真名人くんの実家は、私たちの住んでいる街からおよそ1時間の場所にあった。先週遊びに行った桜川と同じくらい時間がかかるけれど、方向的には真逆。二週連続でちょっと遠くまで足を伸ばすのは久しぶりかもしれない。
この二週間で、とにかく私の人生は急転した。しかしこの感覚は初めてじゃなかった。
14歳のあの日、親友だった佐渡歌が突然この世から去ってしまったとき。
20歳の誕生日、交通事故に遭い、目が覚めたら耳が聞こえなくなっていたとき。
どちらの瞬間も私の予想だにしないタイミングで訪れた。心の準備などまるでなく、こんなに簡単に人生が変わってしまうものなんだと、むしろ客観的に転機を受け入れた。
我ながら自分の人生は、荒波だらけだと思う。
しかし冷静に考えれば、小学校の時の隣の席のクラスメイトだって事故で父親を亡くしていたし、SNSを覗けば行方不明になった子供の母親、事件事故に巻き込まれ家族を失った人など多くいる。
私の人生だけじゃない。
どんな人にだってこうした人生の急展開は待ち受けているはずだ。
それが嬉しい展開なのか悲しい展開なのか、には差があるけれど。
同じ温度では変わらない日常を、私たちは生きるしかないのだ。今日は風が強いかもしれない。雨がうるさいほどに降っているかもしれない。そうかと思えば、忽然と晴れ間が現れるかもしれない。
それらの変化を楽しみにして生きるしかないわけだ。
「真名人くん」
「ん?」
電車に揺られながら、私は彼の膝をトントンと叩いて呼びかけた。急に話しかける際には、身体のどこかを軽く叩くようにしている。
「緊張するけど、楽しみだね」
前向きな言葉が、自然と思い浮かんだことにほっとした。
彼も、私が「楽しみ」と言うのが嬉しかったんだろう。
「そうだな、楽しみだ」
私の左手をぎゅっと握り返してくれた。
「ただいま!」
戸建ての家の玄関の扉を、彼は元気良く開け放った。
初めて来る真名人くんの家は、想像以上に綺麗なお家で、一瞬だけ親友だった佐渡歌の家の記憶が頭をよぎる。
ここが、真名人くんのお家……。
開け放った玄関の奥から、慣れ親しんだ香りが漂ってきた。そうだ、これは真名人くんと同じ匂い。人間の五感の中で一番敏感だと言われている嗅覚への刺激は、いともたやすく匂いの持ち主を伝えてくれる。
真名人くんが育った場所なんだ。
小さい頃から大学を卒業するまで、彼が毎日帰宅していた家。
ここに、私の知らない彼がいる。
彼の家族が奥から出てくるまでに、色んなことを思った。
彼のお父さんやお母さんはどんな人なんだろうか。
お兄さんもいると聞いているが、今日は家に会えるんだろうか。
楽しみ、不安、緊張……。
一瞬のうちにぐるぐると渦を巻くようにして入れ替わる感情たち。
けれど、玄関に現れたご両親を目にした途端、たちまち「緊張」だけが大きく膨らむのを感じた。
「こんにちは」
彼の母親と父親が、にこやかに挨拶をしてくれた。口元を見て、そうと分かった。
私は慌てて、震えながら手話で「こんにちは」と言った。
とてもじゃないが、彼らのように微笑むことができず、頰は強張り、上手く伝えられたか分からない。
少なくとも、ご両親が「まあ」と口を開き、特にお母さんの方が手を口元に当てて驚いているのだけは理解できた。
「こちら、雨宮瞳美さん。この間話した俺の婚約者」
彼が隣で何かを両親に告げた。
たぶん、私の紹介をしてくれたのだ。彼が隣で他の人とお話するとき、私は大抵会話に入れないけれど、大事なことであれば後から彼が筆談で教えてくれる。
彼は自分の親に、私のことをどれくらい詳しく話したのだろう。
おそらく、大学で出会い今まで付き合っているということは言ってくれたはずだ。
でも、耳のことは……?
