な引っ越し作業を手伝わせるほど私は鬼ではない。しかし、ゆっくり寝ていてねとは言っても、引っ越し業者が出入りしていて落ち着かないせいか、見送りにだけは起きてきてくれた。

「いってらっしゃい」

 玄関の上がり框でカーディガンを羽織った母は、眠そうな疲れた顔に笑顔をいっぱい浮かべて、まるでちょっとそこまで出かける娘を見送るようにしている。気取らず、サッパリとした性格の母らしい。

 何はともあれ、今日からは心機一転このマンションでの一人暮らしが始まる。築年数はそれほど新しいわけではないけれど、小綺麗に手入れされている外観や、管理の行き届いている単身者用のマンションだ。エントランスは、オートロック。ゴミ捨て場は一階外の別建物にあり、いつ捨てに行っても咎められないのは嬉しい。

 引っ越し業者は、つい数十分前にすべての荷物を室内に運び入れ作業は終了していて、お礼の缶コーヒーと心づけを少しばかり渡して見送った後だった。室内は、玄関からすぐに四畳半のダイニングキッチン。その奥に八畳の部屋。南向きの窓辺に配置してもらったベッドに、元々造りつけられているクローゼット。実家から持ってきた小さめの書棚にローテーブル。お気に入りのハート形のクッションが、まだ雑然と荷物が散らばる部屋の床に二つ転がっている。

 そういえば、ハートのクッションを目にし「雪乃って、意外と乙女だよな」とからかったのは、幼馴染である六歳年下の大友佑(おおともたすく)だ。

 (たすく)は、度々うちの実家にやって来ては、一緒に食事をしていた。そんな佑へ、意外とは余計だと不貞腐れて言い返した時のことを思い出し、可笑しさに口角が上がる。

 佑の家は共働きで、母親は料理が不得意だからか、あまり食事の用意をしたがらない。近所のスーパーやデパ地下で買ってきたお惣菜か。あるいは、佑に千円札を握らせ何か買って食べるよう言い置いていた。おかげで、手料理に飢えている佑は、母親が置いていった千円札は自分の懐に捩じ込んで、うちの食卓で度々箸を握っていた。母親同士が学生時代からの大の仲良しだからいいものの、こんなに頻繁にやって来てはご飯をせびる近所の少年など、普通は迷惑なだけだ。

 まー、何を言っても佑はきく耳など持ちはしないだろうけど。

 六歳も年が離れているということもあって、私も可愛い弟のように思っているから、当然のように日々食卓に着いていても大目に見てしまうのもよくないのかも知れない。

 リビングと奥の部屋に積み上げられた引っ越し業者の名前が印字された段ボールを開け、忙しさの合間を縫って詰め込んだ荷物を引っ張り出す。引っ越しの嫌なところは、やっとの思いでまとめた荷物を、またすぐに出さなくちゃならないところだろう。この作業さえなければ、新天地でのワクワクするような高揚感だけを保っていられるのに。

 一つ息を吐き出し、肩先より少し伸び始めた髪の毛を一つにまとめた。ヘアゴムできゅっと縛り上げれば、やる気も上がるだろう。実家の自室は狭いと思っていたけれど、段ボールにまとめた荷物は二十個ほどにもなっていて、その数を見ただけでため息が出てしまう。

 またいつ引っ越しすることになるかわからないから、今度からはあまり荷物を増やさないようにしよう。そうは思っても、初めて自分一人の城を手に入れた事で、あれやこれやと欲しい物がでてきてしまう。なので、今考えたことなど荷物が片付いてしまえばすぐに忘れてしまうことだろう。

 ほんのり首筋が暑い。少しだけ荷物を片付ける手を休め、小さく息を吐いた。窓辺から入る陽の光が、春色の柔らかさをもち部屋の中に入り込んでいる。窓辺に寄り外を眺めてみても、特に景色がいいわけではない。都会特有の戸建てやマンションに、細い路地が見えるくらい。あとは、二つ設置されている近くの自販機が見えて、すぐそばにあるコインランドリーから仄かな洗濯洗剤の匂いがするだけ。それでも、新しいこの場所に、期待や希望が膨らんでいた。

「どんな町だろう」

 まだカーテンをつけていない窓を開け、暖かな陽気と春風に向かって呟き、物件探しで少しだけ周辺を見て回ったときのことを思い出した。

 コンビニが近くにあって、商店街もわりと近い。大き目の量販店がおさまるスーパーは、便利そうだった。ほかにも興味を引くような店があるような気がして、早く荷物を片付けて出かけたくなる。

