「井上陽葵(いのうえひまり)さん」
初めて先生に名前を呼ばれた日のことを、私は鮮明に覚えている。
桜の花びらが、校舎の外で舞っていた。
先生は私のことを、どれくらい覚えているだろうか。
高校二年生で担任だった桜田ユキ先生に会ってから、もうすぐ八年。私は今年で社会人三年目になる。
それなのに、今もこんなに鮮明に覚えているなんて。
出席番号順に配置された私たち二年二組の生徒たちを、先生は一人ずつ見回していた。
ちゃんと、この時間で生徒の顔を覚えるんだって、そういうふうに、私には見えた。
返事をした私を見て、先生は柔らかく微笑む。
心を奪われたのは一瞬だった。
たぶん、四十は超えているであろう桜田先生から、母のような優しいオーラを感じたから。
男子が左で、女子が右側に固まっている席順で、私はちょうど教室の真ん中にいた。
教卓の前でまっすぐ前を向いて私を見つめる先生にとって、私は四十人いる生徒の一人でしかなかっただろう。
その後すぐに、「大島さん」の名前を呼んで、私の視線の先から先生の瞳が遠くになってしまったあの瞬間。
私、先生から目が離せなくなっていた。
「先生。ここが分からないんです」
私はクラスの中で、いわゆる“優等生”だった。
分からないことは大抵授業中に解決できる。分からないと思っても、じっと辛抱強くその問いについて考えれば答えを導き出せてしまう。友達もそんな私によく、勉強を聞いてきた。授業が始まる前に、「教えて」って擦り寄ってくる友達のことを、私は無碍にできなかった。何より自分が人に教えることで、もっと賢くなれる気がした。
だから本当は、古文の授業が終わった後、先生に質問することなどなかったのだ。
「珍しいわね」
先生は、教卓の前までやってきた私に、丁寧に答えてくれた。
私は、答えが分かっていたのに。
先生が自分に勉強を教えてくれているということに、気持ちが高揚していた。
「ありがとうございます」
桜田先生は一通り問題の解き方を教えてくれたあとで、「陽葵ちゃんは、いつも熱心ね」と言ってくれた。先生は私や、一部の女子生徒のことを名前で呼んでいた。基準はわからないけれど、苗字で呼ぶ人もいたので、名前で呼ばれることが嬉しかった。
違うんです。
熱心なのは、古文の時間だけです。
先生に対して、だけ。
言えなかった。
さすがにこんなこと、恥ずかしくてとても口にできないし、口にしてはいけないと思った。
「頑張ってたら、必ず報われるわよ」
私の成績が落ち込んだ時、桜田先生は決まって励ましてくれる。
「大丈夫、陽葵ちゃんは伸びるから」
誰しもが陥るスランプと呼ばれる期間にも、先生は私の味方だった。
授業中は厳しく、特に宿題や予習をやってこない男子生徒には容赦しないのに、私と一対一で話している時の先生は、優しくて、私は大好きだった。
そう、大好きだったのだ。
先生を、好きだった。
一人の女性として。
私が女であるか、そうでないかに関係なく。
「井上さん、俺と付き合って欲しい」
同じクラスの新島綾人に告白されたのは、高校二年生の二学期のことだった。
ちょうど文化祭が終わり、クラスの雰囲気が和んだ頃で前よりも学校生活が楽しいと思い始めていた。
学校に行く道で、友達の詩織と、「もうすぐ中間テストだね」ってうんざりしながら話した日。
「今日さ、ちょっと放課後話したいことがあるんだ」
朝学校に着いて早々、隣の席に座っていた新島くんが言って。私は、突然でびっくりした。わざわざ話したいことがあるなんて言われて、思い当たるのは一つしかなかったから。
新島くんはその日の間中、恥ずかしいのかいつもよりずっと静かだった。いつもなら、授業中だってこそこそ話すこともあるのに。
それが照れ隠しだと気づいて、私も何も話しかけられなかったから、同罪だ。
放課後、クラスメイトたちがそれぞれ部活に行ったり帰宅したりして、教室に私たち二人以外がいなくなったあと。
