葵は小さい頃に母親を病気で亡くし、それ以来、店長が男手ひとつで育ててきたという。
高校卒業後の進路を決めるとき、葵は2つの壁に悩んでいた。ひとつは進路。どうしても東京に行きたい学校があった。だけど1人になる店長のことを思うとなかなか言い出せなかった。もうひとつは、自分の心が男だということだ。初恋は小学校のとき、相手は同じクラスの女の子だった。それは最初から叶わぬ恋だった。誰にも打ち明けられず、中学が別々になったのを機に忘れることにした。
「3年生の夏、思いきってどっちも打ち明けてみたんです。殴られるのを覚悟して。だけど、お父さん……」
葵は目に涙をためて言葉を止めた。
「お父さん、驚きも怒りもしないで、葵の好きなことをすればいい、て言ったんです」
店長らしいな、と思った。普段人のことをよく見ている店長のことだから、娘のことならなおさらよくわかっていたのだろう。葵が東京に憧れていることも、心が男の子だということも、打ち明けられる前から気づいていたのかもしれない。
葵は高校を卒業して東京の専門学校に入学し、レストランでバイトをしながら、調理師の免許を取るために勉強をしている。
学校が休みのときは、できるだけ地元に帰ってくるようにしている。忙しい合間を縫って、それでも、つい働きすぎる父親のことが心配だから。
「春休みの少し前に、先輩が新しくバイトに入ることを知ったんです。驚きました。でも、行動はできなかった。そしたら、公園で先輩を見つけて……」

公園を通りかかったとき、私が泣いているのを見た。
どうしたらいいかわからず、とりあえずコーヒーを買って渡すことにした。
葵のコーヒー好きは、店長から受け継いでいたのだと納得した。
「男の子になりたかった」
葵は思いを吐き出すように言った。
「先輩の視界に入るように、意識してもらえるように、背伸びをして、頑張って。やっと近づけて、嬉しかった……」
葵が立ち上がった。私も立って、向かい合う。夕焼けが、葵の白い頬を紅く染めていた。
葵が潤んだ瞳で私を見上げた。
「ずっと、好きでした」
小さくて、かわいい後輩。これじゃあどっちが男かわからない。
だけど、目の前にいるのは、男の子。
そして「彼」……葵は、私を好きになってくれた。
自信をなくしていた私を励ましてくれた。
勇気づけてくれた。
大切なものを、素敵な時間を、たくさんくれた。
「好きになってくれて、ありがとう」
私は小柄な葵を抱きしめた。
葵の細い腕がしがみつくように、私の背中に回る。
ぎゅ、と腕に力を込めてから、腕を解いたときにはもう「葵」に戻っていた。

「バイバイ、菜々瀬」
「うん、元気でね。葵」

店の前で、手を振って別れた。

葵、ありがとう。

私も、どうしても思いを伝えたい人がいる。