鞠の君が東宮の妻となってしばらくの間、ふたりは仲睦まじく過ごした。
鞠の君は生育の影響もあってか、とても無口であったが、東宮はそのようなことを気にせず、ひたすらひとりで鞠の君へと話しかけ続け、鞠の君はこくこくと頷きながら、聞いていた。
「ほら、鞠の君、梅が咲いている。もう春だな。梅と言えばやはり大友家持の詠んだ『雪の上に照れる月夜に梅の花折りて贈らむ愛しき子もがも』であるな。夜になったらまた見に来ようか」
「そうですか」
「鞠の君、祭りを見に行くぞ。京で祭りと言えば葵祭だ。叔母上が斎王を勤められれるのだ。見物であるぞ」
「はい」
「鞠の君、こほろぎを捕まえたのだ。お主にやろう」
「よい声で鳴きますね」
「そうだろう、そうだろう。秋になったなあ……」
「鞠の君、雪が降ってきたな。寒くはないか。ほら、近うよれ」
「火鉢があるので暖こうございます」
「つれないことを言うな。ほら、こうするともっとあたたかいぞ」
そんな二人を宮中の者どもも温かい目で見守っていた。
特に東宮の母――皇后が山からやって来た鞠の君のことを蔑むこともなく、大層可愛がったので、後宮の中で鞠の君は自然と受け入れられるようになった。
もっとも皇后には打算もあった。
鞠の君は表向きは皇后の実家筋の娘ということになっていた。
鞠の君が東宮の子を産めば、皇后の実家は二代にわたって大きな力を持つことが出来る。そのため、東宮が鞠の君への思いを失わぬよう、鞠の君を盛り立て続けた。
しかしそのさらに一年後、帝が崩御し、東宮が即位した。
それからというもの、帝となった東宮の元には多くの縁談が舞い込み、後宮は鞠の君以外の女君達で溢れるようになった。
東宮は無口で教養の足りぬ鞠の君より、名家で生まれ育った女君たちに惹かれていくようになった。
「……今日も東宮様はこなかった」
ぽつりと鞠の君はつぶやいた。
鞠の君の教育係である春式部は彼女を諫めた。
「もう帝になられたのです。東宮様ではございません。主上とお呼びしましょうね」
「……主上」
それは誰だろう。知らない人の名前のようだ。
自分につけられた鞠の君という名前にはすぐに慣れたというのに、東宮が帝になったことに、鞠の君は慣れなかった。
鞠の君は、居住として雷鳴壺を与えられた。
そこは後宮の中ではあまり位の高い住居とは言えなかったが、鞠の君に不満はなかった。元は山から飛び出てきたような女である。後宮に住まえるだけで十分に恵まれていると鞠の君は知っていた。
ただ、鞠の君には都に友人と呼べる人がいなかった。
東宮ただひとりが鞠の君の世界のすべてであった。
「…………」
鞠の君は日がな一日、宮中に上がるときに持たされた鞠を眺めながら、雷鳴壺の中に籠もりきりで、過ごすようになった。春式部以外の女房も最低限しか近付けなかった。
色鮮やかな鞠を見ていると、幼いころに大事にしていた鞠が思い出された。
あのみすぼらしい鞠を、自分はどこへやってしまったのだろう。
ふと今の自分の有様は鞠をなくした自分への因果応報であるように思えてきた。鞠を忘れた自分と、帝に忘れられた自分。
「ふふ……」
鞠の君は自分の思考に苦笑した。因果応報、そのような言葉も、あの日、東宮に出会わなければ鞠の君は一生知らなかっただろう言葉であった。
因果応報というのなら、そもそも自分がこのような大それたところにいるのが因果からよっぽど外れている。
それがおかしかった。
あるとき、鞠の君は思い付いたように文をしたためた。
皇太后――帝の母に宛てたものだった。
そこには後宮を辞したいとの思いが記されていた。
帝に必要とされぬというのなら、せめてこの身に余る後宮を出たかった。もちろん鞠の君に行くあてなどない。強いて言うのなら、皇太后の実家、東宮の母方の家だけが頼れる場所であった。
だからこそ皇太后に頼るしかなかった。
しかし皇太后からの返答はそれを却下するものだった。
皇太后の実家はまだ鞠の君に帝の子を産ませ、権力を独占することを諦めてはいなかった。
鞠の君はたった一人の頼みの綱を頼ることもできなかった。
文の最後にはこう記されていた。『あなたがこのように文字を読み書きできるようになったこと、誇らしく思います』