新島くんは、幾度も私の目と足下を交互に見つめ、たっぷりと緊張の間をとってから好きだと言った。
「ありがとう」
馬鹿の一つ覚えみたいに、ただ口をついて出てきた言葉がそれだった。
私の反応を、肯定と捉えればいいのか否定と捉えればいいか分からなかったんだろう。新島くんは「えっと」と、私の言葉の続きを聞こうと身構えた。
「……」
沈黙が、いたかった。
私が話す番であるということは分かっていたのに、言葉が出てこない。
「井上の、努力家なところが好きなんだ。顔も、声も、髪の匂いも、全部好きなんだ」
気まずさに耐えられなかったのか、それともどれだけ私のことを好きでいてくれるのかのアピールのためか、新島くんは必死だった。
真っ直ぐな言葉に、心が揺らがなかったといえば嘘になる。生まれてこの方、こんなに素敵な言葉をもらったことはなかった。
それだけでなく、私は異性と付き合った経験がない。
「ごめんなさい。私、分からなくて」
「私も好きです」でも「嫌です」でもなく、「分からない」と言う自分は卑怯だ。
新島くんも、私の返事を完全に否定とみなすことができず、次の言葉を探していた。
「分かった」
分かってない。
けど、彼はこれ以上私の前に居続けることが辛くなったんだろう。
「帰るわ」
リュックを背負った新島くんの背中が、大きいはずなのに小さい。
彼が教室からいなくなった後、私はしばらくその場から動けなかった。
西日差す教室の中、私だけが日の当たらない教室の陰で、一人光を求めていた。
翌日、新島くんと顔を合わせると、彼は昨日の今日にもかかわらず「おはよう」と言ってくれた。
私の方が全然、心の準備ができていなかった。どぎまぎしながら挨拶したら、彼は曖昧に笑ってみせた。
隣の席に座っているので、見ないようにしてもどうしても視界に入ってしまう。もちろん彼のことが嫌いになったわけでもないので、視界に入ってはダメだということではない。
ただ、彼と目が合ったり、見ていると思われたりしたらどうしようって、私が臆病だった。
「あのさ、井上」
昼休み。
詩織と一緒にお弁当を食べようと、席を立った時だった。
「昨日のこと、気にしなくていいから」
気を遣ってくれているということが、痛いぐらいに分かった。
曖昧な答え方をして彼のプライドを傷つけたのは私の方なのに、なんて優しいんだろう。
「ごめんね。ありがとう」
それだけしか、言えなかった。
彼に対する気持ちを、私自身、分かっていないのだ。
確かに新島くんのことは、良い人だと思っている。他のどの男の子と比べても、一番話しやすいし、彼も好んで私と話してくれていると感じる。
付き合ってと言われて、正直悪い気はしなかった。
というか、本当は嬉しかった。
女友達からは、
「陽葵はガード高いんだよ」
「真面目なんだもん」
「高嶺の花って感じ」
と、恋愛不適応者呼ばわりされる。
自分ではまったくそんな自覚はないし、近寄りがたい空気を出しているわけでも、男の子に興味がないんだと口走ったこともない。
だけど、私のことをよく知ってくれている女の子たちがそう言うんだから、私は男の子たちからそう見えてるんだろう。
傷ついた自分の気持ちじゃなくて、気まずい思いをしている私に気を遣う新島くんは、大人だ。
私はまだまだ、ちっぽけな子供だった。
「桜田先生、いま時間ありますか」
その日の放課後、私は職員室に向かった。大体週に一回はこうして桜田先生に質問しに行く。最近はちょっと難しめの演習問題を解いていた。学校で配られるものではなく、私が自分で買ったものだ。
難しい演習問題なら、私にも質問したいことがたくさんあった。
難関大学を目指すような人たちが解く参考書だ。「上級」というタイトルが入っているものなら大抵が難しい。ちょっとやそっとじゃ解けないから、あえてそれらの参考書を選んだ。
