不安と期待の中で始まった大学生活に、俺はあっという間に馴染んでいた。
高校時代から引き続きバスケサークルに入った中島とは違い、結局何のサークルにも入らなかった俺は7月まで真面目に授業に出席し続け、レポートを出し、テストを受けて無事前期の大学生活を終了した。
「やっと終わった〜!」
最後の試験が終了した後の解放感と言ったら、如何とも表現しがたい。
「疲れたねえ」
いつかの夜と同じように、正面では彼女がテーブルに運ばれてきた水をコクンと飲んだ。
俺と彼女は、大学に入った当初から今までずっと、こうして二人で過ごしてきた。
お互いに語学のクラスでできた友達もいるにはいるが、いざ講義以外の時間に会うとなると、俺も彼女もお互いがお互い以外に、親しい相手を見つけられずにいたのだ。
だからと言って、高校まで生活とは違い、男女二人で一緒にいるところを、誰かにからかわれたりしない。大学は基本的に個人行動で、自分が思っているほど、周りの人間は自分に興味がない。そういうことを、大学生になってすぐの頃知ったのだ。良い意味でも悪い意味でも、俺たちは大人の階段を一歩ずつ登っているということだろう。
今日はテスト後のお疲れ会ということで、二人で繁華街まで繰り出して、初めての食事で叶わなかったカフェデートをすることになっていた。
大学の最寄り駅からここらで一番の繁華街まで4駅。時間にして20分。とても便利な場所に大学があることに感謝しなければならない。
「テスト、どうだった?」
「まあそれなりにってとこかな。『芸術学』のテストなんて、大変だったけどね」
「本当よね。『中世ヨーロッパから現在までの音楽に関わる歴史を記述せよ』で60分だもん。シンプルすぎるって。解答用紙配られた時は、白紙すぎて笑っちゃったわ。こんなに書かなきゃいけないの!?って」
大学生活が始まって5ヶ月間俺は彼女と一緒にいたこの期間に、彼女のあらゆる一面を知った。
雨宮瞳美はよくモテる。
これまでに三人もの男からデートに誘われたり、突然告白されたりした。
確かに彼女は美人で大人しく、男性を惹きつける不思議な空気を纏っている。
それから彼女は、本を読んだり文章を書いたりすることが好き。
聞くところによると、彼女の母親は書店でパートをしているらしい。
母親から受け継いだのか、彼女はよく俺に読んだ小説の感想を聞かせてくれる。俺も彼女ほどではないが、暇な時に本を読むことが多いので、彼女から本の話を聞くのが好きだ。それだけでなく、本を読み終えるとノートに面白かった点、いまいちだった点、気になった文を書き留めているらしい。そのうえ毎日日記をつけているというから、とてもマメな性格をしていると感心した。
最後に、彼女はよく喋る。
“よく喋る”とは“大人しい”の対義語ではない。
確かに彼女は性格的に大人しいが、こうして二人きりでいる時や、自分が夢中になれるものの話をしている時は、かなりおしゃべりだ。俺の口を挟む暇さえなくなる時だってある。しかしそういう時、彼女は決まって瞳を輝かせていて、俺はそんな彼女を横から眺めているだけでも幸せなのだ。
一緒にいればいるほど新しい一面を見せてくれる彼女は、一見大人しくて清楚な女の子としてしか映らないにもかかわらず、俺に日々新しい刺激をくれる。日常の中にあるささやかな刺激。決して不良になるとか事件を起こすとかいったショッキングなものでなく、気づいたら彼女の性質に感心させられているというもの。
「雨宮さん、勉強得意でしょ。『芸術学』のテスト、俺は途中で書くのやめちゃったけど、雨宮さんてば、ずっと手を止めてなかった」
「なんだ早坂君、テスト中私のこと見てたの?」
「いや、見てたというか、きみが前の方に座ってたから、見えたんだよ」
「ふふーん」
納得していないというふうに、彼女は頰を膨らませた。
しかし注文していたラザニアが運ばれてくると、目を輝かせてラザニアにパクついた。その素直な反応に、俺は迷わず吹き出した。彼女は頰を膨らませる時、実際は全然怒ったり拗ねたりしていないということを俺は知っていたのだ。
「うーん、美味!」
「おいしい」じゃなくて「ビミ」と感想を漏らす彼女を俺は初めて見た。彼女はその時の気分なのか、同じことを言うにも、時々いつもと違う言葉を使うことがある。その度に俺は、まるで自分が物語のヒロインと話しているような気分になれる。そんなところも、彼女の良いところの一つだった。
「雨宮さんは、昔から勉強好きだったの?」
俺はそう問いながら、デミグラスとホワイトソースが半分ずつ乗っかったオムライスを口に運ぶ。熱々のご飯ととろとろの卵が、二種類の味のソースと絡まって、腹ペコだった俺の胃の隙間に入り込む。もっとくれと、隙間だらけの胃は叫び出す。たまらずにもう一口、もう一口とオムライスを食べた。うん、やはりこいつはかなり俺好みの味だ。卵よ、生まれてきてくれてありがとう。
