十二歳の東宮(とうぐう)が山野を駆け回りたいと駄々をこねたので、こっそりお忍びで出掛けることになった。ぞろぞろと護衛をつけて、もはやお忍びとは何だろうという有様だったが、建前というのは何時(なんどき)でも大事である。
 山を登っていくと、道中、目の前に突如として鞠が転がり落ちてきた。
「おや」
 こんな山中に鞠で遊ぶようなものがいるのかと、東宮は目を(みは)りながら、鞠を持ち上げる。それは東宮が見たことのないほどに汚れていて質素にして不格好な鞠であった。
 するとガサガサと山肌の草木をかき分けて、童女が降りてきた。
 そのかっこうは白い布を巻き付けているだけの簡素なもの、顔や手足は土で汚れ、その体は枝のように細かった。
 こけた頬の上の丸い目が、東宮達を見る。
「…………」
 この童女、この山を根城にしている山賊の(かしら)の一人娘である。頭はさらってきた美貌の妻を、部下たちに一目も見せぬほどに愛していたが、妻は産褥で死んでしまい、生まれてきた童女は放置された。
 幼少期は部下の女で、流産した女が乳をくれ、世話もしてくれたが、その女も病気ですぐに死んだ。その後は父の部下たちが気まぐれに放り投げてくる食事をかじって、なんとか生き伸びてきた。
 今、東宮の目の前に転がり落ちてきた鞠は父親が奪ってきた物品の中に紛れ込んでいた安物で、無言で父はそれを童女に投げつけてきた。高価なものではなかったからだろうか、腹立たしそうだったのを童女は覚えている。
 しかしその鞠は童女にとって唯一の持ち物といっていいものであり、水汲みの雑用をこなしている途中でも、転がり落としてしまったことに慌てて山を下りてくるほど、童女はそれを大事にしていた。
 さて東宮はそんな童女の顔に釘付けになった。
 その顔は汚れ、こけていたが、美貌で山賊を惑わした女の血を引いているだけの美しさがあった。
「お主は何者だ?」
「…………」
 東宮の問いに童女は困ったように首をかしげた。自分が何者であるか、そんなことを童女は考えたことがなかった。
 童女はただ生きているだけのものであり、自分が周りの大人たちとは違う生き物であるということはなんとなくわかっていたものの、それでは自分が何者かと問われれば、返す言葉を持たなかった。
「……山賊、ではない」
 だから童女のかすれた声での返答はそんな的外れなものだった。誰もこのようなみすぼらしい童女が山賊だろうとは思わないだろうに。
「そ、そうか」
 東宮は戸惑ったが、うなずいた。
「……これはお主の鞠か?」
 こくりと童女はうなずく。
 東宮はそれならと鞠を童女に手渡した。
「…………」
 童女は何かを言いたいと思ったが、彼女は『ありがとう』という言葉を知らなかったので、その感情を言葉にすることが出来なかった。
 東宮はと言えば、童女の回答がずいぶんとかすれた声だったことを気にしていた。
「……喉が渇いているのか?」
「……はい」
 童女は素直にうなずいた。
 東宮は急いで竹筒に入った水を童女に差しだした。
「…………」
 またしても童女は何かを言いたかったが、言えないままに竹筒に入った水を一口口に含んだ。彼女にとっては一口だけでも水を飲むことは贅沢なことだった。
「もっと飲んでも良いのだぞ」
 東宮はそう勧めたが、童女は首を横に振って、竹筒を東宮に返した。
「……お主、名前は何という」
「なまえ?」
 童女にとってそれは、聞き慣れない概念だった。
「……周りからはなんと呼ばれている?」
「……おい、とか、お前、とか」
「…………」
 東宮はあまりのことに黙り込んだ。ちらりと世話係に視線をやる。
 世話係はこれ以上、この童女に関わらない方が良いと思いつつも、東宮が一度こうと決めたら曲げない性格であることもわかっていた。
「……私、水を汲みに戻らないと」
 童女はそう言って山肌に足を向けた。日が暮れるまでに汲み終わらないとひどく殴られる。それだけならまだ良くて、最近なんだか山賊たちの自分を見る目が妙なものに変わりつつあるのを童女は幼心に感じていた。
 童女の年はおおよそ十二。この時代、そろそろ『女』として見られてもおかしくない年頃だった。体こそ貧相だが、かつて山賊の頭が独り占めにしていた美貌と瓜二つのその顔は、山賊たちの下卑た欲望をかき立て始めていた。
「……待て!」
 東宮は叫び、そして宣言した。
「お主には都に来てもらう。……私の妻となれ」
 東宮がそう言い切ると、童女は驚いた顔をした。童女はしかし、妻という言葉に少し怯えた。それは父がもっとも嫌いな言葉だった。
 一方、世話係はため息をついたが、周りの護衛に指示し、童女を抱き上げさせた。
「あ……」
 童女には抵抗する力も気力もなかった。

 こうして一人の童女が山からさらわれていった。
 山賊達は童女がいなくなったことに夜になって気付いたが、どこかで野垂れ死んだのだろうと、その安否を気にするものはいなかった。
 ただ水が汲まれていないことに「役立たずめ」と悪態をつくだけであった。

 一方、童女は東宮の母の実家、左大臣屋敷に連れられていった。
 さすがにそのまま御所に連れて行くわけにはいかなかった。
 東宮は弁当の握り飯を分けてやった。
 童女は二口食べると、その場に倒れ込んでしまった。
「お、おい!?」
「落ち着いてください。空腹のところに急に米を食べたからでしょう。大丈夫、大事ありません」
 東宮は慌てたが、世話係は落ち着いて童女を介抱した。
 東宮は恐る恐る童女の顔を覗き込んだ。
 土を綺麗に拭い去った顔、その左目の下に泣きぼくろがあった。

 東宮が左大臣屋敷を去る前に、童女は起きてきた。まだボンヤリする頭を抱えながら、童女は東宮を見送った。
「いずれ迎えを寄越す。だから、妻になってくれ」
 東宮はそう言い残した。童女は東宮の地位も知らず、ただ親切にしてくれた人の思いを受け入れて、こくりとうなずいた。
 東宮は嬉しそうに破顔し、こう言った。
「ありがとう」
 それは童女が初めて『ありがとう』という言葉を知った瞬間であった。
 東宮はそうして内裏へ帰って行った。

 童女はその家で半年を過ごし、その間はその家の娘として扱われた。そうしてから彼女は正式に東宮の妻として迎え入れられた。
 その頃には彼女は(まり)(きみ)と呼ばれるようになっていた。
 かつて大事にしていた薄汚れた鞠は気付けばどこかへ行ってしまった。
 綺麗な赤や金の散りばめられた鞠を持ち、自分の体より重たい着物を着せられ、彼女は御所へと上がった。

 半年ぶりの再会に東宮は無邪気に喜び、鞠の君の手を引いて、内裏を案内した。
 鞠の君は半年の間に恥じらいを学んでいたので恥ずかしそうにうつむきながら、その後に続いた。
 そして鞠の君は内裏を一通り回ると、ようやく東宮へ声をかけた。

「ありがとうございます、殿下」

 鞠の君のその言葉に東宮は明るく微笑んだ。