その言葉は鞠の君の心に一筋の光を灯した。
山賊の娘であった頃は文字どころか言葉すらろくに知らなかった小娘が、今はこうして文をしたためるまでになった。
それは夢にも見ず、願いもしなかったことである。
皇太后様が誇ってくれたのだ。自分もそれを誇ろう。
そうしてその日から鞠の君の日課は日記になった。
巷に名高い女房達の流麗な日記には遠く及ばないものの、春式部から『悪くはありません』との評価がもらえるほどには体裁の整った日記を綴るようになっていった。
春式部は実家で秀才の兄とともに学問を学んでおり、文章には人一倍うるさかったので、鞠の君は春式部にそう言われることで、自信を持った。
鞠の君は細々と日記を書き暮らすようになった。
竜田川が唐紅に染まる頃、鞠の君の元に一通の文が届いた。
「鞠の君様、文にございます」
御簾の向こうからそう聞こえ、今日も今日とて紙に向かっていた鞠の君はぴょんと飛び跳ねた。
しかしもう帝からではないかと期待するようなこともない。
五年も放置されていれば、さすがに諦めも付いていた。
それは帝の母、皇太后からの文であった。
皇太后はいつ何時とてすべてにおいて気品溢れるお方であったが、届いた文の文字は乱れていた。
皇太后は長らく慣例に従い、後宮の藤壺に住んでいたが、今は体調を崩し実家に里帰りをしていた。
その実家、今では帝の摂政としてお仕えし、摂関家として名を馳せていた。
「皇太后様……」
その文には自分はそう長くないであろうこと、以前に鞠の君の宿下がりを拒んだことへの謝意、そして見舞いを名目に帰ってこないかと乱れた字で切々と綴られていた。
「…………」
鞠の君はそれを読み終えるとポロポロと涙を流し始めた。
皇太后は鞠の君にとって母も同じであった。
かつては東宮妃として期待された鞠の君も、今となっては摂関家の若い姫君の入内も決まり、摂関家のもくろむ政治介入の道具にすらなれずにいた。
この文はそのことも慮ってのことであろう。
「春式部、主上に宿下がりの許可を願い出ます。添削してくだされ」
春式部は、鞠の君の涙に濡れながらも凛とした言葉に、深々と頭を下げた。
さて、帝の元に鞠の君から文が届いた。
この頃の帝には違う女御との間に二人の姫君をもうけていた。
しかし男君が生まれない。
近頃では同母弟を皇太弟として立てることも視野に入れるべきと摂関家からせっつかれているところであった。
帝には同母弟との間に、もう一人異母弟がいて、摂関家はその異母弟が帝になることをいたく警戒していた。
同母弟であれば、その母方の血筋である摂関家はそのまま権力を握っていられる。
母の実家のもくろみなど手に取るように分かったが、それを拒絶する大きな理由も持たない帝であった。
「雷鳴壺の女御様からのお手紙にございます」
側近に文を手渡され、帝は遠い昔を瞬く間に思い出した。
雷鳴壺の女御とはあまり親しみのない言葉であった。あの者は鞠の君だ。あの日、山野で出会った山賊の娘。
あの小汚い鞠を、心底大事そうに握っていた娘。
後宮へ入った際にはあでやかな鞠を持っていたが、あれで遊ぶような年でももうあるまい。
今頃どうしているものか。同じ後宮にありながら、帝は彼女の元へなかなか通えずにいた。
どの女御を優先すべきか、政治的な判断もあった。しばらく放っていると後ろめたさがあった。そうこうしているうちにすっかり顔を合わせづらくなっていた。
「……五年、か」
言い訳に言い訳を重ね、五年も放っておいてしまった。
それほどの間、沈黙を保っていた女御が一体何用であろう。
恐る恐る文を開く。
そこには皇太后の見舞いと称して宿下がりを願い出る言葉が綺麗な文字で綴られていた。
帝は絶句した。内容にではなくその文字の美しさに戸惑った。
まだ東宮であった頃、母の監視の下、鞠の君と手紙をやり取りすることがあった。
それはままごとの一環であると同時に、鞠の君が文字を書けるようになるための訓練でもあった。
その頃、鞠の君の字はお世辞にも綺麗とは言いがたかった。
かろうじて読める、そのような文字ばかりであった。