「うーん、好きっていうか、確かに得意ではあったかな」
「それは羨ましい……」
「いやいや、勉強ぐらいしか自分を裏切らないものがなかっただけだよ。人前で喋るのは苦手だし、友達もそんなに多い方じゃなかった。ううん、はっきり言って、少なかった」
へへっと、友達の数ぐらい気にしないという体で、彼女はわざとらしく笑った。
「そうか、分からないでもない。小学校とか中学校って、何かと理不尽なことで周りと差をつけられるもんな。そんな時に、頑張れば救われるっていう何かがあれば、そりゃ頑張るわけだ」
「早坂君、なんだか先生みたいね」
「え、俺調子乗ってた?」
彼女といるとつい本音で喋ってしまう自分が、彼女に不快な思いをさせたのかと一瞬だけ焦る。
しかし彼女が、「ううん」と首を横に振ってくれたので、俺はほっと安心することができた。
「私が思ってたこと、全部言葉にしてくれたから」
「そう……なのか。それは光栄だ」
彼女と少しでも心が通じたということだろうか。もしそうならば、俺はたまらなく嬉しい。
「あ、でもね、もう一つだけあるよ」
「もう一つ? 何が?」
「私が勉強得意な理由。あ、得意っていうのはその、めちゃくちゃできるとかそういのじゃなくて。人並み以上にはできる理由ね」
謙虚に勉強ができることを少しでも下げて言おうとしている彼女の言葉に、俺は必死に耳を傾けて聞いた。
「私、大切な友達がいたの。歌ちゃんっていってね、その子といつも勉強してた。私が教える側で、歌ちゃんが私に教えられる側。でもいつしか私は彼女に勉強を教えるために、自分の勉強を頑張るようになったの。歌ちゃんと二人で宿題をしながら、おやつを食べて、たくさん話をして。それがとても楽しかったから」
だから私、勉強が得意になれたのかも。
そう言って恥ずかしそうに、彼女は微笑んだ。
俺は彼女の言う“歌ちゃん”が、彼女にとってとても大事な存在だということを知った。
そして恐らく、今も彼女は、“歌ちゃん”と友情が途切れていないのだと思った。
そう、思ってしまった。
「なるほど。雨宮さんが勉強が得意なのは、大切な友達のおかげだったのかもね」
「ええ、そうかもしれない」
「それで、その子とは今も付き合いあるの?」
今になって、自分があまりに無神経な質問をしてしまったのだということを、とても後悔している。
俺の質問を聞いた彼女の口から漏れ出た言葉は、俺の想像の中のどれにも当てはまらないものだったから。
「ううん。歌ちゃんは……死んじゃったの」
高校時代から引き続きバスケサークルに入った中島とは違い、結局何のサークルにも入らなかった俺は7月まで真面目に授業に出席し続け、レポートを出し、テストを受けて無事前期の大学生活を終了した。
「やっと終わった〜!」
最後の試験が終了した後の解放感と言ったら、如何とも表現しがたい。
「疲れたねえ」
いつかの夜と同じように、正面では彼女がテーブルに運ばれてきた水をコクンと飲んだ。
俺と彼女は、大学に入った当初から今までずっと、こうして二人で過ごしてきた。
お互いに語学のクラスでできた友達もいるにはいるが、いざ講義以外の時間に会うとなると、俺も彼女もお互いがお互い以外に、親しい相手を見つけられずにいたのだ。
だからと言って、高校まで生活とは違い、男女二人で一緒にいるところを、誰かにからかわれたりしない。大学は基本的に個人行動で、自分が思っているほど、周りの人間は自分に興味がない。そういうことを、大学生になってすぐの頃知ったのだ。良い意味でも悪い意味でも、俺たちは大人の階段を一歩ずつ登っているということだろう。
今日はテスト後のお疲れ会ということで、二人で繁華街まで繰り出して、初めての食事で叶わなかったカフェデートをすることになっていた。
大学の最寄り駅からここらで一番の繁華街まで4駅。時間にして20分。とても便利な場所に大学があることに感謝しなければならない。
「テスト、どうだった?」
「まあそれなりにってとこかな。『芸術学』のテストなんて、大変だったけどね」
「本当よね。『中世ヨーロッパから現在までの音楽に関わる歴史を記述せよ』で60分だもん。シンプルすぎるって。解答用紙配られた時は、白紙すぎて笑っちゃったわ。こんなに書かなきゃいけないの!?って」
大学生活が始まって5ヶ月間俺は彼女と一緒にいたこの期間に、彼女のあらゆる一面を知った。
雨宮瞳美はよくモテる。
これまでに三人もの男からデートに誘われたり、突然告白されたりした。
確かに彼女は美人で大人しく、男性を惹きつける不思議な空気を纏っている。
それから彼女は、本を読んだり文章を書いたりすることが好き。
聞くところによると、彼女の母親は書店でパートをしているらしい。