分からないところができれば、正々堂々先生のところに聞きにいくことができる。
「ちょっと待ってね」
桜田先生は、いや、桜田先生だけでなく、職員室では先生たちが黙々と机で作業をしている。時々、近くに座っている先生同士で談笑しているのを見るとほっとした。
授業中、厳しい指導をする先生たちが楽しそうにしているところは新鮮だった。
「お待たせ」
10分ぐらいして、桜田先生が職員室の奥から出てきた。
「陽葵ちゃん、コーヒー飲む?」
「え、いいんですか?」
「もちろん。といってもインスタントだけどね」
「じゃあ、いただきます」
放課後の桜田先生との時間は、先生にとっても定例化していた。だから先生も、友達とお茶をするような感覚で話そうとしてくれるのだ。
桜田先生が職員室のポットで入れたインスタントコーヒーを二つ持ってきた。
10月に入り、夕方になると少し肌寒いくらいのこの時期に、ホットコーヒーはありがたかった。
「今日も質問?」
「はい」
二人で「資料室」と呼ばれる空き教室に入った。いまや物置と化しているこの場所は、社会科の資料が納めてある部屋で、六畳ぐらいの広さしかない。窓は一つ。その絶妙な狭さが、私は好きだった。
先生と二人でこの場所に来るようになったのは4回目だ。それまでは、職員室で、先生の机のそばに立ったまま質問をしていた。
それが一ヶ月前。いつも、なんだかんだ30分以上立ち話をしてしまう私を見かねてか、先生は私を「資料室」に連れてきた。「資料室」の存在は知っていたけれど、実際に中に入ったのは初めてだった。
「資料室」はいつも、ほこり臭い。それでも、最初に入った時に掃除をしたため、今は気になるほどでもなかった。本棚に収納してある本や紙の匂いだと思うと、妙に落ち着くのも良い。
真ん中に四人掛けのテーブルが置いてあるのと、使っていない資料がある以外に、部屋には何もない。
「ここもすっかり使い倒しちゃってるわね」
「他の生徒もここに来るんですか?」
「ううん。長く話すのはいつも陽葵ちゃんだけだから」
先生がにっこり笑っているのを見て、私はどきっと胸が高なった。
私だけ。
私だけが先生と「資料室」に入ったことがある。
目に見えて分かる特別感に、私は酔いしれていた。
「じゃあ始めましょうか。って、普通に質問よね」
「はい。昨日新しい問題を解いてて……」
桜田先生は国語の先生なので、古文だけでなく現代文の分からない部分も教えてくれた。古文よりも現代文が苦手だった。
「現代文はね、“たとえ”の部分を解答に入れちゃダメなのよ。『例えば』が来たら、無視してしまって大丈夫。もちろん、読解のヒントにはなるけれどね。解答には入れないでおくといいわよ」
「そうなんですか」
「ええ。現代文には解き方があるから、それに沿っていけばいいの。古典より簡単じゃない?」
「私には、現代文の方が難しくて、苦手です」
桜田先生は「あら」と意外そうな表情をした。普段の授業、現代文は他の先生に授業をしてもらっているけど、私の現代文の成績だって知っているはずだ。
「陽葵ちゃんの現代文の点数じゃ、苦手のうちに入らないわよ」
「そう言われても、苦手なものは苦手なんです」
「意地張るのね。まあ、苦手だって思ってる方がこれからもっと伸びるでしょう」
ふふっと、まるで小さな子どもを優しく見守る母のような微笑みを浮かべ、桜田先生は立ち上がって窓を開けた。
「みんな部活頑張ってるわね」
桜田先生は運動場で精を出す生徒たちを、愛おしそうに見ていた。信じられないかもしれないが、これでも桜田先生は授業中、厳しい。「分からない」と答える人には、「なんでも良いから答えを出しなさい」と、回答するまでその人に詰め寄る。
その姿を何度か見ているうちに、だんだんと「分からない」を発言する人はいなくなったのだが、私も本当に答えが見つからないとき、顔から火が出る気持ちになる。クラスメイト全員が自分に注目していると思うと、余計に緊張した。