「…………」
自分の文箱を漁り出す。奥の奥にあった。鞠の君からの手紙。
見比べる。代筆を頼んではないかと疑わしくなるほどの上達ぶりであったが、ところどころの文字の癖が昔と同じであった。
しばらく帝はその手紙を眺めると、急いで許可のための手紙を書いた。
簡素な許可を出す手紙に、鞠の君は寂しげに微笑むと、荷物を纏めた。
もう雷鳴壺に戻ることもないだろう、そう思いながら。
春式部を伴って、久方ぶりに帰った摂関家はますます隆盛を誇っていた。
鞠の君が怖々と帰ってきたのを、彼らは存外あたたかく迎え入れた。
おそらく皇太后の言い付けが行き届いているのだろうと鞠の君は察した。
皇太后の側には常に僧侶が付き添い、経を上げていた。
香の匂いの中に、隠しきれない病の匂いを鞠の君は嗅いだ。
「髪を下ろします」
か細い声で皇太后はそう言った。
「……さようですか」
「主上も出家をお許しくださいました」
「……おめでとうございます」
「……その前に鞠の君に会いたかった」
皇太后は悲しげに微笑んだ。
「あなたには家の都合でいろいろと無理をさせました」
「いえ、身に余る光栄ばかりでした……後宮へ入ったのも、そう悪くはありませんでした」
「春式部から聞いておりますよ、近頃日記を書いているそうですね」
鞠の君は顔を赤らめ、春式部を睨んだが、彼女は御簾の外であった。
「読んで聞かせてちょうだいな。もう目がかすんで文字も読めぬ哀れな母に」
母、そう名乗る皇太后に鞠の君の目から涙があふれ出した。
「はい……」
泣きながら鞠の君は纏めてきた荷物から日記を持ってこさせた。
虫の鳴き声、風に乗って入り込んできた花びら、冬の雪、それらへの素朴な思いが連綿と綴られた日記を、鞠の君はしゃくりあげながら、読み続けた。
皇太后はやがてその声を子守歌にすっと眠りについた。
鞠の君は摂関家に留まり、入れ替わりのように若い姫君が後宮へ入内した。
それからほどなくして皇太后はこの世を去った。冬の寒い日のことであった。
鞠の君は摂関家に一間を用意され、そこに置かれた。
仮にも帝の女御としてはみすぼらしい一間であったが、鞠の君にはその一間が心底ありがたがった。
いっそ自分も出家をしようかと鞠の君は考えつつあった。
皇太后を見舞う中、僧侶と話をしていた。彼女は仏の教えに目覚めつつあった。
帝の代わりに皇太后を弔う。そういう理屈が立たないかと思案した。
春式部はさすがに反対した。
雷鳴壺はまだ空いていた。一度戻ってはどうかとも言われたが、鞠の君は摂関家に留まった。
あるとき、帝から文が届いた。
ただ一首、和歌が詠まれていた。
『垂乳根の 母を見舞いし いつとせに 鞠の音をも なつかしければ』
(母の見舞いに行かれてもう五年ほどの月日が経ったかのようです。あの鞠の音すら懐かしく思えるほどの時間です)
鞠の君にもさすがにそれの意味するところはわかった。
恋しい、帰ってこいと言っている。五年もこちらを忘れておいて。
鞠の君は返歌をしなかった。
そもそもどう返していいのかを彼女は知らなかった。
春式部がそんな彼女に大量の歌集を持ってきた。
鞠の君は十日ほど唸ってようやく歌を詠んだ。
『久方の 光のごとき 君の文 長き夜を経て 涙溢るる』
(光差すようなあなたの手紙をいただきましたが、あまりに長い夜を過ごしたので、私の目は涙に濡れて見ることが叶いません)
その歌は帝の元へ届けられた。
帝はただため息をついた。
鞠の君は結局出家はせず、しかし度々僧を呼び、皇太后のために経を上げてもらいながら、時を過ごした。他にすることもなかった。
何もせずにいるというのに、次第にその評判は都に聞こえるようになりつつあった。
帝が呼びつけても戻らぬほどの奇矯者でかつ、帝が執心するほどの美人であるとどこからともなく評判が流れた。
帝の女御を一目見ようと不届き者が摂関家の邸周りをうろつくようになった。
もちろんすぐに追い払われたが、春式部は妙に胸がざわつくのを感じた。
そんなあるとき、摂関家の宴に来ていた評判の遊び人が、度胸試し半分、恋心半分で、鞠の君の部屋のすぐ近くまで訪れてしまった。
