カーテンを開けたままの窓から射し込む光で目が覚めた。どうやらあのまま気絶してしまったらしい。
 おそるおそる外に目をやると、槇野の幽霊はもう消えていた。
 子供のころのクリスマスの日でさえ、朝が来たことをこんなに嬉しく思ったことはない。
 明るいって素晴らしい。太陽の力はなんて偉大なんだ。

 普段通りに登校した俺は、午前の授業が終わるチャイムと共に、教室の後方にいる女子の席に向かった。

「――あのさ、霧島《きりしま》」

「神田くん? 何か用?」

 眼鏡をかけたその女子は、そう言ってチラリと俺のほうを見たあと、またすぐに読んでいた本に視線を落とす。

「霧島って……霊が見えるってマジ?」

 霧島紗枝(さえ)は霊感少女として有名らしい。彼女と同じ中学だったという友達から聞いたことがある。

「…………」

 霧島は、ふうっと息を吐くと、読んでいた本をパタンと閉じた。どんなオカルト本を読んでいるのかと思ったら、何とかいう賞を取って話題の若い女性作家の恋愛小説だった。少し意外だ。

 綺麗に整えられた髪をかき上げ、霧島は細いピンクフレームの眼鏡ごしに俺を見た。ある程度、自分の顔に自信がある女しか掛けない眼鏡だ。

「なぁに? 君もスピリチュアルとか信じる系? ……どっちかって言うと、心霊スポットに肝試しに行く馬鹿なウェイ系かな」

 心なしか、つっけんどんに霧島はそう言った。
 心霊スポットになんて元から興味はなかったが、今となっては死んでも近寄りたくない。

「中学のとき、何人か相談に乗ってあげただけなのに、変に噂が広まっちゃって困っちゃってるのよ」

 霧島は、心底ウザったそうにため息をついた。

「これじゃまるで私、霊感アピールしてる不思議ちゃんみたいじゃない。私はサバサバしたインテリ系女子を目指してるの」

 ……そのサバサバしたインテリ系女子とオカルト系不思議ちゃんとの間にどれほどの差異があるのか俺にはよくわからないが、その口ぶりからすると噂は事実ではあるらしい。

「いや、真剣に相談に乗ってほしいんだ。実は――槇野の幽霊を見た。て言うか俺んちに来た」

 直近で身近な死である。さすがにこれには霧島も反応した。

「槇野さんが?」

 片方の眉を器用に釣り上げて、霧島は睨むように鋭い視線で俺の顔を見る。

「……まさか君、バレンタインが近いからって、女子の気を引くためにそんな話を触れ回ってるんじゃないでしょうね。だとしたらいくらなんでも悪趣味よ、それ」

「いや、マジなんだって。……霧島は、もしかして槇野とは仲良かったのか?」

 霧島はかぶりを振った。

「ほとんど喋ったこともないし、いつ見てもうつむいてて、目が合ったこともないわ。てか、君こそ……」

「いやいや、俺も似たようなもんだし、恨みを買うような酷いことしたおぼえもねぇよ」

 特に接点もないクラスメイトの女子なんて、そんなもんだろう。
 今日まで霧島がサバサバしたインテリ系を目指していることさえ知らなかったように。

 俺は手短に昨夜のことを霧島に話して聞かせた。
 最初は夜道の電柱の陰に、次に俺の部屋の窓の外に現れたことを。
 自分で話しながら、ふと思った。
 槇野はあそこで出会ったから俺の家までついて来たのだろうか。

 それとも、もしかすると――最初から俺が目的で……?

 思わず背後を振り返った。
 もちろん、そこにはいつも通りの教室の風景が広がっているだけだった。

 そんな俺の様子に、霧島もさすがに俺が伊達や酔狂でこんな話をしているわけではないと悟ったようだった。

「心配しなくても、君のまわりには視えないわよ。朝からずっとね」

「そうなのか?」

 一瞬ホッと安心しかけたのも束の間、霧島の言葉の意味を考えて、恐ろしいことに気付いてしまう。

「霧島がそう言うってことは、幽霊って、昼間でも出ることがある……?」

「本人にこだわりがなければね。彼女の場合はたぶん、死んでまで学校に来たくないだけじゃない? あまり楽しそうに通ってるようにも見えなかったし」

「そういうものなのか……? じゃあ、槇野はなんで俺の所に……? 俺がそういう体質だとか、変なオーラが出てるとか……」

 霧島はまた、面倒くさそうに眼鏡越しに俺の顔を見た。

「あのね、霊ってのは、要するに残留思念なの」

「残留思念? つまり、恨みとか未練とか……?」

「そう。そういう強い感情だけが形として現世に遺ったもの。だから、霊の出現は必ずそれに基づいているはず。特に深い意味もなく現れたりはしないわ」

「じゃあ……霧島。今夜、俺んちまで来てくれないか。そんで槇野の霊と交信して、化けて出てきた理由を聞いてみてくれよ」

「は? 馬鹿なの? イヤに決まってるでしょ」

 冷たく即答してから、霧島は付け加えた。

「それに、残留思念だって言ってるじゃない。交信や意思疎通なんて出来やしないわよ。……死後の魂が、天国や地獄に行くのか、それとも消滅してしまうのか、それは私にもわからない。私に視えるのは、死者の残留思念と、それはもう本当の魂ではないってことだけ。“霊魂”なんて言ったりするけど、霊と魂は別物なの」

