その日の夜、家の風呂に肩までつかりながら、俺はまた槇野の幽霊のことを考えていた。
 まるで卒業アルバムの片隅にあるような、彼女との些細な記憶を思い出そうとする。

(いったいどうしてまた、俺なんか……)

 ふと水面に目を落とすと、入浴剤で色づいた湯の中で、何か黒いものが動くのが見えた。

「おい、まさか――」

 もちろん、実際にお湯の中に何かがいたなら、必ず俺の身体に触れるはずで、気付かないわけがない。
 しかし、それ――槇野の霊は、質量を無視して水面に浮かび上がってきた。黒くて細い髪が、風呂の中で生き物のように蠢いている。

 ある程度予想はしていたせいか、今回はさすがに悲鳴こそ上げずに済んだが、ざばぁっと飛沫を散らして俺が飛び退るように湯船から立ち上がるのと、真っ暗な目をした槇野の頭部が湯の中から浮かび上がってくるのは、ほぼ同時だった。

「………………」

 湯船から上半身を出し、白い紙袋を差し出す槇野の霊。その顔のすぐ前には、水滴を滴らせる俺の股間があった。

「………………」

 硬直している俺の前で、槇野の霊は両手で顔を覆うようにして、ゆっくりと水中に沈んで消えていった。
 後にはもちろん、チョコの紙袋も、髪の毛一本程の痕跡も、何も残されてはいなかった。

 手早く風呂から入り、俺は自分の部屋に戻る。シャンプーを先に済ませておいてよかった。
 タオルで頭を拭きつつ、ベッドに腰をかける。

 ……なぁ、槇野。わかっただろ。風呂はやめような、風呂は。お互い困るから。
 明るいときに普通に出て来てくれれば、俺だって……。

 ふと視線を感じたような気がして、クローゼットのほうに目をやった。

「……うん。まだマシなほうかな」

 クローゼットの前まで行って手をかける。
 しばらく躊躇したあと、思い切ってそこを引き開ける。
 目の前には、最初に見た時と同様に、生気のない姿の槇野が立っていた。

 一瞬ビクッとなったが、悪意はないらしいとわかると、さすがにもうだいぶ慣れてくる。
 幽霊が怖いのは、いきなり出たり消えたりするからだという俺の持論が正しいことが証明されてしまった。

 こうして見れば、死んでいるとは言え、クラスメイトの女の子でしかないのだ。
 さっき風呂の中から出てきたにも関わらず、濡れているのは髪だけで、制服のブレザーは乾いたままだ。

――そう言えば、幽霊に足がないというのは本当なのだろうか。

 冷静になってきた俺は、槇野の下半身に目を向けてみた。これまでちゃんと見る余裕もなかったが、スカートからのぞく細い足は、ふくらはぎのあたりから半透明になり、足元は完全に見えなくなっていた。
 地に足着けて歩く必要がないのなら、わざわざ再現しなくてもいいってことかな。そんなことを考えていると、槇野は少し足をもじもじさせ、スカートを手で押さえる仕草をした。

「あぁ、ごめんごめん」

 思わず謝ってしまった。
 もはや最初のころの恐怖もすっかり薄れてしまった俺は、さらに大胆になり、スマホのカメラを向けてみた。
 槇野はカメラに気付くと、少し恥ずかしそうにうつむいたあと、濡れた髪を手で整えるような仕草をして、両手を前に揃えてじっとレンズを見つめた。

「……いや、証明写真じゃないんだから」

 プリクラや自撮りでよくやるようなポーズをしないあたりが槇野らしいと思った。
 ……霧島の言ったことが事実なら、これもAIの反応のようなものでしかないのだろうか。

 いずれにせよ、シャッターボタンを押しても、そこには槇野の姿は全く写っていなかった。

(……槇野はもう、こうして写真に残ることも、二度とないのか)

