俺は暗がりが嫌いだ。
小さい頃、遊園地のお化け屋敷で大泣きしてしまったトラウマのせいだ。
怪談話やスプラッタ映画なら全然平気だが、何もいるはずのない暗闇から突然現れてビクッとする、というのは、恐怖とは微妙に異なるものだと思う
同様に、幽霊というものも苦手だ。
――と言っても、実際に目にしたのは、彼女が初めてだったが。
塾で遅くなった帰りのことだ。コンビニで缶コーヒーとホットスナックを買い、しばらく歩くと老朽化した街灯がまばらに立っているだけの薄暗い通りに差し掛かる。眩しいぐらいのコンビニの明かりを、少しこっちにも分けてくれればいいのにと思う。
もっとも高校生となった今では、さすがにこの程度の夜道を怖がることはない。せいぜい電柱の陰から猫だのカラスだのが飛び出してきてビビらせたりしないでくれよ、と祈るぐらいである。
明かりのない電柱の脇を通り過ぎたとき――なぜだか急にゾクッとした。
いや、ゾクッなどという生易しいものじゃない。背後から冷水を浴びせかけられたような、不吉と嫌悪と危機意識が一緒くたに入り混じったような……。
電柱の陰に、何かがいた気がする。視界の端に何か黒っぽいものを一瞬とらえたような……。
いや、そんなハズはない。そんな、人間ぐらいの背丈の存在なら、向こうからでも見えていたはずだ。
だが、通り過ぎるその瞬間まで、気配は微塵もなかったのだ。
振り返るな。もうひとりの自分が頭の中でそう叫ぶ。その横でまたもうひとりの自分が「本当にあるんだ、こういうの」などと呑気な感想を述べている。
確かにホラーでありがちな展開だが、こういうときどうして人は振り返ってしまうのか。その答えがわかったような気がした。
正体のわからないものを、わからないままにしておく恐怖のほうが、少しだけ勝ってしまうからだ。
――そこに、彼女はいた。
高校の制服姿の、華奢な少女。
その肌の色はおよそ生者のものとは思えず、薄明かりの下の電柱やコンクリ塀の質感と大差ない。
着ているブレザーは乾いているのに、髪だけが濡れたようにじっとりと、青白い額と頬に張り付いている。
少女は、俺のほうに向きなおると、うつむいていた顔をゆっくりと上げた。
長い前髪の合間から覗く目……いや、これは目と呼んでいいのか。
彼女の眼窩には、まるで背後の暗闇を透過しているかのように、黒っぽい穴がただポッカリと空いていた。
「うっはう、ひくっ、しやぁぁぁあああぁ……!!!」
この不気味な奇声を上げたのは俺のほうだ。舌が回らず、喉がきゅうっと締め付けられ、腰が抜けて尻もちをついた拍子に、悲鳴にならない悲鳴が夜空に抜け出ていった。
食べかけていた牛肉コロッケが、地面にボトリと落ちた。
俺の声に驚いたのだろうか。彼女は空洞の目を大きく見開いたまま、その姿はすうっと消えてしまった。
「……槇野《まきの》?」
アスファルトにへたり込んだまま、俺はそうつぶやいていた。
頭の中の自分たちは、明日にでも自転車を買おうと相談を始めていた。
† † †
――槇野《まきの》絵未《えみ》。
その名が出てきたのには、ワケがある。
まずひとつには、少女の幽霊が着ていたブレザーが俺と同じ高校のものだったこと。
そしてもうひとつ。
クラスメイトだった槇野絵未は……つい先週、死んだのだ。
自殺だった、らしい。
深夜に、鉄道の高架から、下の河へと飛び込んだのだという。
特に親しい間柄でもなかった俺には、それ以上のことは知る術もない。
遺族の意向か故人の遺志か、学校の人間が葬儀に呼ばれることもなかった。