まったく伝えていないということはなさそうだけれど、どの程度の症状なのかまでは分かっていない様子だった。
「雨宮さん、よろしくね」
穏やかに目を細める真名人くんのお母さん。
……良かった。
良い人そうなお母さんだ。
お父さんの方は今のところ「こんにちは」「よろしく」としか喋っていないが、優しそうな眉や目元から、お母さんに負けず劣らず温厚な性格ではないかと悟った。真名人くんはこんな穏やかな二人に見守られて育ってきたのかと思うと、感慨深い。彼の優しいところは、ご両親共に似ているのだろう。
私と真名人くんがダイニングルームに入ると、台所の方からさっそく香ばしくて良い匂いが漂って来た。
お母さんがさっと台所に行き、食事の準備をしてくれる。
「兄貴はいないよね?」
「お兄ちゃん? いないわよ。しょっちゅう出かけてるんだから」
「へぇ〜。兄貴がなあ」
彼がこっそりスマホで会話の内容を伝えてくれた。
実家暮らしのお兄さん、和人は普段週末になるとどこかへ泊まりにいくそうだ。まあ行き先なんて、大体予想がつくけれども——と彼は頭を掻きながら答えた。
トイレに行っていたお父さんがダイニングテーブルの椅子に座るなり、「まあ座りなさい」と、私たちに言ってくれた。
その何気無い仕草が、「恋人に紹介されにきた」というシチュエーションを確かに思い出させてくれる。一気に緊張が高まる。「失礼します」と言うのが伝わるように、小さく頭を下げてから椅子に座った。
「はい、どうぞ〜」
椅子に座ってから、正面に座るお父さんと何を話そうか、真名人くん自身が迷っていたらしく、そんな時に来てくれたお母さんが救世主のように見えた。
「わあ! 美味しそう〜!」
と、口に出したかった。でも、案の定喋ることのできない私は、両手を合わせて精一杯笑う。少しでも、感激が伝わるように。
お母さんもお父さんも、そんな私の様子を見ても何も突っ込まなかった。
真名人くんのお母さんが運んできてくれたのは、熱々の湯気が立つビーフシチュー。
シチューの香りと美味しそうなお肉や野菜を見て、お腹の奥がきゅうぅぅと鳴るのが分かった。
「いただきます」
つい、癖で。
両手を前に出してすっと手前に引いた。「いただきます」の手話だ。間違ったことをしているわけではないのだから、何も後ろめたいことなんてないはずだった。
しかし、私の目の前に座る真名人くんのお母さんが、少しだけ眉をひそめたのを私は見逃さなかった。それは、彼女を一生懸命観察していても気が付かないほどの変化だろう。でも、今まで幾度となく同じような反応をされたことのある私にとって、彼女の変化はあまりに性急すぎた。
隣の真名人くんは全く気づかなかったらしく、お母さんが出してくれたビーフシチューを早速ガツガツと口に運んでいた。それは致し方ないことだろうし、私もそんなちっぽけなことを気にしている余裕なんてなかった。
彼に見習って、私も差し出されたシチューを食べる。
猫舌の私は、スプーンの上で長い間ふーふーと息を吹きかけなければならなかった。それでも、口に入れた途端とろけるようなルウを味わって、どれほど心が温まったことか。
「美味しい?」
お母さんの口元が、そう聞いている。
「とても美味しいです」
めげずに手を使って、質問に答える。彼女は、「そう。良かった」と笑ってくれた。
「母さん、はりきってたもんな」
「もう、そういうこと言うのやめてよ」
「緊張して変な味付けになったらどうしようって言ってたじゃないか」
「いやいや、ビーフシチューの味付けなんて失敗する余地ないだろ」
お父さんが初めて会話に入り、彼が便乗して会話を盛り上げる。私は聞こえないなりに、楽しげな雰囲気にのまれ、つられて笑う。
ああ、良かった。
一時は緊張したり冷やっとしたりする場面もあったけれど、こんな温かい家庭なら、やっていけるだろう。