 あらためてそう実感する。霧島なら、心霊写真の撮り方も知っているだろうか。
 そんなことを考えていると、槇野はいつの間にかまた白い紙袋をこちらに差し出していた。

「槇野……」

 いちおう、こちらからも手を伸ばしてみた。だがやはり、俺の手は紙袋をすり抜けてしまう。

「ごめんな、槇野。――俺だって受け取ってやりたいけど、無理なんだよ」

 彼女はただ、からっぽの瞳で、じっと俺のほうを見ている。
 霊と交信や意思疎通ができるなら、俺のほうに受け取る気持ちがあるということが伝わったっていいはずだ。
 だが、彼女はじっと、紙袋を差し出したまま、動かない。
 霧島の言った通り、機械的な反応をしているだけに過ぎないのか。

「どうすりゃいいんだよ、槇野……」

 声の届かない分厚いガラス越しに会話をしようとしているようなもどかしさ。
 相手の姿は確かに見えているのに、何も伝わらない。

 どうしようもない苛立ちが込み上げて、俺はクローゼットの中の槇野に思い切って詰め寄ってみた。
 もう恐怖感はない。……むしろ今までさんざん怖がらされたぶん、ちょっと意地悪をしてやりたくなる。

 俺はいわゆる壁ドンの体勢で手をつき、彼女に顔を近づけた。

 死というものには、血の匂いの印象があった。だが、それは違う。血は生命のイメージそのものだ。
 槇野からは、女の子らしい香りどころか、生を連想させるものはいっさい感じられない。ただ遠くかすかに線香のような匂いがした気がした。

「……なんで自殺なんかしたんだよ」

 彼女は目を閉じ、うつむく。
 あの空洞が見えなくなると、彼女の姿からはもう恐ろしさは全く感じられない。まるで人形のようだ。

 ……現実に俺がこんな行動を取っていたら、槇野はこういった反応をしたんだろうか。

 ふと、小柄な彼女の制服の胸元に目を落とす。
 律儀に前ボタンを全部留めたブレザーの胸のふくらみは、霧島に比べればずいぶん控えめなだけに、胸ポケットの中に入っているものがチラリと見えた。

――そうだ、昨夜、俺の上にのしかかっていたときにも、胸ポケットで何かが光った気がする。

 本当はそこに存在していないものを見ようとするのもおかしな話だが、俺は頑張って目を凝らしてみた。プラスチックの板と、薄い金属。……何かのカギか?

 こうして霊体として認識できるということは、それはきっとチョコの紙袋と同じく、彼女にとってとても重要な――

 はっと気付くと、槇野は自分の胸を手で隠すようにしながら、不気味な空洞の目で俺を睨むように見つめて……そしてそのまま消えてしまった。

「……ごめん槇野。今のは俺が悪かった」



    †    †    †


 登校中、意外にも霧島のほうから声を掛けてきた。

「昨日も来たの? 槇野さん」

「ああ。でもやっぱり、何もできなかった」

「何も、って……君、まさか彼女に変なこと……」

「ちげーって!」

 完全に違うとは言い切れないのだが……まぁそこは黙っておこう。

「……ありがとうな、霧島」

「は? 何が?」

 つれない態度を取っているが、霧島も気にかけてくれているらしい。
 中学時代の話と言い、頼まれると断り切れない性分なのだろう。

「霧島、言ってたろ。死んだ相手にしてやれることはないって。あれ、実感したよ」

 俺は、隣を歩く霧島の顔を横目で見ながら言った。

「霧島は霊が見えるから――今までもずっと、何度も、こんな気持ちを味わってきたんだろ」

「…………」

「優しいヤツなんだな、霧島って」

 霧島はしばらく黙って歩を進めてから、ポツリと言った。

「……まぁね。私が最初に視た霊は、父親の霊だったし」

 それきり、霧島は何も話さなかった。
 下駄箱で上履きに履き替えようとしたとき、思い出したように霧島が言った。

「……あぁ。そう言えば、今日ってバレンタイン当日なわけだけど」

 そうだった。
 このままだと槇野の霊はどうなるんだろう。
 未練がなくなるまで、ずっと俺のところに出続けるのだろうか。
 何年経っても、高校時代の姿のままで。

「――で、霊の相談はもうゴメンだけど、こうして話すようになったのも何かの縁だし……その、君が欲しいなら、私もいちおう用意してて……」

「あ、ごめん。ちょっと槇野のこと考えて聞いてなかった。なんて?」

「……っ! 馬鹿なの!? 馬鹿には限りがないの!?」

 なぜだか霧島は急に怒り出し、教室に向かって走って行ってしまった。

――確かに今、槇野のことで何か大事なことに思い当たりそうになったんだ。

 それは、頭の中ですぐに見失ってしまったけど、いったい何だったのだろう……。



    †    †    †


 授業にも身が入らず、ずっと彼女のことを考えていた。

――濡れた髪。乾いた制服。学校には出ない彼女。見えない足元。何かのカギ。下駄箱。
 
(……あれ?)