「よしっ。もうひと頑張りしよ」

 それにしても、今日は佑が手伝いに来る予定のはずなのだけれど、一向に現れる気配がない。元々、ちゃらんぽらんなところのあるやつだから、それほど期待はしていなかったけれど、連絡さえしてこないというのはどういうことか。
 メッセージの届かないスマホの画面を睨みつけたところで、わざわざ催促するのもあとで何を言われるかと嘆息する。

 佑は、今年大学生になった。家が隣同士で、私たちは佑が生まれた時から姉弟のように過ごしてきた間柄だ。佑のオムツを替えたことだってあるくらいだから、私からしてみれば息子と言っても過言ではない。しかし、この話をすると、佑は自尊心を傷つけられるのか、ひどく嫌がるのであまり言わないようにしている。年頃というやつなのだろう。

 佑は、私よりずっと年下のくせに、大概は上から目線で物を言い、給料日を狙ってやって来ては、食事をたかりに来るのだからたまらない。「君はヒモですか」と呆れて言ってみても、ケラケラと声を上げて笑うだけだ。そうやって文句を言い合ってはみても仲はいい。本当にお互いが姉弟のようで、家族のようで、この関係はきっと一生続くのだろうと思っている。人として、とても気が合うのだ。お互いの親が忙しく働いているのもあって、何か困ったことが起きると、互いを必要とし、相談し、二人で解決してきた。

 ただ、周囲からしてみたらこの関係は少し不思議に映るようだ。年を重ねる毎に佑の見た目だけはどんどん大きくなるものだから、周りからは「異性なのに、何も起こらないなんておかしい」とさえ言われたことがある。けれど、六つも下の相手に異性を感じるなんて、私にしてみればおかしな話だ。しかも、相手はオムツさえ替えたことのある、口の悪いあの佑だ。何か起きた時は、天変地異が起きる時ではなかろうか。

 お昼を過ぎ、コンビニでおにぎりと二リットルのペットボトルのお茶、ヨーグルトを買ってきた。ヨーグルトは冷蔵庫へしまい、あとで食べることにする。ほんの少し休憩を取ろうとダイニングテーブルの椅子に腰かけて見渡す小ぶりの部屋は、ちょっとだけゆったりとしていて日当たりがいい。1LDKの造りで、一番奥の角部屋というのも気に入っていた。

 そうだ。ご近所へ挨拶に行かなくちゃ。

 引っ越し祝いのタオルが数組収まる紙袋を手に玄関を出る。お隣のドアの前に立ち、僅かばかりの緊張を胸にインターホンを押してみたけれど反応がない。どうやら留守のようだ。週末だから、お出かけしているのだろうか。夕方にでももう一度挨拶へ行くことにしよう。更に向こう隣の部屋のインターホンを押すと、私よりも一回りは年上だろう女性が住んでいて、挨拶のタオルを渡すとほんの僅か口角を上げた笑みをくれた。上下の階にも同じように挨拶に行き、戻る途中でもう一度お隣さんのインターホンを押してみたけれど、やはり留守のようで、タオルが一つたけ手元に残り持ち帰った。

 玄関ドアを開け、空き箱を跨ぎ奥の部屋に行く。どさりとベッドに腰かけたまま、部屋の中を見渡した。キッチン周りは、先に片付けたのでほぼ完了。寝床も確保したし、ガスと電気・水道も開通している。一度腰かけてしまうと動きたくないと、お尻に根が生えてきそうな感情を振り切り、もうひと働きした。

 そこからふと気がつけば、時刻は十七時を回っていた。ダイニングテーブルに置いたままのスマホを手にしメッセージを確認してみても、やっぱり佑からの連絡はなかった。

「佑のやつ。今日が引っ越しだっていうこと、忘れてたりする?」

 つい三日ほど前に、佑もこの近所に越してきていた。大学生になり親元を離れる、というよくあるパターンだ。ちなみに、引っ越し場所を決めたのは私の方が先だ。佑がどうして私の住む近所に部屋を決めたのかと訊けば「沿線が大学へ通うのに便利だからだ」と顎を突き出し主張していた。けれど、私の近所に住んでいれば、食事面で都合がいいと考えていることは間違いがないだろう。

 そうは言っても、実家から出ての一人暮らしで不安がないわけではないから、大飯食らいの佑だとはいえ、男手が近くにいるというのは心強い。あとでカーテンを取り付けてもらおう。高いところは、やっぱり男手よね。

 それにしても、いつ来るのやら。