その日。ボクは学校が終わって帰宅する途中に、ちょっとした気まぐれを起こして、いつもとは違う道から帰った。

 時刻は昼から夕方になろうかという時間帯。

 いつもとは少し違う景色。でも決して目新しい風景ではない日常の延長。ほんのちょっとした冒険。

 路地に、いくつか気まぐれで入りこみ、方角は家と学校の中間にある高台に合わせて歩く。

 景色がいつもと違うってだけで、皿を洗う音や、テレビの音。ときおり、遠くでバイクの音や救急車のサイレンの音までが、何だかやけに新鮮に聞こえるから不思議だ。ただの生活音なのに。

 高台にやってきた。

 街を見下ろす景色は果てしなく広大で、世界はきっとボクが知る以上に、ずっと広くて、そしてここに来るまでに通った路地のように入り組んでいる。

 空は、朝のどんよりとした雲とは、うって変わり。キレイな青い空で彩られていた。

 しばらくその景色に見惚れていたらしい。

 結構な時間を過ごしたようで、公民館から放送が流れ始めた。

『良い子の皆さん。そろそろおうちへ帰りましょう』

 そんな放送を聞きながら、ボクは良い子じゃないから、もう少しだけ景色を眺めていようかな。なんて思いながらも、素直に帰り支度をする。

 嘘だよ。ちゃんと帰るよ。

 お父さんとお母さんが心配するからな。

 ボクの今日の冒険は終了の時間だ。

 そんなことを思いながら、来た道とは違う、家までは最短の道を通って歩く。

 すると、そんな帰り道に、今まで気が付かなかった道があることに気がついた。

「あれ? こんなところに道なんてあったっけ?」

 家と家のすき間にある細い道。その道はまるで隠されるようにして存在していた。空は薄い水色と濃い茜色で染まり始めていて、そこには輝く星がポツポツと浮かんでいる。

 そろそろ逢魔が時と呼ばれる時間帯だ。

 日常の中にポッカリと開く空白の時間。その時間帯には魔が通るという。ちょうどボクの元にも空白の時間が訪れたようだ。

 静けさが訪れる。遠くで聞こえていたバイクの音も、食器を洗う音も聞こえない。夕刻の人々のざわめきが少しの間だけ止んだのだ。

 ボクの心臓が”とくん”と高鳴る。

「まさか、な?」

 そうは思ったが、でも確かめずにはいられない。ボクはその路地を進むことにした。また次回に来ればいいじゃない。そうも思うが、でも、もし。次回なんて無くて、この時だけに許される冒険だとしたら?

「行くだろ。ここはさ」

 辺りは、だいぶ日が落ち始めている。しかし、まだギリギリ冒険をする時間が残されている程度には明るい。

 一瞬。

 朝のお母さんとの会話が、頭の隅《すみ》によみがえった。行方不明事件。神隠し。

 でも……
 心臓が高鳴る。
 何かが起こるのではという期待と、何も起こらないだろうという諦《あきら》め。

 だからこそ確かめたい。

 次第にボクは早足になる。

 そして……

「西洋館……」

 路地を抜けた先には、確かに古めかしい西洋風の館があった。灰色の煉瓦でできた三角屋根が特徴の三階建ての館。

 両隣には普通の民家が建ってはいるが、そこに人がいる気配はない。そろそろ夜になるのに。

 夕飯の支度をしていてもおかしくない時間帯なのに。どこの家にも人の気配もないし、また電気もついていない。

 違和感で背筋がゾクゾクする。街灯すら無い、薄暗い路地。

 ボクは西洋館から視線を外して、来た道を振り返った。

 路地を引き返すことは出来る。が……

 心臓がドクンドクンと高鳴っている。

「行くだろ。当然」

 ここまで来たんだ。自分自身にそう言い聞かせて前へと進む。

 ボクは館の表にある格子の門を静かに開けた。そして中に声をかける。

「すみませーん」

 返事はない。

 その後も二度三度と声をかけるが、やはり返事はない。

「誰もいないのか?」

 ボクは、そのまま門をくぐって屋敷の玄関の扉へと手をかけた。

「開けちゃいますよぉ」

 そう誰にともなく小さく呟いて、取っ手を下にひねった。

 ガチャリと苦もなく開く玄関のドア。

 キィィィと軋む音がやけに耳に残る。

 家の中を覗き込むと、目の前には大広間が広がっていた。しかし薄暗くて中を見渡すことは出来ない。

 ボクはもう一度、中に声をかけた。

「すみませーん」

 やはり返事はない。

 一度後ろを振り返る。

 宵闇の空が広がっている。もう冒険は終わりを迎える時間帯だ。

 ここが引き返せる最後の分岐点。

 再び中を見る。玄関の前に立つボクの影は屋敷の中へと長く長く伸びている。

 一つ理解した。

「なるほど。隣の学校の女の子が引き返したわけだ」

 これは怖い。

 だが、怖がっていては冒険はできない。

 勇気を振り絞ってボクは前へと踏み出したのだった。