行き会った女房が悲鳴を上げたので、すぐに春式部が鞠の君を邸の奥に隠し、事なきを得た。
鞠の君は初めて恐怖を覚えた。
しかしそれでも後宮に戻る選択肢は彼女になかった。
彼女は出家を強く意識するようになりつつあった。
そうこうしているうちに、冬も終わり春が過ぎ、葵祭が近付いていた。
「こうしましょう、鞠の君様」
春式部は珍しく鞠の君を真っ直ぐ見据えると具申した。
「葵祭に見物に行き、帝がこちらに気付いたら、内裏に戻りましょう」
「…………」
鞠の君は黙り込んだ。
葵祭で帝は輿に乗る。あのようなところからこちらに気付けるわけもない。
「そうでなければ、この春式部、これ以上小うるさくは申しません」
「……わかったわ」
鞠の君はうなずいた。
それを見て、春式部はにこりと笑うとテキパキと段取りを進め始めた。
「それでは牛車を用意させましょう。摂関家のものを使えばすぐ見抜かれますでしょうから、どこかから借りてこなければ」
春式部はそう言いつつ、その牛車について密かに摂関家の者を通して帝に文を送るつもりであった。
これ以上、鞠の君を摂関家に置いておくことが無性に不安であったのだ。
帝からはすみやかに返事が来た。感謝の意が記されていた。
鞠の君は春式部の実家から牛車を借りて、葵祭を見学しに行くことになった。
さて、葵祭とくればこの時代、祭りと言えば葵祭というくらい大きな祭りであった。
それはそれはたいそうな人出で、鞠の君は少し牛車が進んだだけですっかり参ってしまった。
特に彼女は牛車には慣れていなかった。人生で数度しか乗ったことがなかった。
さらに今日の牛車は春式部の実家から借りたものである。
あまり位の高いものとはいえず、周りの貴族も遠慮がない。
すっかりもみくちゃにされてしまう。
「春式部……」
鞠の君は牛車の揺れにすっかり弱ってしまって涙ながらに春式部を見る。
「も、申し訳ありません」
春式部も想定外の状況に頭を下げる。
しかし、そろそろ帝と示し合わせた巡り会う地点まで来ていた。
「引き返すにも……その、この人出ですし……」
「……我慢します」
春式部が困っているのを見て、素直に鞠の君はうなずいた。
春式部は焦れて外を見る。
帝は帝でお忍びのために弟君の牛車を借りていた。
こちらは何しろ皇太弟の牛車である。一目で貴族共は道を空けた。
そうこうしているうちに行列が近付いてきて、周囲の盛り上がりは最高潮に達する。
鞠の君があまりの騒がしさに身をすくめていると、群衆が行列を眺めようとわっと押し寄せ、あっちへ押し合い、こっちへ押し合い、とうとう牛車は均衡を崩してしまった。
「あっ」
「鞠の君様っ!」
とうとう鞠の君は牛車の中から放り出されてしまった。
「鞠の君っ!」
行列の向こう側、人が遠巻きに見守る特等席で、帝もそれを見た。
牛車から自分の妃が放り投げられてしまう姿に彼は慌てる。
「な、なりません。この状況で外に出るのは……!」
慌てて近侍が帝を押しとどめる。
さて、見物客からはざわめきが起こる。
鞠の君、と春式部が叫んだので放り出てきた女の正体が周知されてしまう。
鞠の君と言えば、雷鳴壺の女御、帝の妃、今は実家の摂関家で皇太后が亡くられた心労で療養中と噂のお人。
その顔を一目見ようと人々が押しかけてくる。
鞠の君は顔を隠すのが一瞬、遅れ、その顔、特に左目の下のほくろが衆目に晒されてしまった。
春式部が慌てて鞠の君を引っ張り上げる。
火事場の馬鹿力、鞠の君は春式部に引きずられ、牛車の中へと戻った。
山賊の娘であった頃ならいざ知らず、今となっては末席とは言え、帝の妃。
鞠の君はあまりの恥ずかしさにシクシクと泣き始めてしまった。
「……戻りましょう」
春式部が外にそう声をかける。
牛車はゆっくりと摂関家への道を戻り始めた。
「……鞠の君」
帝は遠くの牛車の中から心配そうな声を漏らした。
怪我はなかっただろうか。
無事であろうか。
そう思いながらも彼は見送ることしかできなかった。
皇太弟の目と鼻の先で雷鳴壺の女御が転がり落ちたとの噂は平安京を駆け回り、摂関家にも内裏にも届いた。