先生が見つめる視線の先を、私も後ろから覗いた。
「ナイス!」
運動場に響き渡る、男子生徒の掛け声。
ああ、あれは野球部だな。
新島くんが所属してる部活だ。
なんとなく、彼がどんなふうに部活をしているのか気になって、先生の横に並んだ。
野球部とテニス部の人たちが、それぞれの部活で練習している様子が一面に見えた。運動部はもちろん他にもあるが、運動場が広くないため、各部が使える時間が区切られている。
部活をしていない私はあまり詳しくないが、おそらく二時間くらいで交代しなきゃいけないんだろう。
この資料室は四階にあるため、運動場はとても遠くに思えた。
その、運動場の真ん中に、新島くんの横顔を見つけた。彼はピッチャーらしい。そんなことも知らなかった。ちょうどボールを投げるシーンが目に入り、あっと思わず声を上げる。彼の、ボールを投げる姿があまりに綺麗で、飛んで行ったボールも、キャッチャーのグローブの中に、まっすぐ吸い込まれていったから。
「いま、新島くんのこと見てたでしょう」
桜田先生が隣でそんなことを言うから、私は耳の先まで熱を帯びるのを感じた。
「どうして分かったんですか」
「だって私も同じところを見てたもの」
なんだ、そんなことか。
てっきり私が彼のことを気にしているのかと思われたらどうしようって、焦った。
「陽葵ちゃん、なんか今焦った?」
「そんなこと、ないです」
「そう」
「はい」
先生はそれだけ言うと、また机の方に戻り、椅子に腰掛けた。
カップの中に、まだまだコーヒーが残っている。猫舌の私は、冷め始めたコーヒーがちょうど良かった。
それからは、先生に最近の勉強の悩みを打ち明けた。
テストの点数が思うように伸びないこと。
同じクラスのあの子が、最近実力を伸ばしていて、どんどん順位を抜かされて焦っていること。
自分の勉強の仕方が悪いのか、勉強時間が足りないのか分からなくて困っていること。
先生は私の話に、「うん」とか「それで?」とか、「うんうん」とか、相槌を打ちながら真剣に耳を傾けてくれていた。私の悩みは先生にとっては陳腐なものだろうけれど、生徒の話を蔑ろにしないところが好きだ。
先生は私の悩み一つ一つに、
「大丈夫」
「陽葵ちゃんが努力してるの知ってるから」
「私が何年教師をしてきたと思う? 生徒が勉強で伸びるか伸びないかぐらい、見て分かるわよ」
と優しく答えてくれた。
先生が本当に何年も「先生」をやってきたんだと思うと、確かに桜田先生の言うとおり、私は大丈夫だと思えた。普段の厳しい指導と、生徒と対峙する時の真剣さが、私にそう思わせたのだ。
「それにしても陽葵ちゃん、勉強のことばかりね」
なんか、いいなあ。
桜田先生が目を細めて言うものだから、私は心外だった。
「だって、高校は勉強する場所じゃないですか」
「そうよ。勉強が一番大事」
「じゃあ、どうしてですか」
「ん?」
「どうして勉強の話ばっかりだなんて言うんです」
「うーんそれは、陽葵ちゃんが本当はもっと別のことで悩んでるんじゃないかと思ったから」
「え?」
「だってさっきから、なんか心がね、こう、泳いでるなあって」
両掌を合わせて、魚が泳ぐみたいな手振りをしてみせた先生。昔、小学校の「スイミー」の授業の時に、当時の担任の先生が同じことをしていた。
「泳いでるって」
「あら、自覚ないの?」
自覚は……ある。
そんなの当たり前だ。私の心は私が一番知っている。
けれどそれを先生に見抜かれると思っていなかったのだ。
「観念しました」
「ふふっ。当たりね」
まるで、「あたり」とかかれたアイスの棒を手にした子供のように先生は笑った。
どうしてですか。
どうしてそんなふうに笑えるんですか。