 槇野は、死んだその日も学校に来ていた。
 帰宅後、家族あてに簡単な遺書だけを残して深夜に家を抜け出し、そして――

 霧島の言う通り、彼女の本当の気持ちなんて確かめる術はない。
 でも、死ぬと決めていたであろうその日に、どうしてわざわざ好きでもない学校に来たのだろう。
 そして、彼女が川に飛び込んだ時は、すでに帰宅して着替えて私服だったはずだ。
 だから制服は濡れていなかった。

 ……なのになぜ、彼女の霊は制服姿で現れる? 胸ポケットのカギのせいか?
 じゃあ、死んだときにはそのカギは持ち歩いていなかったってことか。

 ……霊になっても肌身離さず持っているほど、彼女にとって重要なものなのに?

「……っ!?」

 授業中なのも忘れて、俺は思わず立ち上がった。
 そのまま早足で教室を出る。
 霧島が俺を見て何か言いかけようとしていた。
 教師の声とクラスメイトのざわめきを背中で聞きながら、俺は校舎玄関の下駄箱へと駆けだした。

 槇野の出席番号の下駄箱。薄いステンレス製の扉に手をかける。

 中にみっちりと槇野の顔が詰まってたりしたらさすがに嫌だな……。
 ついそんな想像をしてしまう。

(学校では出ないんだよな。信じてるぞ、槇野……)

 扉を開けた。中にあったのは、子供のように小さなサイズの上履き。
 教室にあった彼女の私物は教師が回収していったが、上履きまでは気が回らなかったようだ。

 上履きを取り出そうとしたとき、指先が固いものに触れた。

――あのカギだ。

 今度はちゃんと実体がある。金属の冷ややかな質感も、意外とズッシリくる重さも、ちゃんとこの手の中にある。
 番号が刻まれたプラスチックのプレートには見覚えがあった。駅のコインロッカーのカギだ。

 最後の授業を終えたあと、彼女はここにこのカギを置いていったんだ。
 そうしていつものようにひとりで家路について、そして――

 もしそこに俺が通りがかっていたら? 話しかけていたら?
 
 ……後付けだからできる、自分に都合のいい妄想だ。今となってはもう、どうしようもないことだ。

 そのまま学校を抜け出し、俺は駅へと駆けだした。
 すれ違う大人がたまに奇異の目を向けてきたが、かまわない。
 幽霊を見るのに比べたら、こんな光景、珍しくもないだろ。

 この駅は、長距離バスの発着駅が近くにあるためか、ロッカーの保管期限が少し長いので、バレンタイン当日にギリギリ間に合った。
 超過分のコインを入れ、扉を開ける。

 俺の目の高さに、何度も見たあの白い紙袋があった。
 少し背伸びして、紙袋をロッカーに入れる制服姿の槇野が頭に浮かんだ。

 震える手でそっと、紙袋を手に取る。今度は、触れられた。

(あったぞ、槇野!)

 紙袋の中で何かがカサリと音を立てた。

――手紙だった。

 女の子らしい封筒に、丁寧な字で俺の名が記されてあった。

 あたりを見回し、紙袋と手紙を握りしめたまま俺はエレベーターに乗り、駅ビルの屋上に向かった。
 この手紙だけは、誰にも邪魔されないところで読みたかった。



    †    †    †


『神田宏樹くんへ


 神田くんがこの手紙を読んでいるころには、わたしはもうこの世にいないと思います。
 ちゃんと上手く死ねているといいな。わたしは何をやっても失敗ばかりだったから。


 突然ですが、わたしは神田くんのことが好きです。
 教室で時々、目で追っちゃってたこと、もしかしたら気づかれてたかな。
 ううん、たぶん気づいてないね。神田くん、ちょっと鈍感だもん。