当の皇太弟はそこにいたのが兄帝であることを知っていたのでなんとも不思議な気分になりながら、雷鳴壺の女御の容貌を知りたがる友人知人を適当にあしらっていたが、それも限界になりつつあった。
「……主上、雷鳴壺の女御様をそろそろ内裏に呼び戻せませんか」
げんなりした顔で弟にそう言われ、帝はため息をつく。
「主上の元にいないから、あれらは雷鳴壺の女御様と恋人になる機会があるなどと思い上がるのです。変なことになる前に手元にお戻しになるのが得策かと」
「……ああ、そうだろうなあ」
そのつもりだったのだ。
葵祭でひっそりと再会を果たすつもりだったのだ。それがあのような騒ぎになろうとは。
鞠の君はどれだけ恥ずかしく、怖かったことだろう。
帝にはそれが自分が策略を巡らせた罰であるように思えてならなかった。
「……文を送る」
「……どうせ元はと言えば山からさらってきたお方ではないですか」
ごく一部のものしか知らないことをポツリと皇太弟はつぶやいた。
「またさらってくるのに、何の違いがありましょう?」
「…………」
帝は、なんとも言いがたく黙り込んだ。
「……お頭!」
その頃、都から少し離れた山の奥。鞠の君と帝が出会ったあの山で、ひとりの山賊が死にかけていた。
床に伏せる男の元に、ひとりの部下が走り寄ってきた。
「……なんだ」
苦しい息の中、山賊は目を開けた。
「……あの小娘の行方がわかったかもしれません」
小娘、と言われて、山賊は一瞬、誰のことかわからなかった。
「あの小娘です……お頭の娘の……」
「…………っ」
山賊の顔が曇ったことに、部下は気付かない。
「祭りで帝の妃が牛車の事故に遭ったそうなんですが……その女の左目の下に、ほくろがあったそうです。あの小娘にもほくろがありましたでしょう」
「…………」
覚えていない。子供の顔など、じっくり見た記憶が山賊にはなかった。
「良い機会じゃないですか! いくら山賊だからといって人様のところの大事な労働力である娘をさらったんだ! 寺の荒くれ者どもの協力を取り付けて、帝を脅して金を分捕って……」
「放っておけ」
「お頭!」
「……放っておけ」
そう言って山賊は目を伏せた。
娘が生きていようと死んでいようとどうでもよかった。あの時に離ればなれになったのも何かの因果であったのだろう。まさか帝の妃に収まっているとは思わなかったが。
だから放っておけば良い、そう思った。
そう思って、山賊の思考はそこで永遠に止まった。
山賊の頭と胴は泣き別れになっていた。
「あんたはつまらねえ男になった」
刀についた血を払いながら、部下はそう吐き捨てた。
「おい! 行くぞ! お頭はもう駄目だ! 病気で弱っちまった! 俺たちであの小娘を取り戻すぞ!」
「おう!」
すでに山賊達は決起のために武装に身を包んでいた。
「生臭坊主に掛け合って寺社の協力も取り付けたんだ! 今更後に引けるか! 目指すは小娘が療養してるという摂関家だ!」
こうして鞠の君の故郷の山から、大勢の山賊が下りてきた。
僧兵たちが都に押し寄せてきたことは、すぐさま摂関家にも内裏にも伝わった。
「……いったい今度は何を要求しているのだ」
帝は頭を痛めながら近侍に尋ねた。
「そ、それが……その、雷鳴壺の女御様を返せと主張しているようです……」
「何!?」
「……雷鳴壺の女御様は自分たちの元からさらわれたと主張している連中がいるようで、そのものたちに頼られたと言っています」
「…………」
事実、である。帝はすぐに思い至る。あの時、鞠の君の顔が衆目に晒されてしまった。その顔立ちが広まり、山賊達が寺社を煽って鞠の君を奪い返しに来た。
「……いや」
わざわざ鞠の君を取り戻すつもりはないだろう。せいぜい金目のものさえ手に入れられれば、山賊も僧兵もそれでいいのだ。鞠の君は騒ぎ立てる理由にすぎない。
「……摂関家に頼み込んでまとまった財を用意する」
摂関家では鞠の君が騒ぎを耳にし、立ち上がっていた。
「鞠の君様いけません!」
「これ以上、ご迷惑を掛けたくありません……」
鞠の君は顔を伏せた。
「ああいう連中はただ帝の譲歩を引き出すために暴れているのです。あなたが出て行っても何にもなりません!」
「……でも」
鞠の君はうつむいた。
