皇太弟の目と鼻の先で雷鳴壺の女御が転がり落ちたとの噂は平安京を駆け回り、摂関家にも内裏にも届いた。
 当の皇太弟はそこにいたのが兄帝であることを知っていたのでなんとも不思議な気分になりながら、雷鳴壺の女御の容貌を知りたがる友人知人を適当にあしらっていたが、それも限界になりつつあった。
「……主上、雷鳴壺の女御様をそろそろ内裏に呼び戻せませんか」
 げんなりした顔で弟にそう言われ、帝はため息をつく。
「主上の元にいないから、あれらは雷鳴壺の女御様と恋人になる機会があるなどと思い上がるのです。変なことになる前に手元にお戻しになるのが得策かと」
「……ああ、そうだろうなあ」
 そのつもりだったのだ。
 葵祭でひっそりと再会を果たすつもりだったのだ。それがあのような騒ぎになろうとは。
 鞠の君はどれだけ恥ずかしく、怖かったことだろう。
 帝にはそれが自分が策略を巡らせた罰であるように思えてならなかった。
「……文を送る」
「……どうせ元はと言えば山からさらってきたお方ではないですか」
 ごく一部のものしか知らないことをポツリと皇太弟はつぶやいた。
「またさらってくるのに、何の違いがありましょう?」
「…………」
 帝は、なんとも言いがたく黙り込んだ。

「……お頭!」
 その頃、都から少し離れた山の奥。鞠の君と帝が出会ったあの山で、ひとりの山賊が死にかけていた。
 床に伏せる男の元に、ひとりの部下が走り寄ってきた。
「……なんだ」
 苦しい息の中、山賊は目を開けた。
「……あの小娘の行方がわかったかもしれません」
 小娘、と言われて、山賊は一瞬、誰のことかわからなかった。
「あの小娘です……お頭の娘の……」
「…………っ」
 山賊の顔が曇ったことに、部下は気付かない。
「祭りで帝の妃が牛車の事故に遭ったそうなんですが……その女の左目の下に、ほくろがあったそうです。あの小娘にもほくろがありましたでしょう」
「…………」
 覚えていない。子供の顔など、じっくり見た記憶が山賊にはなかった。
「良い機会じゃないですか! いくら山賊だからといって人様のところの大事な労働力である娘をさらったんだ! 寺の荒くれ者どもの協力を取り付けて、帝を脅して金を分捕って……」
「放っておけ」
「お頭!」
「……放っておけ」
 そう言って山賊は目を伏せた。
 娘が生きていようと死んでいようとどうでもよかった。あの時に離ればなれになったのも何かの因果であったのだろう。まさか帝の妃に収まっているとは思わなかったが。
 だから放っておけば良い、そう思った。
 そう思って、山賊の思考はそこで永遠に止まった。
 山賊の頭と胴は泣き別れになっていた。
「あんたはつまらねえ男になった」
 刀についた血を払いながら、部下はそう吐き捨てた。
「おい! 行くぞ! お頭はもう駄目だ! 病気で弱っちまった! 俺たちであの小娘を取り戻すぞ!」
「おう!」
 すでに山賊達は決起のために武装に身を包んでいた。
「生臭坊主に掛け合って寺社の協力も取り付けたんだ! 今更後に引けるか! 目指すは小娘が療養してるという摂関家だ!」
 こうして鞠の君の故郷の山から、大勢の山賊が下りてきた。

 僧兵たちが都に押し寄せてきたことは、すぐさま摂関家にも内裏にも伝わった。
「……いったい今度は何を要求しているのだ」
 帝は頭を痛めながら近侍に尋ねた。
「そ、それが……その、雷鳴壺の女御様を返せと主張しているようです……」
「何!?」
「……雷鳴壺の女御様は自分たちの元からさらわれたと主張している連中がいるようで、そのものたちに頼られたと言っています」
「…………」
 事実、である。帝はすぐに思い至る。あの時、鞠の君の顔が衆目に晒されてしまった。その顔立ちが広まり、山賊達が寺社を煽って鞠の君を奪い返しに来た。
「……いや」
 わざわざ鞠の君を取り戻すつもりはないだろう。せいぜい金目のものさえ手に入れられれば、山賊も僧兵もそれでいいのだ。鞠の君は騒ぎ立てる理由にすぎない。
「……摂関家に頼み込んでまとまった財を用意する」

 摂関家では鞠の君が騒ぎを耳にし、立ち上がっていた。
「鞠の君様いけません!」
「これ以上、ご迷惑を掛けたくありません……」
 鞠の君は顔を伏せた。
「ああいう連中はただ帝の譲歩を引き出すために暴れているのです。あなたが出て行っても何にもなりません!」
「……でも」
 鞠の君はうつむいた。
「ま、鞠の君様! 春式部殿!」
 摂関家の女房が駆けてきた。
「どうしました?」
「……しゅ、主上がおいでになりました」
「…………お通しして。よろしいですね、鞠の君様」
 春式部はそう言った。
 鞠の君が何かを返す前に女房が走り去ってしまった。
「…………」
 そうして鞠の君の部屋に、帝がやってくることとなった。