「本当の魂、じゃない……?」

 でも――
 彼女の霊は確かに恐ろしく、不気味だったが……。
 じっと佇む姿や、あの真っ暗な目からは、何かしらの意思のようなものを、確かに俺は感じたんだ。

「アプリとかでね、自動的に返答してくれるAIってあるでしょ、あんな感じ。霊から何か反応があったとしても、それはただ生前のその人が取ったであろうパターンをなぞっているにすぎないの」

 霧島はそう言って、黒板に書かれた四限目の授業の英文を指さした。

「神田くん、『誰もいない』を英語で言うと?」

 さすがにそれぐらい、英語が苦手な俺でもわかる。

 “nobody is here”

「そう。つまり英語では、『そこには“いない人”がいる』、と表現する。
 幽霊ってのはつまり、この“nobody”よ。――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。人の空白記号」

「存在しないという証明……空白記号……?」

「つまり、槇野さんは、もういないってこと。この世界のどこにもね」



    †    †    †


 槇野絵未という少女の魂は、もうこの世には存在しない……。霧島はそう言った。
 だったらなぜ、彼女の残留思念であるという幽霊は、俺の前に現れたのだろう。

 暗くなる前に急いで帰宅し、早々に夕食と風呂をすませ、ベッドの上で布団をかぶる。

 霊となって現れるほど、槇野が強く残した想いとは何なのか。
 俺に伝えたいことでもあるのか。
 そもそも、彼女はなぜ自殺したのか。

 考えれば考えるほど、気にはなる。
 ……が、それはそれとして、怖いものは怖い。

 窓際のカーテンは、上からさらに制服やコートを何重にも吊るし、ガードしてある。
 あんな恐ろしい姿で出て来るってことは、俺、恨まれてたんだろうか。
 それでもやっぱり、心当たりはない。

 彼女についてあれこれ考えながら、俺はいつの間にか寝入ってしまった。
 それが間違いだったのだと思う。

 ふと、目が覚めた。
 暗闇に包まれて、即座に後悔する。ついいつもの習慣でベッドに入る前に電気を消したことを。

 せめてスマホの明かりを――手を伸ばそうとして気付いた。身体が強張って動かない。

(金縛りってやつか――!?)

 ふざけんな。いきなり出たり消えたりするだけでもじゅうぶんそっちに有利なのに、こちらの身体の自由まで奪うなんて、あまりにも卑怯すぎるだろ。

 そんな俺の憤りもむなしく、ベッドの足元で何かの気配がした。

 ずるり、ずるり……。

 布団の上には何の重みも感じないのに、なぜだか何者かがそこを這いずっている感触だけが伝わってきた。
 それはゆっくりと、だが着実に枕元へと近づいてきている。

 指一本動かせず、天井を見つめることしかできない俺の胸のあたりで、その動きがぴたりと止まった。
 そのまま何も起こらない。
 拍子抜けしてほんの少し気を緩めた瞬間――

 俺の視界いっぱいに、ぬうっと彼女が顔を突き出した。
 湿って垂れさがる黒髪と、真っ暗な穴のような眼窩。槇野の霊は、布団をかぶった俺の上に馬乗りになって、こちらの顔をじっと覗き込んでいた。

 俺は心の中でひたすら般若心境を唱え続けていた。小学生のころ、こういった状況に備えて必死に暗記したのだが、意外とおぼえているものだ。

(頼む槇野、どうか成仏してくれ)

 しかし、誤算がひとつ。果たして現代の女子高生の幽霊が、お経を聞いたところでどうにかなるものだろうか。米津玄師の歌でも唄ったほうが少しは浄霊効果があるんじゃないか。
 案の定、槇野の霊はその黒い目で俺を見つめ続けている。

 すうっと、細く青白い彼女の腕が動いた。
 まさか、首でも絞めにくるのでは……。身体を固くしようにも力は入らず、意識して目を閉じることさえできない。

 彼女の手が、俺の顔の前に何かを差し出した。……それは、白い紙袋だった。

 まるで血の気を感じさせない彼女の唇が、ゆっくりと動いた。

「……ち……」

 何かを引っ掻くような、かすれた声が彼女の口から洩れる。

 ち……血……?

「……ち……ょ……こ……」

 ……チョコ?