「ま、鞠の君様! 春式部殿!」
摂関家の女房が駆けてきた。
「どうしました?」
「……しゅ、主上がおいでになりました」
「…………お通しして。よろしいですね、鞠の君様」
春式部はそう言った。
鞠の君が何かを返す前に女房が走り去ってしまった。
「…………」
そうして鞠の君の部屋に、帝がやってくることとなった。
「……ずいぶんと狭いな。もう少し広い部屋に移れるよう言っておく」
鞠の君の前に座った帝の第一声はそれであった。
御簾越しに二人は向かい合った。
「……お久しゅうございます。その……体調優れず、ご無沙汰してしまい、申し訳ありません」
鞠の君はそう言って頭を下げた。
「……いや、私の方こそ……長らく放っておいた。すまない」
帝の声は苦渋に満ちていた。
「いえ……。身に余る、ことだったのです。どうぞ、私を僧兵の方々に差し出しくださいませ。あの方々はそれを建前にやって来ているのです。お飾りにもならぬ妃でございますれば、そのくらいはお役に立ちとうございます」
「…………駄目だ」
「で、ですが」
「……兵部卿宮を動かしている」
兵部卿宮は軍務を司る兵部省の代表にして、帝の叔父でもあった。
「その内、連中は追い払える。あなたが気に病むことは何もない」
「…………」
「……ところで体は大事ないか。越中守の家の牛車から転げ落ちていたであろう」
越中守とは春式部の父のことである。
「……お、お聞き及びでしたか。お恥ずかしい」
「…………見ていた」
「えっ」
「雷鳴壺の女御、あなたは気付いていなかったかもしれないが、皇太弟の牛車が近くにあったろう。あれの中にいた」
「…………」
鞠の君はどう返していいかわからなくなって、黙り込んでしまった。
「……こうしてあなた黙り込んでいると、子供の頃を思い出すな。無口だった鞠の君……」
「…………」
「鞠の君、黙ったままでよい。私の話を聞いてくれ。私は……ずいぶんとひとりの女御を放っておいた。その女御のことを……正直に申して忘れてしまったこともあった。忙しさを理由に放っておいた……自分で妻としてさらってきたというのに、だ。そのような男に、山賊共を退ける資格などないのかもしれぬ。だが……それでもあなたはもう山賊の娘では、ない。断じてない。あなたは……摂関家の娘である」
帝はそう言い切った。
「我が母がそう望み、摂関家の長、太政大臣もそう認めている。山賊に、連れて行かれるいわれなどどこにもない。……私が言いたいことは、それだけだ。……ここにいたいのなら、いていい。出家をしたいのなら、お前のために寺を建てよう。……だから、摂関家の娘として生きてくれ、鞠の君。……私があなたを無理矢理さらってきてしまった。もう、無理に戻れと言わない。ただ、あなたがそうしたいことを、してほしい……」
「……主上」
「ああ、ずいぶんと呼ばれ慣れない」
帝は苦笑した。
「かつては東宮、今は主上……うん、そうだな、私はそうとしか呼ばれようがない男なのだな。それが寂しいこともあったが……今では、それは私の背負うべき名だ……ああ、こんなに放っておいて酷いことを言おう。その名を、あなたが誇れる夫になりたかった」
「…………」
鞠の君は気付けばポロリと涙を流していた。御簾越しで帝には見えない。
それが何の涙なのか、鞠の君にはわからなかった。
しばらくして、鞠の君はようやく悟った。
「……わ、わたくしは」
「鞠の君、泣いているのか」
詰まる声を耳聡く聞きつけ、帝は心配そうな声を出す。
「わたくしは、まだ、あなたの女御を名乗ることを許されるでしょうか」
「…………鞠の君」
帝は、思わず立ち上がり、そして御簾を押し上げた。
鞠の君の側で侍っていた春式部はすっと目を伏せた。
帝は鞠の君に近寄った。かつての東宮がそうしたように、二人は近く寄り添った。
思えば帝が即位してから、これほど近くに寄り添うことなど一度もなかった。
鞠の君は自然と帝の体に身を預けていた。
「…………主上、わたくし、お役目を果たします。帝であらせられるあなたを、お支えする役目を……今からでも、果たせますでしょうか」
「無論だ。無論だとも、鞠の君」
