鞠の君は摂関家に留まり、入れ替わりのように若い姫君が後宮へ入内した。
 それからほどなくして皇太后はこの世を去った。冬の寒い日のことであった。
 鞠の君は摂関家に一間を用意され、そこに置かれた。
 仮にも帝の女御としてはみすぼらしい一間であったが、鞠の君にはその一間が心底ありがたがった。
 いっそ自分も出家をしようかと鞠の君は考えつつあった。
 皇太后を見舞う中、僧侶と話をしていた。彼女は仏の教えに目覚めつつあった。
 帝の代わりに皇太后を弔う。そういう理屈が立たないかと思案した。
 春式部はさすがに反対した。
 雷鳴壺はまだ空いていた。一度戻ってはどうかとも言われたが、鞠の君は摂関家に留まった。

 あるとき、帝から文が届いた。
 ただ一首、和歌が詠まれていた。

垂乳根(たらちね)の 母を見舞いし いつとせに 鞠の音をも なつかしければ』
(母の見舞いに行かれてもう五年ほどの月日が経ったかのようです。あの鞠の音すら懐かしく思えるほどの時間です)

 鞠の君にもさすがにそれの意味するところはわかった。
 恋しい、帰ってこいと言っている。五年(いつとせ)もこちらを忘れておいて。
 鞠の君は返歌をしなかった。
 そもそもどう返していいのかを彼女は知らなかった。
 春式部がそんな彼女に大量の歌集を持ってきた。
 鞠の君は十日ほど唸ってようやく歌を詠んだ。

『久方の 光のごとき 君の文 長き夜を経て 涙溢るる』
(光差すようなあなたの手紙をいただきましたが、あまりに長い夜を過ごしたので、私の目は涙に濡れて見ることが叶いません)

 その歌は帝の元へ届けられた。
 帝はただため息をついた。

 鞠の君は結局出家はせず、しかし度々僧を呼び、皇太后のために経を上げてもらいながら、時を過ごした。他にすることもなかった。
 何もせずにいるというのに、次第にその評判は都に聞こえるようになりつつあった。
 帝が呼びつけても戻らぬほどの奇矯者でかつ、帝が執心するほどの美人であるとどこからともなく評判が流れた。
 帝の女御を一目見ようと不届き者が摂関家の邸周りをうろつくようになった。
 もちろんすぐに追い払われたが、春式部は妙に胸がざわつくのを感じた。

 そんなあるとき、摂関家の宴に来ていた評判の遊び人が、度胸試し半分、恋心半分で、鞠の君の部屋のすぐ近くまで訪れてしまった。
 行き会った女房が悲鳴を上げたので、すぐに春式部が鞠の君を邸の奥に隠し、事なきを得た。
 鞠の君は初めて恐怖を覚えた。
 しかしそれでも後宮に戻る選択肢は彼女になかった。
 彼女は出家を強く意識するようになりつつあった。

 そうこうしているうちに、冬も終わり春が過ぎ、葵祭が近付いていた。
「こうしましょう、鞠の君様」
 春式部は珍しく鞠の君を真っ直ぐ見据えると具申した。
「葵祭に見物に行き、帝がこちらに気付いたら、内裏に戻りましょう」
「…………」
 鞠の君は黙り込んだ。
 葵祭で帝は輿に乗る。あのようなところからこちらに気付けるわけもない。
「そうでなければ、この春式部、これ以上小うるさくは申しません」
「……わかったわ」
 鞠の君はうなずいた。
 それを見て、春式部はにこりと笑うとテキパキと段取りを進め始めた。
「それでは牛車を用意させましょう。摂関家のものを使えばすぐ見抜かれますでしょうから、どこかから借りてこなければ」
 春式部はそう言いつつ、その牛車について密かに摂関家の者を通して帝に文を送るつもりであった。
 これ以上、鞠の君を摂関家に置いておくことが無性に不安であったのだ。
 帝からはすみやかに返事が来た。感謝の意が記されていた。

 鞠の君は春式部の実家から牛車を借りて、葵祭を見学しに行くことになった。

 さて、葵祭とくればこの時代、祭りと言えば葵祭というくらい大きな祭りであった。
 それはそれはたいそうな人出で、鞠の君は少し牛車が進んだだけですっかり参ってしまった。
 特に彼女は牛車には慣れていなかった。人生で数度しか乗ったことがなかった。
 さらに今日の牛車は春式部の実家から借りたものである。
 あまり位の高いものとはいえず、周りの貴族も遠慮がない。
 すっかりもみくちゃにされてしまう。
「春式部……」
 鞠の君は牛車の揺れにすっかり弱ってしまって涙ながらに春式部を見る。
「も、申し訳ありません」
 春式部も想定外の状況に頭を下げる。
 しかし、そろそろ帝と示し合わせた巡り会う地点まで来ていた。
「引き返すにも……その、この人出ですし……」
「……我慢します」
 春式部が困っているのを見て、素直に鞠の君はうなずいた。
 春式部は焦れて外を見る。
 帝は帝でお忍びのために弟君の牛車を借りていた。
 こちらは何しろ皇太弟の牛車である。一目で貴族共は道を空けた。
 そうこうしているうちに行列が近付いてきて、周囲の盛り上がりは最高潮に達する。
 鞠の君があまりの騒がしさに身をすくめていると、群衆が行列を眺めようとわっと押し寄せ、あっちへ押し合い、こっちへ押し合い、とうとう牛車は均衡を崩してしまった。
「あっ」
「鞠の君様っ!」
 とうとう鞠の君は牛車の中から放り出されてしまった。

「鞠の君っ!」
 行列の向こう側、人が遠巻きに見守る特等席で、帝もそれを見た。
 牛車から自分の妃が放り投げられてしまう姿に彼は慌てる。
「な、なりません。この状況で外に出るのは……!」
 慌てて近侍が帝を押しとどめる。

 さて、見物客からはざわめきが起こる。
 鞠の君、と春式部が叫んだので放り出てきた女の正体が周知されてしまう。
 鞠の君と言えば、雷鳴壺の女御、帝の妃、今は実家の摂関家で皇太后が亡くられた心労で療養中と噂のお人。
 その顔を一目見ようと人々が押しかけてくる。
 鞠の君は顔を隠すのが一瞬、遅れ、その顔、特に左目の下のほくろが衆目に晒されてしまった。
 春式部が慌てて鞠の君を引っ張り上げる。
 火事場の馬鹿力、鞠の君は春式部に引きずられ、牛車の中へと戻った。

 山賊の娘であった頃ならいざ知らず、今となっては末席とは言え、帝の妃。
 鞠の君はあまりの恥ずかしさにシクシクと泣き始めてしまった。
「……戻りましょう」
 春式部が外にそう声をかける。
 牛車はゆっくりと摂関家への道を戻り始めた。

「……鞠の君」
 帝は遠くの牛車の中から心配そうな声を漏らした。
 怪我はなかっただろうか。
 無事であろうか。
 そう思いながらも彼は見送ることしかできなかった。