 よく見れば、彼女が差し出す紙袋に描かれたロゴは、有名な洋菓子店のものだ。
 予想外の単語に虚をつかれたせいか、ふっと硬直が解け、全身に力が戻る。

「……ひぃぁぁあぁあぅいいぃぃいぃ!!!」

 ずっと抑えていた悲鳴を吐き出しながら俺は、男の声帯でも本当にマリオみたいな甲高い声が出せるんだな、なんて考えていた。
 家族が何事かと駆け込んできたときには、槇野の姿は紙袋ごと消えていた。



    †    †    †


「なぁ、霧島……! 一晩でいいから俺んちに泊まりに来てくれよ……!」

「馬鹿なの? 馬鹿すぎるの?」

 また翌日の昼休み、俺の懇願を霧島はあっさり一蹴した。

「そう言わずに頼むよ、チョコが――」

 そう言いかけたところで霧島は俺の腕を引っ掴むと、強引に教室の外へと連れ出した。
 そのまま廊下の端っこまで引っ張っていく。

「あのね、神田くん。そういうのやめてって言ったよね? ……それに、急に特定の男子と喋る機会が増えたりしたら、まわりに誤解されちゃうじゃない」

 こんなところに引っ張ってくるのも誤解を招くんじゃないかと思うが、今はそれどころではないので言わないでおく。
 そのかわり、俺は昨夜の出来事を手短に霧島に語って聞かせた。

「……君、意外とお話が上手いのね。怪談師とかに向いてると思うわよ」

 死んでもゴメンだ。

「それよりどう思う? もしかして槇野は、俺にチョコを渡したくて化けて出てきたのか?」

「……んーと、そうね」

 少し考えてから霧島は、廊下の窓から見える景色を指さした。

「あそこ……中庭の木の横あたり、何か視える?」

「いや、何も」

「ふーん、そう。ならいいわ」

「よくねぇ! 何がいるんだよ!? 怖くてもう中庭通れなくなるだろ!」

 俺の抗議を無視して、霧島は続けた。

「他の霊が視えない君が、なぜか槇野さんの霊だけは視えるってことは、間違いなく君がターゲットってことでしょ」

 ……じゃあアレか。電柱の陰に佇んでいたのは、俺にチョコを渡したくて帰り道で待ってた的なアレなのか。

(だったらもっと普通に出て来てくれよ、槇野……)

 そもそも、恨まれるおぼえもないが、彼女にそこまで好意を持たれるようなおぼえも俺にはない。

 そう言うと、霧島はこう答えた。

「恨みとか、苦しみとか、未練とか……そういうのって、本当のところはきっと、当人にしかわからないものよ。私だって、わかったようなことなら言えるけどね」

 そして霧島は、今度は自分の制服の胸元を指さす。
 ……ちなみに、クラスでもかなり目立つ巨乳である。そこに触れるとまた確実に怒るだろうから言わないが。

「霊にとって、生前よく着ていた衣服は自己認識の一部としてそのまま再現されることが多いけど……それ以外の物が一緒に霊体化するなんて、まずめったにないわよ」

 言われてみれば、全裸やパジャマや下着姿の幽霊というのはほとんど聞いたことがない。未練を残して亡くなった人の中には、そういった姿で死んだ人だって少なくないはずだが。

 それはともかくとして、やっぱり槇野にとって、『俺にチョコを渡したい』という思念はそれほどまでに強かったということだろうか……。

「なぁ、霧島……。もし俺がちゃんとチョコを受け取れたら、槇野は成仏できんのかな……?」

「は? 成仏? 何か勘違いしてるんじゃない?」

 霧島は冷たくそう言った。

「未練が解ければ彼女の残留思念も失くなるかもしれない。でも、それだけよ。別にそれで彼女の魂が救われたりするわけじゃない。だって槇野さんはもう、この世にいないんだから」

「いや、そんな……。だってさ、それじゃあ霊に呪われたり祟られたりとかいった話はどうなるんだ? ああいうのも本当は存在しないってのかよ?」

「なに言ってるの? それは存在するわよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ……彼女の言葉は、俺には正直よくわからなかった。ただ、やっぱりどうしても引っ掛かる。

「――俺さ、槇野がそんなふうに思ってくれてるなんて、マジで全然気付かなくて。……でももし、もしも気付いてたら、死ぬ前に相談してくれてたら、何か出来たかもって……」

 これまでどこか投げやりな調子で話していた霧島は、そこで少し真剣な顔をして俺を見た。

「気にする必要ないわよ。あなたに相談して解決するようなことなら、彼女だってとっくにやってるわ。それでも救われないと判断したから、死を選んだのよ。……私だって、槇野さんに同情しないわけじゃない。でもね、死んでしまった後で何をやったって、それは生きている者の自己満足でしかないのよ」