帝は鞠の君を固く抱きしめた。
二人はしばらくの間、そのまま寄り添っていた。
鞠の君の元を一旦辞した帝に、太政大臣は胸を張って告げた。
「摂関家からも手勢を出しましょう。兵部卿宮様の手勢と我が家の武士共を合わせれば、山賊僧兵何するものぞ。わが手勢には弓の名手も槍の名手もおりまする。あやつらをなぎ払い、目に物見せてやりましょうぞ」
血の流れることを穢れと恐れる多くの貴族と違い、この太政大臣、肝の据わった偉丈夫で、いささか血の気が多かった。
「う、うむ」
血の気の多い話はさほど得意ではない帝は少し苦笑いでうなずいた。
「頼もしいぞ」
「……うちの娘を、主上はお気に召さなかったご様子」
「っ……」
太政大臣は先日、入内した姫君の父でもあった。
「となれば、我が家のためにも鞠の君をなんとしても内裏に連れて帰っていただかなければなりませんからなあ」
そう言うと彼は気持ちよく笑った。
「……私がふがいないばかりに、いろいろと迷惑を掛けた」
「いえいえ」
太政大臣は頭を振った。
「さあ、お連れください我が武士共を」
帝は摂関家の武士達を連れ、内裏に舞戻った。
兵部卿宮の指示の元、彼らは山賊を迎え撃つため出陣と相成った。
「進め! 進め! 事が終われば金銀財宝、ついでに美姫までついてくるかもしれねえ!」
山賊の頭の首を落とした男が、急ごしらえの神輿の上でそう扇動する。
この神輿、中は空っぽである。そもそも集まったのも格も特にない山寺の僧兵共である。
所詮それは強訴の真似事に過ぎなかった。
せいぜい神輿を門に打ち付けて、丸太代わりにするくらいにしかならなかっただろう。
「へへへ、お頭の女の娘……さぞかし美人に育っているだろうよ」
そう下卑た笑いをこぼしたその頭を、一本の矢が貫いた。
「え」
こうして彼は一瞬で絶命した。
「おいおい、話が違うぞ!」
山賊達から悲鳴のような声が上がる。
「逃げるか!?」
「逃げられるものか!」
「かかれ、かかれ!」
そう神輿を担いで突進する山賊と僧兵であったが、そこに雨あられのように矢が降り注いだ。
「み、都を血で汚すのに、一切のためらいがないのか!」
自分たちで決起をしておきながら、山賊達からそう悲鳴が上がる。
血や死体の穢れは貴族にとっても帝にとっても忌むべきもの。彼らの有利はそこにあったはずだったが、気付けば、辺りは血の海だった。
「やれやれ! 主上のお許しが出た! 何? 通りが使えなくなる? そんなのいくらでも物忌みさせれば良いのだ! 山賊風情を調子に乗らすな!」
そう檄を飛ばすのは兵部卿宮よりこの場を任された肥後守。
「俺は鞠の君様を幼い頃から知ってるんだ! あの方を奪わせるなど言語道断!」
そう叫んで弓引くのは太政大臣の懐刀の武士。東宮の護衛に付いていたこともあり、そして摂関家で育てられた幼い頃の鞠の君をよく知っていた。
「……鞠の君様はあいつらに育てられてなどいない。運良く生きていただけだ」
小さくつぶやくその武士は、彼女の痩せ細った体を覚えていた。
「恥知らずにも、摂関家の女君、鞠の君様の親を名乗る山賊共を蹴散らせ!」
そう号令を掛け、絶え間なく彼は弓を引き続けた。
「化野の露にしてやれ!」
こうして山賊僧兵区別なく、京の都に死体の山が築かれた。
「もう都じゃ、そんな噂で持ちきりですよ」
「…………」
春式部のため息交じりの言葉に、鞠の君は無言で手を合わせた。
死んだ山賊の中に自分の実の父がいたかはわからない。
そもそも弔ってやる義理もない。
しかし彼女は何故かそうせずにはいられなかった。
彼女たちは今日、内裏へ戻る牛車の中であった。
それには厳重な警護がついていた。
「雷鳴壺……懐かしいようなそうでもないような」
春式部はそう言った。
鞠の君は微笑んだ。
「そうですね」
久方ぶりの晴れ晴れしい主人の笑顔に、春式部は思わず涙ぐんだ。
その夜、ついて早々だというのに雷鳴壺には帝の訪れがあった。
待つことさえいつしかやめていたそれを、鞠の君は受け入れた。
「待たせてしまった、本当に、本当に」
「……これから、いっしょにいてくださいますか?」
「むろんだ」
