ゆったりと流れる川の上を、船は抵抗なく進んでゆく。波に揺られながら海を渡るのともまた違う。波のない穏やかな水面は、ただそこにいるだけでとても居心地が良かった。

「さあ皆さん、ここから約1時間、周りの景色や水上の居心地を楽しんでください」

船が動いている間ずっと、陽気な船頭さんが櫂で水をかきながら、船に乗っているお客さんたちに左右に見える景色の説明をしてくれた。
途中で背の低い橋が現れた時には、乗客全員がわっと頭を低くして、橋の下をゆっくりと潜った。船頭さんが立ったまま身をかがめる様子を見て、まるでアスレチックのようだと感心する。

川の両サイドに垂れ下がる柳の木はもちろんのこと、川沿いに家を構えている住居人たちが、川辺にたくさんの花を飾っていたのに釘付けになった。まるで、俺たちの船を歓迎して笑ってくれているような光景だ。船頭さん曰く、あの花たちは住居人が川下りを楽しむお客さんを楽しませようと、わざわざ飾っているらしい。住人たちの温かい心遣いも含め、船に乗っている間じゅう、とても心が満たされていた。

向かいに座っていた瞳美も、口元を緩ませたまま、周りの景色を楽しんでいる様子だった。途中、とある石碑の前で船頭さんが北原白秋の「待ちぼうけ」を高らかに歌い出した時に、乗客のほとんどが一緒に歌を口ずさんでいたが、音の聞こえない彼女にはそれができなかった。皆で歌を歌っている最中にも、彼女は移りゆく景色を見るのに懸命になっていて、でもそれが逆に、ある一つの物事に心を奪われる人間として、俺の目には神聖なもののように映った。もしかしたら、一人だけ歌を歌わず、しかも皆が歌を歌っていることにすら気がつかない彼女を見て、他の乗客や船頭さんたちも、彼女の纏うベールのような神聖さに、気づいたかもしれなかった。

それからしばらくして、船が最終地点まで到着して止まった。街歩きマップの中でいうと、駅から一番遠い端っこの場所。大体のお客さんは、ここまで船で移動した後、歩きながら駅まで戻るという散策コースを選ぶ。俺たちも例に洩れず、船から降りて、元来た場所まで戻ることにした。

「あー楽しかった!」

大きく伸びをした彼女は船に乗る前よりも、満足気な表情を浮かべている。頰を上げ、目を細めて先ほどまで滑っていた川面を眺めた。俺も、彼女と全く同じ気持ちで遠くを見る。水の上と陸の上では、見える景色がこんなに違うのだと思うと何だか不思議だ。

「船乗って良かったよ。ありがとう」

「ううん。私の方こそ付き合ってくれてありがとう」

花のように笑う彼女。彼女のこんな笑顔を、俺はこれからも見ていきたい。

「お腹、すかない?」

「すいた!」

「だろ。じゃあ、ご飯食べにいくか」

「行きましょう」

桜川で有名なご飯と言えば、うなぎ。先ほども川下り中に、何軒ものうなぎ屋を見かけた。そのとき何度かお腹が鳴っていたことは、彼女には秘密だ。

俺たちは二人で何の示し合わせもなく、うなぎ屋を目指して歩いた。お互いの考えていることが言わなくても伝わるということは、とても心地良い。彼女が20歳の誕生日に音を失ってから、俺たちは確実に会話の数が減ったように思う。しかしそれは、喋らなくても意思疎通できることが増えたからに他ならない。彼女の表情、仕草、瞳。その全てから、何とか彼女の気持ちを読み解くのだ。全部は無理だけれど、その力は少しずつ蓄えられていった。

それは彼女もまた同じで、いちいち筆談する手間をなくすため、俺の表情や口元を見て俺の話していることを読み取れるようになった。
だから二人の間に、余計な会話は必要なくなった。
その代わり、嬉しい、楽しい、悲しい、を大げさに表現するし、着実に伝えるようにしている。気持ちのすれ違いがないように。二人の中では、感情の小さなすれ違いが、どれだけ大きな間違いを招くか想像もつかないでいたから。

