「おつかれ。今日もハードだったな」
満島くんがエプロンを取りながら息を吐く。
「おつかれ、満島くん」
私は笑って返した。
1ヶ月の間に、こんな風に笑えるようになったのは、きっと葵のおかげだと思う。
いまから、葵に会いに行く。
まだ昨日の夜の名残がある。だけど、寂しくても、葵に会えるのは今日で最後だ。
店を出たとき、
「菜々瀬っ」
突然、満島くんに手を掴まれた。
「えっ」
いま、奈々瀬、て言った……?
満島くんがじっと私を見ていた。
「あのさ、この前言ってた彼氏って」
言いかけて、バツが悪そうに目を逸らした。
「……いや、なんでもない」
私は混乱しながら満島くんを見た。
「相手が誰でも、俺が口だすことじゃないよな。悪い、忘れて」
「う、うん」
「じゃあ、また明日な」
「うん。じゃあ」
そう言って、店の前で手を振って別れた。

『奈々瀬っ』

何を言おうとしたんだろう。
どうして急に名前で呼んだりしたんだろう。
何か、大事なことだったんじゃないのか。
必死にあきらめようとしているのに、そんな風に引き止められたら、期待してしまう。
私に可能性なんてこれっぽっちもないのはわかっているのに、考えてしまう。
余計な考えを振り切るように、私は自転車を漕いだ。
桜の季節だった。公園に着くまでの道のあちこちで、桜の木や花びらを見た。
そして、公園の真ん中に立っている大きな木も、桜だったのだと初めて知った。

……この木、桜の木だったんだ。

桜は何十本も何百本も連なってさくから、こんな街中の一本桜は珍しい。この前までほかの木と同じような顔で立っていたのに、花開くときは一斉に、視界を美しいピンク色に染める。
雨や風をしのいで、ただ1本だけで立っている大きな桜を、私は遠くから見上げた。
そして、目の前の男の子に、目を向ける。

「葵」

呼びかけると、葵は振り向いて笑顔で手を振った。
私はホッとして、笑い返した。

「はい、おつかれ」
いつものように、葵が缶コーヒーを手渡してくれる。
いつものように、2人で乾杯をする。
私はいつも、葵にしてもらってばかりだ。
泣いているところを慰められて、話を聞いてもらって、コーヒーを奢ってもらって、昨日のパーティーも。
私は、葵にまだ、何もあげられていない。
「葵」
私は言った。
「葵がしたいこと、ある?」
「したいこと?」
葵が首をかしげた。
母に誕生日プレゼントを尋ねられたときの私みたいな反応に、少し和んだ。
「昨日、嬉しかったから。今度は私が何がしたいな、て」
言いながら、だんだん声が小さくなっていく。
じゃあ、と、葵は口を開いた。
「じゃあ、キスしたい」
「え」
「ダメ?」
「…………」
葵が瞳をうるませ、上目遣いで私を見る。
その目は反則だ。
想像しなかったわけじゃない。
一緒にいるだけでいい。葵はそう言ったけれど。
付き合うということは、そういうことになるかもしれないと、心のどこかでは感じていた。
会ったばかりなのに不思議だけれど、葵とならそうなってもいいと、そう思ったから「いいよ」と言ったのだ。
だけど、いざそう言われると、心の準備が……
どくん、と心臓の音が大きく鳴った。
……そうだ。準備なんて、している時間はないんだ。
明日には、葵に会えなくなる。
「恋」じゃないかもしれない。
だけど、葵だから。
「……いいよ」
「ほんとに?」
自分から言い出したくせに、葵は目を見開く。春休み初日、付き合う、と約束したときと同じ反応が、なんだかおかしかった。
ふわ、と柔らかな風が吹いた。ベンチに、足元に、桜の花びらが落ちてくる。
葵は私の持っていた缶を取って、ベンチの脇に置いた。
戸惑う私の肩に手を置き、葵の顔がぐっと近づく。
どくん、どくん、と、心臓の音が、だんだん大きくなる。
私はそっと目を閉じた。
それが合図となったように、強く唇を塞がれた。

「……っ」

私の肩に触れる彼の手は、少し震えていた。
初めてのキスは、甘くて苦いコーヒーの味がした。