ドラマなんかではよく、亡くなった生徒の席に花瓶が置かれていたりするけれども、風などで倒れては危険なので、透明なフィルムに包まれた造花の束だけが、ポツンと空いた机の上に供えられていた。
女子の誰かがその横にお菓子やジュースを並べ始めたが、教師も特に注意はしなかった。
槇野は、とにかく地味で目立たない子だった。
特にイジメられたりしていたわけではないと思うが、誰かと仲良くおしゃべりしているところも見たことがない。不登校というほどではないが、週に1、2日は理由もなく来なかったりする。
教室で何度かたまに、長くて鬱陶しそうな前髪の隙間からこちらを見ている彼女と目が合ったことがある。
そんなとき彼女は決まって、無言でプイッと視線をそらした。
(槇野……成仏できてないのか……)
死んだと聞いたときも驚いたが、そう考えるとあらためて彼女を憐《あわ》れむ気持ちがわいてきた。
あのあと、逃げるように帰宅した俺は自室のベッドに寝転がり、スマホで供養や浄霊のやり方について検索したりしてみた。
が、ただの高校生個人に出来そうなことと言えば、お花やお菓子を供えたりとか……。それはもうクラスでやっている。
自転車のついでに線香でも買うか。そう考えて、ふと疑問に思った。
槇野はどうして、あんなところに出たのだろう?
彼女の家はあの辺りではないし、あそこで自殺したのなら、さすがに騒ぎが近所の俺の耳にも入っているはずだ。
――ビィィィィン。
そのとき、部屋の窓ガラスが、何かに共鳴するかのようにかすかな音を立てて震えた。
季節外れのカメムシかカナブンでもぶつかったのだろうか。俺は深く考えずにシャッとカーテンを引き開けた。
「……ひぃッ!?」
窓越し、俺の顔のすぐ前に、あのポッカリと空いた黒い空洞の目があった。
俺の部屋は2階だというのに、槇野の幽霊は、当たり前のようにそこに張り付いていたのだった……。
小さい頃、遊園地のお化け屋敷で大泣きしてしまったトラウマのせいだ。
怪談話やスプラッタ映画なら全然平気だが、何もいるはずのない暗闇から突然現れてビクッとする、というのは、恐怖とは微妙に異なるものだと思う
同様に、幽霊というものも苦手だ。
――と言っても、実際に目にしたのは、彼女が初めてだったが。
塾で遅くなった帰りのことだ。コンビニで缶コーヒーとホットスナックを買い、しばらく歩くと老朽化した街灯がまばらに立っているだけの薄暗い通りに差し掛かる。眩しいぐらいのコンビニの明かりを、少しこっちにも分けてくれればいいのにと思う。
もっとも高校生となった今では、さすがにこの程度の夜道を怖がることはない。せいぜい電柱の陰から猫だのカラスだのが飛び出してきてビビらせたりしないでくれよ、と祈るぐらいである。
明かりのない電柱の脇を通り過ぎたとき――なぜだか急にゾクッとした。
いや、ゾクッなどという生易しいものじゃない。背後から冷水を浴びせかけられたような、不吉と嫌悪と危機意識が一緒くたに入り混じったような……。
電柱の陰に、何かがいた気がする。視界の端に何か黒っぽいものを一瞬とらえたような……。
いや、そんなハズはない。そんな、人間ぐらいの背丈の存在なら、向こうからでも見えていたはずだ。
だが、通り過ぎるその瞬間まで、気配は微塵もなかったのだ。
振り返るな。もうひとりの自分が頭の中でそう叫ぶ。その横でまたもうひとりの自分が「本当にあるんだ、こういうの」などと呑気な感想を述べている。
確かにホラーでありがちな展開だが、こういうときどうして人は振り返ってしまうのか。その答えがわかったような気がした。
正体のわからないものを、わからないままにしておく恐怖のほうが、少しだけ勝ってしまうからだ。