まだ始まったばかりの会食に、まずはほっと一息つく。
でも、私は気が付かなかった。
この時の私は「安心したい」という気持ちが強かったのかもしれない。
小さな変化を流してその時感じた違和感をそのままにしておいたことを、あとで後悔することになるなんて、夢にも思わなかった。
この二週間で、とにかく私の人生は急転した。しかしこの感覚は初めてじゃなかった。
14歳のあの日、親友だった佐渡歌が突然この世から去ってしまったとき。
20歳の誕生日、交通事故に遭い、目が覚めたら耳が聞こえなくなっていたとき。
どちらの瞬間も私の予想だにしないタイミングで訪れた。心の準備などまるでなく、こんなに簡単に人生が変わってしまうものなんだと、むしろ客観的に転機を受け入れた。
我ながら自分の人生は、荒波だらけだと思う。
しかし冷静に考えれば、小学校の時の隣の席のクラスメイトだって事故で父親を亡くしていたし、SNSを覗けば行方不明になった子供の母親、事件事故に巻き込まれ家族を失った人など多くいる。
私の人生だけじゃない。
どんな人にだってこうした人生の急展開は待ち受けているはずだ。
それが嬉しい展開なのか悲しい展開なのか、には差があるけれど。
同じ温度では変わらない日常を、私たちは生きるしかないのだ。今日は風が強いかもしれない。雨がうるさいほどに降っているかもしれない。そうかと思えば、忽然と晴れ間が現れるかもしれない。
それらの変化を楽しみにして生きるしかないわけだ。
「真名人くん」
「ん?」
電車に揺られながら、私は彼の膝をトントンと叩いて呼びかけた。急に話しかける際には、身体のどこかを軽く叩くようにしている。
「緊張するけど、楽しみだね」
前向きな言葉が、自然と思い浮かんだことにほっとした。
彼も、私が「楽しみ」と言うのが嬉しかったんだろう。
「そうだな、楽しみだ」
私の左手をぎゅっと握り返してくれた。
「ただいま!」
戸建ての家の玄関の扉を、彼は元気良く開け放った。
初めて来る真名人くんの家は、想像以上に綺麗なお家で、一瞬だけ親友だった佐渡歌の家の記憶が頭をよぎる。
ここが、真名人くんのお家……。
開け放った玄関の奥から、慣れ親しんだ香りが漂ってきた。そうだ、これは真名人くんと同じ匂い。人間の五感の中で一番敏感だと言われている嗅覚への刺激は、いともたやすく匂いの持ち主を伝えてくれる。
真名人くんが育った場所なんだ。
小さい頃から大学を卒業するまで、彼が毎日帰宅していた家。
ここに、私の知らない彼がいる。
彼の家族が奥から出てくるまでに、色んなことを思った。
彼のお父さんやお母さんはどんな人なんだろうか。
お兄さんもいると聞いているが、今日は家に会えるんだろうか。
楽しみ、不安、緊張……。
一瞬のうちにぐるぐると渦を巻くようにして入れ替わる感情たち。
けれど、玄関に現れたご両親を目にした途端、たちまち「緊張」だけが大きく膨らむのを感じた。
「こんにちは」
彼の母親と父親が、にこやかに挨拶をしてくれた。口元を見て、そうと分かった。
私は慌てて、震えながら手話で「こんにちは」と言った。
とてもじゃないが、彼らのように微笑むことができず、頰は強張り、上手く伝えられたか分からない。
少なくとも、ご両親が「まあ」と口を開き、特にお母さんの方が手を口元に当てて驚いているのだけは理解できた。
「こちら、雨宮瞳美さん。この間話した俺の婚約者」
彼が隣で何かを両親に告げた。
たぶん、私の紹介をしてくれたのだ。彼が隣で他の人とお話するとき、私は大抵会話に入れないけれど、大事なことであれば後から彼が筆談で教えてくれる。
彼は自分の親に、私のことをどれくらい詳しく話したのだろう。
おそらく、大学で出会い今まで付き合っているということは言ってくれたはずだ。
でも、耳のことは……?