うなぎ屋を求めて歩いていると、川沿いに人集りができている店を見つけた。ネットで調べたところ、どうやらここらで一番人気のうなぎ屋のようだ。
俺は瞳美に向かって「どうする?」と表情だけで尋ねた。俺の問いを受けて、彼女は何の躊躇いもなく、力強く頷いた。それが「もちろん並ぶ」という決意であることがすぐに分かった。彼女なら、そう言うと思っていた。

多くの人が集ううなぎ屋の前でその他大勢の人と同じように列に並び始めて30分。ようやく店に入ることができた。
席に座ってお品書きを見ると、そこには「うなぎのせいろ蒸し」の一つだけが書かれていた。メニューも値段もたったの一つ。だけどそれが逆に、この店に人を呼ぶ価値を生んでいるのだとよく分かった。
まず、匂いから違った。
香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、胃の中に確かな空白が広がってゆくのを感じた。見れば彼女も同じだったらしく、グ〜っという腹の虫が鳴いたのが聞こえた。おそらくその音は彼女自身聞こえなかっただろうが、お腹が鳴ったということは自分で分かるため、赤らめた頰を隠すようにすぐに「いただきます」と顔の前で手を合わせた。

俺もつられて箸をうなぎに伸ばす。柔らかい感触と匂いに劣らず香ばしい味がジュワッと口の中で広がる。文句なしに美味い。これほど美味しいものを、俺は食べたことがなかった。

「おいしい〜!」

彼女のありふれた言葉の中にも、感動が溢れていた。
4年前、叶わなかったデートを今日実現できて良かった。
美味しいうなぎを食べてとろけそうな目をしている彼女を見て、そう思った。


日が、暮れようとしていた。山の背に沈む太陽の光が、あたり一面を金色に染めてゆく。
あれから二人で、詩人、俳人の資料館を巡ったり、重要文化財に指定されている町家でお茶を飲んだりした。普段の生活ではあまり触れることのない文化的な時間。時の流れが、とても遅く感じた。
桜川での時間を十分に満喫して「そろそろ帰る?」と彼女が聞いてきた頃には、一緒に観光に来ていた人たちの姿もまばらになっていた。

「ああ、ちょっと待って」

自分たちもそろそろ電車に乗らなければ、家に帰るのが遅くなってしまうかもしれない。
だからその前に、今日一番の目的を果たそうと思い、彼女の手を引いた。

「どうしたの?」

川沿いを進み、人のいなそうな場所を必死で探した。次第に増してゆく緊張。ポケットの中の重みが、先ほどよりもはっきりと感じられた。

「こっち来て」

ようやく見つけたその場所は、川に架かる小さな石橋。向こう側には民家しかないため、観光客が通ることもないだろう。

瞳美がきっと、家に帰る前に二人で黄昏れるために立ち止まったのだと思っている。間違いではないが、この先の俺の決意までは気づいていない。「なになに?」と子猫のような瞳を向けてくる。

「あのさ」

バクバクと、脈打つ心臓の音が、彼女に聞こえないことが救いだった。
最初に何を話そうかとても迷った。
前置きがいるのかいらないのか、全然分からない。何しろ、人生で初めての経験だから。
「ねえ、どうしたの?」
なかなか言葉を紡がない俺の肩をトントンと叩き、彼女が問いかける。
その、困っているようにも何かを期待しているようにも見える無垢な表情を見ると、身体の奥底から熱気が湧き上がってくるように、胸がドクンと一発鳴った。途端、もういくしかないという決意が、一気に固まる。

「瞳美、俺と……」

言いながら、ポケットの中から四角い包みを取り出し、彼女の目の前にそっと差し出す。
彼女の息をのむ気配が、横からありありと伝わってきた。

「結婚してください」