看護婦さんに彼女の居場所を聞くと、俺が眠っていた病室のすぐそばにある部屋にいるらしかった。自分たちのいる病棟は軽度の患者が入院している棟であるため、瞳美も命に関わるような怪我をせずに済んだらしい。ただ、地震の衝撃で川の土手から落下した際に足首を捻挫していると聞いた。治療のため、しばらくは入院生活になるだろうとも。
しかし俺にとっては、彼女がこうして軽度の怪我で済んだというだけで十分だった。
「えっと、瞳美の部屋はここか」
土や岩をどける作業の際に傷ついた指先があまり扉に触れないように、手のひらと腕を使って彼女のいる病室の扉を開けた。
中を見るとそこは相部屋で、瞳美は一番奥の窓際のベッドにいた。目が合うとすぐに泣きそうな顔になり、何度も瞬きした。
ゆっくりと彼女のいるところまで歩み寄り、その滑らかな頰に触れた。
彼女は瞬きを繰り返しながら、右の手のひらで俺の手を包む。
「ま、な、と、くん」
一語一語、勢いよく息を吸って吐いていた。ぎこちない喋り方だけれど、俺には何よりも尊く感じられた。
「瞳美、良かった……本当に」
泣きそうなのを必死で堪えている俺の頭を優しく撫でる彼女。
「あ、り、が、と、う」
精一杯の彼女の気持ちが、失われたはずの声に乗って俺の心の奥底まで届いた。
いつか編集サークルの先輩だった垣内さんが彼女を襲いそうになっていたとき、彼女を助けたことがあった。その時も、彼女は「ありがとう」と言った。
しかし今回は、俺が彼女を助けたんじゃない。
彼女が俺を呼んだから、俺は彼女の元へたどり着いたのだ。
そして、意識を失い倒れたとき、彼女が俺を母さんのところまで運んでくれたという。
足を怪我していて辛かったはずだ。女の子が男を運ぶなんて、どれだけの力がいっただろう。
俺は、この子の瞳に助けられたのだ。
彼女が母さんに、必死に俺のことを助けてほしいと訴えたから、俺は今ここで何事もなくこうしていられるのだ。彼女の隣でその声を聞いていられる。
瞳美の勇気と諦めない心が、母さんの心を動かし、俺の命を救った。
「まったく、すごいよ。瞳美は」
昨日の晩、母さんが俺に言った「瞳美ちゃんとは、大変なんじゃないの」という言葉が、まったく気にする必要のないものだと悟る。
瞳美は俺にとって、なくてはならない人だ。
瞳美がいなければ、俺はまともに立って歩くこともできない。それぐらい、大事な存在なんだ———。
「命を救ってくれて、本当にありがとう」
手話や筆談は必要ない。
口に出して、彼女の瞳を見つめる。
それだけでもう伝わるのだ。
その証拠にほら、窓の向こうで沈んでいく夕日に照らされて、彼女が泣き笑いを浮かべている。
あの大きな地震の日から3週間が経った。
特に大きな怪我のなかった俺は傷めた両手の治療をしてもらい、すぐに家に帰ることになったが、瞳美はそのまま入院していた。足の怪我が治るまでの3週間、俺は毎日彼女のいる病院に通った。仕事終わりだったため、いつも夜遅くにしか行けなかったが、彼女はいつも笑って俺を迎えてくれた。
こうして毎日病院に通っていると、彼女が交通事故に遭った四年前のことを思い出す。もう四年も前のことなのに、つい昨日のことのように覚えている。あの時は今よりも深刻で、俺も彼女も不安な気持ちに押しつぶされまいと、必死に取り繕っていた。あの日々があったからこそ、彼女とここまで平気で会話ができるようになったんだと思うと感慨深い。
しかしそんなお見舞い生活も今日、終わりを告げる。
彼女が退院したのだ。それ自体はすごく喜ばしいことなのに、ちょっぴり寂しく感じている自分に苦笑する。これじゃまるで彼女の回復を願っていないのに、お見舞いに来ていたみたいじゃないか。
彼女が退院したことを両親にも連絡すると、ぜひ一度退院祝いに4人でご飯を食べに行かないかと言われた。提案してきたのは母さんだった。
俺は彼女が母さんに対して良い感情を抱いていないだろうと思い、彼女に訊いてみた。
「……て、うちの親が言ってるんだけど、どうする?」
ご飯なんていつでも行けるから、今回は断ってもいい。瞳美にも心の整理が必要だと思ったため、俺は両親からの誘いを躊躇っていた。
しかし、予想に反して瞳美の返事は明確だった。
「行く」と、言葉ではなくしっかりと首を縦に振ることで肯定してみせたのだ。
「えっ、本当にいいのか? 怖くない?」
あまりにあっさりとした決断に、逆にこちらが面食らう。
もし、彼女が無理をしているのなら、もう少し時間がいるだろうと思ったのだが。
「怖くないといえば嘘になるけれど……私、逃げたくないわ」
筆談用のノートに綴られた想い。その確固とした決意すら感じられるまっすぐなまなざしに、俺は先ほどまでの自分の躊躇いを恥ずかしいとすら思ってしまった。
「……分かった。瞳美がそう言うなら行こう。ありがとうな」