まったく伝えていないということはなさそうだけれど、どの程度の症状なのかまでは分かっていない様子だった。
「雨宮さん、よろしくね」
穏やかに目を細める真名人くんのお母さん。
……良かった。
良い人そうなお母さんだ。
お父さんの方は今のところ「こんにちは」「よろしく」としか喋っていないが、優しそうな眉や目元から、お母さんに負けず劣らず温厚な性格ではないかと悟った。真名人くんはこんな穏やかな二人に見守られて育ってきたのかと思うと、感慨深い。彼の優しいところは、ご両親共に似ているのだろう。
私と真名人くんがダイニングルームに入ると、台所の方からさっそく香ばしくて良い匂いが漂って来た。
お母さんがさっと台所に行き、食事の準備をしてくれる。
「兄貴はいないよね?」
「お兄ちゃん? いないわよ。しょっちゅう出かけてるんだから」
「へぇ〜。兄貴がなあ」
彼がこっそりスマホで会話の内容を伝えてくれた。
実家暮らしのお兄さん、和人は普段週末になるとどこかへ泊まりにいくそうだ。まあ行き先なんて、大体予想がつくけれども——と彼は頭を掻きながら答えた。
トイレに行っていたお父さんがダイニングテーブルの椅子に座るなり、「まあ座りなさい」と、私たちに言ってくれた。
その何気無い仕草が、「恋人に紹介されにきた」というシチュエーションを確かに思い出させてくれる。一気に緊張が高まる。「失礼します」と言うのが伝わるように、小さく頭を下げてから椅子に座った。
「はい、どうぞ〜」
椅子に座ってから、正面に座るお父さんと何を話そうか、真名人くん自身が迷っていたらしく、そんな時に来てくれたお母さんが救世主のように見えた。
「わあ! 美味しそう〜!」
と、口に出したかった。でも、案の定喋ることのできない私は、両手を合わせて精一杯笑う。少しでも、感激が伝わるように。
お母さんもお父さんも、そんな私の様子を見ても何も突っ込まなかった。
真名人くんのお母さんが運んできてくれたのは、熱々の湯気が立つビーフシチュー。
シチューの香りと美味しそうなお肉や野菜を見て、お腹の奥がきゅうぅぅと鳴るのが分かった。
「いただきます」
つい、癖で。
両手を前に出してすっと手前に引いた。「いただきます」の手話だ。間違ったことをしているわけではないのだから、何も後ろめたいことなんてないはずだった。
しかし、私の目の前に座る真名人くんのお母さんが、少しだけ眉をひそめたのを私は見逃さなかった。それは、彼女を一生懸命観察していても気が付かないほどの変化だろう。でも、今まで幾度となく同じような反応をされたことのある私にとって、彼女の変化はあまりに性急すぎた。
隣の真名人くんは全く気づかなかったらしく、お母さんが出してくれたビーフシチューを早速ガツガツと口に運んでいた。それは致し方ないことだろうし、私もそんなちっぽけなことを気にしている余裕なんてなかった。
彼に見習って、私も差し出されたシチューを食べる。
猫舌の私は、スプーンの上で長い間ふーふーと息を吹きかけなければならなかった。それでも、口に入れた途端とろけるようなルウを味わって、どれほど心が温まったことか。
「美味しい?」
お母さんの口元が、そう聞いている。
「とても美味しいです」
めげずに手を使って、質問に答える。彼女は、「そう。良かった」と笑ってくれた。
「母さん、はりきってたもんな」
「もう、そういうこと言うのやめてよ」
「緊張して変な味付けになったらどうしようって言ってたじゃないか」
「いやいや、ビーフシチューの味付けなんて失敗する余地ないだろ」
お父さんが初めて会話に入り、彼が便乗して会話を盛り上げる。私は聞こえないなりに、楽しげな雰囲気にのまれ、つられて笑う。
ああ、良かった。
一時は緊張したり冷やっとしたりする場面もあったけれど、こんな温かい家庭なら、やっていけるだろう。
まだ始まったばかりの会食に、まずはほっと一息つく。
でも、私は気が付かなかった。
この時の私は「安心したい」という気持ちが強かったのかもしれない。
小さな変化を流してその時感じた違和感をそのままにしておいたことを、あとで後悔することになるなんて、夢にも思わなかった。