母親から受け継いだのか、彼女はよく俺に読んだ小説の感想を聞かせてくれる。俺も彼女ほどではないが、暇な時に本を読むことが多いので、彼女から本の話を聞くのが好きだ。それだけでなく、本を読み終えるとノートに面白かった点、いまいちだった点、気になった文を書き留めているらしい。そのうえ毎日日記をつけているというから、とてもマメな性格をしていると感心した。
最後に、彼女はよく喋る。
“よく喋る”とは“大人しい”の対義語ではない。
確かに彼女は性格的に大人しいが、こうして二人きりでいる時や、自分が夢中になれるものの話をしている時は、かなりおしゃべりだ。俺の口を挟む暇さえなくなる時だってある。しかしそういう時、彼女は決まって瞳を輝かせていて、俺はそんな彼女を横から眺めているだけでも幸せなのだ。
一緒にいればいるほど新しい一面を見せてくれる彼女は、一見大人しくて清楚な女の子としてしか映らないにもかかわらず、俺に日々新しい刺激をくれる。日常の中にあるささやかな刺激。決して不良になるとか事件を起こすとかいったショッキングなものでなく、気づいたら彼女の性質に感心させられているというもの。
「雨宮さん、勉強得意でしょ。『芸術学』のテスト、俺は途中で書くのやめちゃったけど、雨宮さんてば、ずっと手を止めてなかった」
「なんだ早坂君、テスト中私のこと見てたの?」
「いや、見てたというか、きみが前の方に座ってたから、見えたんだよ」
「ふふーん」
納得していないというふうに、彼女は頰を膨らませた。
しかし注文していたラザニアが運ばれてくると、目を輝かせてラザニアにパクついた。その素直な反応に、俺は迷わず吹き出した。彼女は頰を膨らませる時、実際は全然怒ったり拗ねたりしていないということを俺は知っていたのだ。
「うーん、美味!」
「おいしい」じゃなくて「ビミ」と感想を漏らす彼女を俺は初めて見た。彼女はその時の気分なのか、同じことを言うにも、時々いつもと違う言葉を使うことがある。その度に俺は、まるで自分が物語のヒロインと話しているような気分になれる。そんなところも、彼女の良いところの一つだった。
「雨宮さんは、昔から勉強好きだったの?」
俺はそう問いながら、デミグラスとホワイトソースが半分ずつ乗っかったオムライスを口に運ぶ。熱々のご飯ととろとろの卵が、二種類の味のソースと絡まって、腹ペコだった俺の胃の隙間に入り込む。もっとくれと、隙間だらけの胃は叫び出す。たまらずにもう一口、もう一口とオムライスを食べた。うん、やはりこいつはかなり俺好みの味だ。卵よ、生まれてきてくれてありがとう。
「うーん、好きっていうか、確かに得意ではあったかな」
「それは羨ましい……」
「いやいや、勉強ぐらいしか自分を裏切らないものがなかっただけだよ。人前で喋るのは苦手だし、友達もそんなに多い方じゃなかった。ううん、はっきり言って、少なかった」
へへっと、友達の数ぐらい気にしないという体で、彼女はわざとらしく笑った。
「そうか、分からないでもない。小学校とか中学校って、何かと理不尽なことで周りと差をつけられるもんな。そんな時に、頑張れば救われるっていう何かがあれば、そりゃ頑張るわけだ」
「早坂君、なんだか先生みたいね」
「え、俺調子乗ってた?」
彼女といるとつい本音で喋ってしまう自分が、彼女に不快な思いをさせたのかと一瞬だけ焦る。
しかし彼女が、「ううん」と首を横に振ってくれたので、俺はほっと安心することができた。
「私が思ってたこと、全部言葉にしてくれたから」
「そう……なのか。それは光栄だ」
彼女と少しでも心が通じたということだろうか。もしそうならば、俺はたまらなく嬉しい。
「あ、でもね、もう一つだけあるよ」
「もう一つ? 何が?」
「私が勉強得意な理由。あ、得意っていうのはその、めちゃくちゃできるとかそういのじゃなくて。人並み以上にはできる理由ね」
謙虚に勉強ができることを少しでも下げて言おうとしている彼女の言葉に、俺は必死に耳を傾けて聞いた。
「私、大切な友達がいたの。歌ちゃんっていってね、その子といつも勉強してた。私が教える側で、歌ちゃんが私に教えられる側。でもいつしか私は彼女に勉強を教えるために、自分の勉強を頑張るようになったの。歌ちゃんと二人で宿題をしながら、おやつを食べて、たくさん話をして。それがとても楽しかったから」
だから私、勉強が得意になれたのかも。
そう言って恥ずかしそうに、彼女は微笑んだ。
俺は彼女の言う“歌ちゃん”が、彼女にとってとても大事な存在だということを知った。
そして恐らく、今も彼女は、“歌ちゃん”と友情が途切れていないのだと思った。
そう、思ってしまった。
「なるほど。雨宮さんが勉強が得意なのは、大切な友達のおかげだったのかもね」
「ええ、そうかもしれない」
「それで、その子とは今も付き合いあるの?」
今になって、自分があまりに無神経な質問をしてしまったのだということを、とても後悔している。
俺の質問を聞いた彼女の口から漏れ出た言葉は、俺の想像の中のどれにも当てはまらないものだったから。
「ううん。歌ちゃんは……死んじゃったの」