「はじめまして。塚本蓮(つかもとれん)です。よろしくお願いします」
その人——塚本蓮が私の教室にやってきたのは、ピアノ教室を初めて3ヶ月が経った頃だった。
22歳で、大学4年生だと聞いた。
大人になってからピアノを始めたいという人は時々いて、彼のようにピアノに興味を持ってくれるのを見ると嬉しくなる。
体力が必要なスポーツと違って、ピアノはいつでも始められるもの。
自分のタイミングで、弾いてみたいという心に従って、練習してくれればいい。
「初めまして。加賀山雪乃と申します。ピアノは、もう20年近くやっているので、一緒に練習頑張りましょう」
彼は、それほど年齢の変わらない私を見て驚いたのか、「よろしく、お願いします」と途切れがちに言った。

「蓮くん、でいいかな」

「え? はい」

いきなり名前で呼ぶのはまずかっただろうか。
ただ、私は他の生徒のことも下の名前で呼ぶようにしている。
その方が、親しみが込もって、教える方も教えやすい。
この手法は私が小さいころに通っていたピアノ教室の先生が教えてくれたことだ。
蓮くんは私がピアノを教え始めると、呼び方について特になにも言わなかった。
たぶん、いきなりすぎて戸惑っただけだろう。
レッスンを始めるとすぐに慣れてくれた。
「そう。初めは、ドの音だけでいいから、ピアノに慣れて。“友達”だと思うように、優しく弾いて」
「なるほど」
小さい子に教えるのと同じように、彼にも初歩的なことから伝えることにした。
ピアノに年齢なんて関係ない。
蓮くんは初めてピアノに触ったらしく、ドの音の鍵盤を抑えるのもぎこちなかった。
しかし、私が言うことを忠実に聞いてくれて、「先生の言う通りにしたらすぐできますね」と笑ってくれた。
「そう? 良かった」
私も、つられて笑う。
これまでレッスンに来てくれたのは小学生や中学生がほとんどだったので、こうして自分の仕事を肯定されるのは初めての経験だった。
蓮くんはその後も週に一回、私のところにピアノを習いに来てくれた。
彼の家には電子ピアノしかないらしく、レッスンに来てアップライトピアノに触れることが楽しみだという。
毎週来てくれる度に、彼の指の動きは確実にスムーズになっていった。
まだ楽譜が読めなかったり、リズムが間違っていたりするところは多いけれど、1ヶ月もすれば、簡単な練習曲ぐらいなら通しで弾けるようになってくれた。

「先生の教え方、本当にうまいわ」

時が経つほどに、彼も私に対して打ち解けて、学校の先輩後輩みたいな感覚に陥る。
弾いているのは、バッハの『メヌエット』だけれど、その明るいメロディーが、耳から直接、胸に響いた。
ぎこちないリズムで、不安定な速度で進む『メヌエット』。
まだまだとても合格点には至らないけれど、彼がちゃんとピアノを練習しているのだということが、目に見えて分かった。