 好きになったキッカケも、神田くんはきっとおぼえていないと思います。
 1年のとき、廊下で他の男子とぶつかって転んだわたしを、神田くんは助けおこしてくれました。

 ……それだけです。
 少女漫画じゃあるまいし、バカみたいだって思うでしょう?
 神田くん、でもね。わたしみたいに弱い女の子は、たったそれだけのことで好きになっちゃうのです。

 同じクラスになれて、とても嬉しかった。
 でなければ、もっと早くに死ぬ決意をしていたかも。


 死ぬ理由は、ここには書きません。
 ありふれた、くだらない、でも私が命を絶つにはじゅうぶんな理由。

 明日……いや、もう今日かな。わたしは高架から河に飛び込もうと思います。
 泳げないから、たぶん死ねる。
 小さい頃からトロくて、スイミングスクールもすぐやめちゃったのが、こんなところで役に立つ(?)とは思わなかった。

 飛び降りとか、電車に飛び込むのに比べて、死体がキレイでまわりに迷惑をかけないと思った。
 最期まで、いろんな人から汚いとか邪魔だとか思われて死にたくない。

 なんて、この手紙に書くことじゃなかったね。忘れてください。

 死ぬ勇気は出たけど、直接告白する勇気は、最期まで出ませんでした。
 だって、これから死んじゃう女の子から告白されても困るよね?
 と言いつつこんな手紙を書いていることじたい、未練なのかもしれないけど。


 “死んでから後悔する”――そんなことだってあるかもしれない。
 そう思うとやっぱり、この手紙と、バレンタインのチョコレートだけは、ちゃんと渡しておこうと思いました。
 ちょっと回りくどいかもしれないけど、誰かが見つけて、届けてくれるよね。
 市販品なので賞味期限とかは大丈夫だと思うし、気持ち悪いかもしれないけど、食べてもらえたら嬉しいです。


 神田くん、わたしの人生の最期に少しだけ彩りをくれてありがとう。大好きでした。

                                           
                      槇野 絵未』



    †    †    †


 屋上で、細く丁寧な字で書かれたその手紙を最後まで読み終え、顔を上げると、そこには槇野の幽霊が立っていた。
 青白い肌に、濡れた髪。真っ黒で瞳のない眼窩。

 でも、もう恐怖はない。明るいからだけじゃない。

 ……なんて表現すればいいんだろう。
 この感情に比べれば、恐怖なんて、とてもちっぽけな、ゴミみたいなものだ。

「……槇野……!」

 震える声で、そう叫ぶ。
 もう本人には、決して届くことはないと知りながら。

「槇野、俺さぁ……! 生きてる間に槇野の気持ちに気付けなかったけど、でも……!」

 右手で封筒、左手で紙袋を持ち、天に掲げるように振ってみせる。

「槇野がくれたこの手紙とチョコは、ちゃんと受け取ったから……!!」

 初めて陽の光の下で見る槇野の幽霊は、静かに目を閉じ、微笑むように唇を動かした。
 何を言いたいのだろう。声が聞きたい。でももう、それは叶わない。

「俺……槇野のこと、まだ全然知らないのに……! 何もしてやれなかったのに……!」

 この叫びすら、もう届かないのに。

「なのに、なんで……」

 槇野はじっと、微笑んだままこちらを見つめている。
 ゆっくりと、その輪郭が光に溶けるように薄れていく。

「なんで……そんな満足そうな顔してんだよ……」

 その消え方が、これまでとは違うと直感していた。
 もう、残るものはない――これで終わりなのだと。

 ホワイトデーのお返しも渡せないまま、俺のこの感情も、永劫に彼女に伝わることはない。

 最後に、生きている間に一度も見ることがなかった笑顔を俺に見せて。

 こうして、槇野絵未という女の子は、俺の前から――そしてこの世界から完全に消失した。



    †    †    †


 俺は暗がりが嫌いだ。

 “nobody”――もうどこにも存在しない彼女の空白記号。

 今でもまだ、街灯の少ない夜道や、クローゼットの奥や、深夜に目が覚めた時の部屋の片隅に、彼女の姿をつい探してしまう。

 まるで何かに憑り付かれているみたいに。



            (終)