それから一年と半年後、摂関家から嫁いだ雷鳴壺の女御の元に第一皇子が生まれた。
帝はそれはそれはお喜びになり、摂関家で里帰り出産をしていた雷鳴壺の女御の元にいち早く駆けつけ、皇子と雷鳴壺の女御に面会した。その噂は都中を駆け巡り、雷鳴壺の女御が皇后になるのはもはや確実であろうと人々は囁きあった。
そして第一皇子が三歳になったとき、彼は正式に皇太子に任ぜられ、皇太弟から退いた帝の弟君は式部卿宮を拝命した。
そして雷鳴壺の女御は雷鳴壺から弘徽殿へと移り、正式に皇后となった。
その後、皇后は第一皇子とあわせて五人の親王内親王を産んだ。
内親王の一人は葵祭の斎院となった。
皇后は子供達全員を大層かわいがり、慣例に背いて出来るだけ手元で育てた。
それを帝も許した。
帝と皇后は年を取っても仲睦まじく、いつまでも傍らに鞠を置いて語り合ったという。
「春式部、子供とはどう育てるものでしょう」
生まれてきた我が子が春式部に抱かれるのを見ながら、床で鞠の君はそう言った。
「子供なんて育つように育ちますよ」
鞠の君、第一子の誕生に、散々感涙にむせび泣いた後の春式部はかすれた声でそう言った。
「とりあえず乳母をつけなくてはいけませんね。まあ太政大臣がいくらでも手配してくださるでしょう。いつの間にやら雷鳴壺の女御は太政大臣の娘ということになってますから……」
政治の都合の良さに春式部は少し苦々しげにそう言った。
「乳母……」
「乳を与えるのです。曲がりなりにも女御ですから、自ら乳を与えることはできませぬ」
「…………」
鞠の君は遠い記憶をたぐり寄せた。自分の生みの母は自分を生むと同時に死んだことを鞠の君は山賊達の話から聞いていた。
代わりに幼い自分に乳を与えてくれた人がいたことを、彼女は薄ぼんやりと思い出した。
「……鞠の君様、ええとですね。貴族というのは自分の子の子育てなどしないものです。だいたい乳母や周りの者に任せておくものですよ」
「……それでは、山賊達といっしょではないですか」
春式部のたしなめるような言葉に、鞠の君は少し不満げにそう言った。
鞠の君がこのように反感を持つのは珍しく、春式部は考え込んだ。
「……まあ、主上は鞠の君様に甘いですから、ダダをこねてみるのもよいかもしれませんね」
春式部はそう主に入れ知恵した。
こうして鞠の君は子供達の育児に大いに関わることを許された。
前例のないことで反対もあったが、帝と太政大臣によってその反対は封殺された。
「春式部、春式部、子が笑いました」
「そうですね」
「春式部、春式部、子が喋っています!」
「落ち着いてください、まだうーとしか言っていません」
「はははは春式部! 春式部! 子が立ちました!」
「たたたた立ちましたね!」
五人の子供達が代わる代わる生まれてくるので、もちろんすべての生育に関わるのは無理があった。
乳母もついた。
それでも一ヶ月に一度は子供達の顔を見られるよう、鞠の君は忙しい合間を縫って時間を設けた。
そこで割を食うこととなったのは帝であった。
「……弘徽殿からの返事はまだか」
「来ました。本日は一の姫様と遊ぶ日なので、今日は無理です、だそうです」
「…………」
帝はため息をついた。
しかしこれは長らく鞠の君を放っておいたツケなのだろうと、受け入れた。
そして帝は鞠の君に会えぬからと言って、他の女御の元に通うようなこともしなくなった。
久しぶりの御渡の日、鞠の君はもはや無口ではなかった。
「見てください主上、これは一の姫の書いた字です。私は字はかなしか読めませぬが、なんと一の姫は漢字まで書けるのです。これは一の姫についている夕中納言が漢詩の名手であるからなのです。あれは本当によくできた女房ですよ。それからこれは二の姫に贈る鞠です。父上――太政大臣様が用立ててくれました。桃色の刺繍がかわいらしいでしょう。皇太子様とは近頃あまり会えませぬが……勉強に励んでいると文が来ます。それからそれから……」
「よかった」
帝は鞠の君の話を聞き終えると、うなずいた。
「よかったから……その、もう少し私の相手もしてくだされ」
「……あらまあ」
拗ねたようにそう言った帝に、鞠の君は笑顔をこぼした。