彼女と約束をした週末は、快晴とまではいかないけれど、雲の隙間から暖かな光が差す心地良い朝を迎えた。
うだるような8月の暑さをなんとか乗り切り9月も半ばまで過ぎたが、それでもやはりまだ日によって真夏と同じくらい汗をかく日がある。とりわけ仕事で歩いて営業活動をしなければならない日はなおさらだ。ひどい時は、得意先の玄関まで着いたところで10分間汗を乾かす時間を置かないと人前に出られないことがあるほどに。
でも、今日は晴れ。雨の多い季節の週末、晴れの空が窓から覗くとちょっと嬉しくて得した気分になれる。
「晴れて良かったね」
「うん、雨じゃなくて良かった」
二人で家を出て、駅までの道で彼女がほっと息をつく。
外出時はジェスチャーや簡単な手話と、スマホによる筆談はお決まりの日常風景となっている。側から見れば、大変そうだと思われるかもしれないが、4年も一緒に過ごしていれば、これぐらいはどうってことない。

「俺、瞳美はちょっと雨が好きなんじゃないかって思ってたんだ」

「あら、どうして?」

出会った頃から、彼女はいつも外の天気を気にしていたように思う。
講義中や外で昼ごはんを食べている時、窓の外を眺めたり空を見上げてふと微笑んだり。
そんな大学時代の彼女の様子が、今でも鮮明に記憶に焼き付いている。

「だって、雨が降った日はいつも窓のそとずっと見てただろう? それに、天気予報にめちゃくちゃ敏感だし」

朝のニュース番組で、毎日3回は別のチャンネルで天気予報を確認する。それはまるで、晴れたり雨が降ったりするのを楽しみにしているようだった。

「ああ、それは雨だと困るからだよ」

「困る? なんで?」

「私、小さい頃から耳が敏感だったって言ったでしょう。雨が降ると、雨の音がうるさいの。教室で窓を閉めていてもそれが聞こえるくらい」

だから、毎朝綿密にその日雨が降らないかどうかを確認してる。

スマホの画面上で右手の親指を器用に滑らせながら、彼女は俺と話をする。晴れの日差しが差し込む空の下で。

「なるほどね」

難聴になる前の彼女は、確かに些細な音の刺激に弱く、雑音や話し声が大きい場所ではとても辛そうにしていたのを思い出す。その対象の中に、雨音が入っていても何ら不思議じゃない。
「名前には雨が入ってるのにね」

冗談でそう言った。

「本当にそう」

彼女はふふっと笑みをこぼす。

「まあでも、雨が嫌いってわけじゃないよ。小さい頃は、雨の音が音楽みたいに聞こえることもあったから。度が過ぎなければいいの」

彼女が世の中の事象に対して何かを感じる心は、とても繊細だ。繊細で、芸術で、「そんなふうに考えられるんだ」って何度も驚かされてきた。繊細すぎる耳と心は時に自身を傷つけるけれど、間違いなく彼女を魅力的にする。

「そういうの、いいよね」

「いい?」

「ああ。一つの物事に対して、両面的な感情が湧くのが。雨はうるさいけれど、綺麗だって思えるのが」

「ええ、そうかも」

褒められて、頰を紅潮させている彼女を斜め後ろから眺めて、可愛いなって思う。4年前から、つくづく俺は彼女に惚れていると思う。まるで恋煩いの女子高生みたいに、彼女の生きる姿を必死に追っていた。

もうすぐ、駅だ。
電車に乗れば、小一時間で目的の桜川に到着する。
ポケットの中に押し込めた四角くて硬い包みが、信じられないほどの存在感を放ち、彼女と楽しく会話をしている最中で、ふと緊張感に襲われる。

ああ、まだだ。
まだ、これから。
緊張しなければならないのは、もう少し先だ。

と、心の中で自分を落ち着かせながら、彼女の手を取り、電車に乗った。


彼女と初めて訪れた桜川の駅は、到着した途端たくさんの人で溢れていた。閑静で趣のある地域だというので、それほど人も押し寄せないと思っていたのだが、計算違い。まあそれだけ魅力のある場所だということだろうが。

「瞳美、こっち」

決して広いとは言えない駅で、彼女が人混みに押しつぶされないように、しっかりと手を握った。一度離れてしまうと大変なことになるため、人混みでは二人ともいつも以上に注意しなければならない。

ずんずん進んでいくと、急に前が開けて明るい光が視界いっぱいに広がった。

「あーやっと出られた!」

どうやら外に出れば、広々とした土地に人がまばらに散るため、混雑というほど混雑しないようだ。

隣で彼女が、すうっと大きく息を吸う音が聞こえた。つられて俺も深呼吸。ああ、空気がたまらなく美味しい。曇りのない空気が、先ほどまでの人混みでの鬱憤を晴らしてくれた。

「綺麗」

北の方向を見れば、静かに川が流れており、川の両端には柳の木が水面に垂れ下がっている。この辺りは美観地区と呼ばれ、毎年特に秋の季節には多くの観光客で賑わう。

「どこに行こうか」

駅に置いてあった街歩きマップを見ながら、彼女に聞いた。
街には詩人や俳人の資料館が多く存在する。この地域は、文学好きにはたまらない場所なのだ。
彼女はよく本を読む。本を読むだけでなく、日々の出来事をエッセイにして綴っている。だからこそ、ここに連れて来たいと思ったのだ。
しかし、彼女が最初に指さしたのは、詩人や俳人にゆかりのある資料館ではなく、マップにひときわ大きく描かれた「川下り」の文字とイラストだった。

「これに乗りましょう」

子供ではないのだから、「乗りたい!」と可愛らしく主張するのではなく、しっかりとした意思を持って、そう言った。言うと同時に、俺の手をぐいっと引っ張り、気がつけば船乗り場に来てしまった。二人合わせて数千円はする体験だが、船頭の陽気なおっちゃんが「若いお二人さん、いいねえ」と背中を押してくれた途端、スッと抵抗なく船に乗ることができたのだから、文句は言えまい。

「楽しみねっ!」

スマホでの筆談を用いず、手話と華やいだ表情だけで彼女の気持ちが分かった。靴を脱ぎ、そうっと船に足を踏み込んだ俺は、逸る気持ちを抑えきれない彼女が川に落っこちてしまわないように、その手をとった。

他のお客さんがぞろぞろと乗り込み、最後に船頭さんが入って来たところで、いよいよ船が動き出す。
さあ、出発だ。
瞳美と初めて一緒に乗った船が、陸を離れた。