彼女の頭を撫でると、恥ずかしそうに目を細める。その仕草は、出会った時から変わっていない。自分らしいところはそのままでも、心は大きく成長した。俺も彼女もここ数年の間に、随分大きく。
だからもう迷わなくていい。二人で進もう。この先もずっと。
しかし俺にとっては、彼女がこうして軽度の怪我で済んだというだけで十分だった。
「えっと、瞳美の部屋はここか」
土や岩をどける作業の際に傷ついた指先があまり扉に触れないように、手のひらと腕を使って彼女のいる病室の扉を開けた。
中を見るとそこは相部屋で、瞳美は一番奥の窓際のベッドにいた。目が合うとすぐに泣きそうな顔になり、何度も瞬きした。
ゆっくりと彼女のいるところまで歩み寄り、その滑らかな頰に触れた。
彼女は瞬きを繰り返しながら、右の手のひらで俺の手を包む。
「ま、な、と、くん」
一語一語、勢いよく息を吸って吐いていた。ぎこちない喋り方だけれど、俺には何よりも尊く感じられた。
「瞳美、良かった……本当に」
泣きそうなのを必死で堪えている俺の頭を優しく撫でる彼女。
「あ、り、が、と、う」
精一杯の彼女の気持ちが、失われたはずの声に乗って俺の心の奥底まで届いた。
いつか編集サークルの先輩だった垣内さんが彼女を襲いそうになっていたとき、彼女を助けたことがあった。その時も、彼女は「ありがとう」と言った。
しかし今回は、俺が彼女を助けたんじゃない。
彼女が俺を呼んだから、俺は彼女の元へたどり着いたのだ。
そして、意識を失い倒れたとき、彼女が俺を母さんのところまで運んでくれたという。
足を怪我していて辛かったはずだ。女の子が男を運ぶなんて、どれだけの力がいっただろう。
俺は、この子の瞳に助けられたのだ。
彼女が母さんに、必死に俺のことを助けてほしいと訴えたから、俺は今ここで何事もなくこうしていられるのだ。彼女の隣でその声を聞いていられる。
瞳美の勇気と諦めない心が、母さんの心を動かし、俺の命を救った。
「まったく、すごいよ。瞳美は」
昨日の晩、母さんが俺に言った「瞳美ちゃんとは、大変なんじゃないの」という言葉が、まったく気にする必要のないものだと悟る。
瞳美は俺にとって、なくてはならない人だ。
瞳美がいなければ、俺はまともに立って歩くこともできない。それぐらい、大事な存在なんだ———。
「命を救ってくれて、本当にありがとう」
手話や筆談は必要ない。
口に出して、彼女の瞳を見つめる。
それだけでもう伝わるのだ。
その証拠にほら、窓の向こうで沈んでいく夕日に照らされて、彼女が泣き笑いを浮かべている。
あの大きな地震の日から3週間が経った。
特に大きな怪我のなかった俺は傷めた両手の治療をしてもらい、すぐに家に帰ることになったが、瞳美はそのまま入院していた。足の怪我が治るまでの3週間、俺は毎日彼女のいる病院に通った。仕事終わりだったため、いつも夜遅くにしか行けなかったが、彼女はいつも笑って俺を迎えてくれた。
こうして毎日病院に通っていると、彼女が交通事故に遭った四年前のことを思い出す。もう四年も前のことなのに、つい昨日のことのように覚えている。あの時は今よりも深刻で、俺も彼女も不安な気持ちに押しつぶされまいと、必死に取り繕っていた。あの日々があったからこそ、彼女とここまで平気で会話ができるようになったんだと思うと感慨深い。
しかしそんなお見舞い生活も今日、終わりを告げる。
彼女が退院したのだ。それ自体はすごく喜ばしいことなのに、ちょっぴり寂しく感じている自分に苦笑する。これじゃまるで彼女の回復を願っていないのに、お見舞いに来ていたみたいじゃないか。
彼女が退院したことを両親にも連絡すると、ぜひ一度退院祝いに4人でご飯を食べに行かないかと言われた。提案してきたのは母さんだった。
俺は彼女が母さんに対して良い感情を抱いていないだろうと思い、彼女に訊いてみた。
「……て、うちの親が言ってるんだけど、どうする?」
ご飯なんていつでも行けるから、今回は断ってもいい。瞳美にも心の整理が必要だと思ったため、俺は両親からの誘いを躊躇っていた。
しかし、予想に反して瞳美の返事は明確だった。
「行く」と、言葉ではなくしっかりと首を縦に振ることで肯定してみせたのだ。
「えっ、本当にいいのか? 怖くない?」
あまりにあっさりとした決断に、逆にこちらが面食らう。
もし、彼女が無理をしているのなら、もう少し時間がいるだろうと思ったのだが。
「怖くないといえば嘘になるけれど……私、逃げたくないわ」
筆談用のノートに綴られた想い。その確固とした決意すら感じられるまっすぐなまなざしに、俺は先ほどまでの自分の躊躇いを恥ずかしいとすら思ってしまった。
「……分かった。瞳美がそう言うなら行こう。ありがとうな」
彼女の頭を撫でると、恥ずかしそうに目を細める。その仕草は、出会った時から変わっていない。自分らしいところはそのままでも、心は大きく成長した。俺も彼女もここ数年の間に、随分大きく。
だからもう迷わなくていい。二人で進もう。この先もずっと。