――そこに、彼女はいた。
高校の制服姿の、華奢な少女。
その肌の色はおよそ生者のものとは思えず、薄明かりの下の電柱やコンクリ塀の質感と大差ない。
着ているブレザーは乾いているのに、髪だけが濡れたようにじっとりと、青白い額と頬に張り付いている。
少女は、俺のほうに向きなおると、うつむいていた顔をゆっくりと上げた。
長い前髪の合間から覗く目……いや、これは目と呼んでいいのか。
彼女の眼窩には、まるで背後の暗闇を透過しているかのように、黒っぽい穴がただポッカリと空いていた。
「うっはう、ひくっ、しやぁぁぁあああぁ……!!!」
この不気味な奇声を上げたのは俺のほうだ。舌が回らず、喉がきゅうっと締め付けられ、腰が抜けて尻もちをついた拍子に、悲鳴にならない悲鳴が夜空に抜け出ていった。
食べかけていた牛肉コロッケが、地面にボトリと落ちた。
俺の声に驚いたのだろうか。彼女は空洞の目を大きく見開いたまま、その姿はすうっと消えてしまった。
「……槇野《まきの》?」
アスファルトにへたり込んだまま、俺はそうつぶやいていた。
頭の中の自分たちは、明日にでも自転車を買おうと相談を始めていた。
† † †
――槇野《まきの》絵未《えみ》。
その名が出てきたのには、ワケがある。
まずひとつには、少女の幽霊が着ていたブレザーが俺と同じ高校のものだったこと。
そしてもうひとつ。
クラスメイトだった槇野絵未は……つい先週、死んだのだ。
自殺だった、らしい。
深夜に、鉄道の高架から、下の河へと飛び込んだのだという。
特に親しい間柄でもなかった俺には、それ以上のことは知る術もない。
遺族の意向か故人の遺志か、学校の人間が葬儀に呼ばれることもなかった。
ドラマなんかではよく、亡くなった生徒の席に花瓶が置かれていたりするけれども、風などで倒れては危険なので、透明なフィルムに包まれた造花の束だけが、ポツンと空いた机の上に供えられていた。
女子の誰かがその横にお菓子やジュースを並べ始めたが、教師も特に注意はしなかった。
槇野は、とにかく地味で目立たない子だった。
特にイジメられたりしていたわけではないと思うが、誰かと仲良くおしゃべりしているところも見たことがない。不登校というほどではないが、週に1、2日は理由もなく来なかったりする。
教室で何度かたまに、長くて鬱陶しそうな前髪の隙間からこちらを見ている彼女と目が合ったことがある。
そんなとき彼女は決まって、無言でプイッと視線をそらした。
(槇野……成仏できてないのか……)
死んだと聞いたときも驚いたが、そう考えるとあらためて彼女を憐《あわ》れむ気持ちがわいてきた。
あのあと、逃げるように帰宅した俺は自室のベッドに寝転がり、スマホで供養や浄霊のやり方について検索したりしてみた。
が、ただの高校生個人に出来そうなことと言えば、お花やお菓子を供えたりとか……。それはもうクラスでやっている。
自転車のついでに線香でも買うか。そう考えて、ふと疑問に思った。
槇野はどうして、あんなところに出たのだろう?
彼女の家はあの辺りではないし、あそこで自殺したのなら、さすがに騒ぎが近所の俺の耳にも入っているはずだ。
――ビィィィィン。
そのとき、部屋の窓ガラスが、何かに共鳴するかのようにかすかな音を立てて震えた。
季節外れのカメムシかカナブンでもぶつかったのだろうか。俺は深く考えずにシャッとカーテンを引き開けた。
「……ひぃッ!?」
窓越し、俺の顔のすぐ前に、あのポッカリと空いた黒い空洞の目があった。
俺の部屋は2階だというのに、槇野の幽霊は、当たり前のようにそこに張り付いていたのだった……。