私は、自分が大人になっても、先生みたいに高校生相手に笑いかけられる自信がない。もし彼、彼女たちが悩んでいるとして、思春期の悩みなんてたいしたものじゃないと、冷たくあしらってしまうだろう。
けれど桜田先生はいつも、私の悩みを真剣に、朗らかに聴いてくれていた。
時には「そうだね。それは苦しいね」と気持ちに寄り添って。
私には真似できない。
そんなふうに、人の心のかたわらに、ずっといてあげるなんて。
「それで、どうしたの。先生に話してみて」
先生の目、「大丈夫だよ」と小さな頃に転んだ後あやしてくれた母親の目のように優しかった。
「……昨日、告白されたんです」
誰に、とは言わなかった。
でも、誰かなんて関係なく、「告白された」というのは一般的に祝福されるものなんだろう。
「へえ、おめでとう」
先生が嬉しそうに笑っていたから、私はこの先を切り出すのに躊躇した。
「……て、そんなに嬉しい気持ちではないのよね」
悩みというからには、その告白を手放しで喜べるような状態ではないということを、先生は察してくれたらしかった。
「そうなんです」
「どうして? その人のこと、陽葵ちゃんは好きじゃないから?」
「いえ、実はそういうわけでもなくて……。私はその人のことが、好き、なんだと思います。話してると楽しいし、他の男の子とは違うなって思うから。でも、じゃあ『付き合いましょう』って即答することができなくて」
「そっか。だから悩んでるのね」
「はい。どうすればいいか、分からないんです」
「なるほどねえ」
自分の恋愛事情を先生に話す生徒って、どれくらいいるんだろう。
普通の人はしないのかもしれないけれど、桜田先生にはそれができた。
先生が私にとって、特別だったから。
「これは大人の一意見として聞いてほしいのだけれど」
先生がコーヒーカップの手をかけてコーヒーを口に含んだ。先生がコーヒーを飲むのを見て、ジュワッと口の中に苦味が広がった。苦いコーヒーが、私はなかなか飲み進められない。
「陽葵ちゃんは、これまで異性とお付き合いしたことがある?」
「いえ、ありません」
ちょっぴり恥ずかしくて、俯きながらそう答えた。
「そう。それなら、悩むのは当たり前じゃないかしら。恋愛って、最初はみんな分からないものよ。自分が本当は誰を好きなのかすら、自分の気持ちに鈍感な人は気付かないわ。陽葵ちゃんは、その相手の人のことを付き合いたいと思うほど好きなのか分からないと思うんだけれど、最初から即答できるほど相手を大好きな人は多くないと思うわ。だから、素直に好きだと思うなら、付き合ってみるのも手じゃない? 気持ちに整理をつけるのは、それからでも遅くないと思うから」
普段の口調や容貌から、実年齢よりも若く見えていた桜田先生が、子供を諭すように言うのを見て、先生なりの経験からちゃんと答えてくれてるんだと分かった。
「先生だって、若い頃はたくさん恋愛も経験したのよ」
「懐かしいわ」と、目を細める先生。
私は、先生の言葉がすっと心に染みた。
「それこそ、陽葵ちゃんにだけ話すけれど、最初に結婚した人に浮気されちゃってね。その人との間に子供もいたんだけれど結局別れて、別の人とまた結婚したわ。二回目の結婚はお互い子連れで、なんだか不思議な感じよ。私の子が女の子で、彼の方が男の子。いきなり賑やかな家庭になっちゃったわ。子供たちからしたら、血の繋がらない兄弟ができて、複雑だったでしょうけど、なんとかこれまでついてきてくれて嬉しかった」
「そんなことがあったんですね。なんか、自分の悩みがちっぽけに見えてきました」
「そうでしょう」
「はい。私、自分の気持ちに蓋をしようとしてたのかもしれません。告白してくれた彼のこと、もっと真剣に考えようと思います」
「ええ。そうしてあげて」
桜田先生は、コーヒーの最後の一口を飲み干して「ごちそうさま」と手を合わせる。
私は三分の一くらい、残すことにした。
「じゃあそろそろ戻りましょうか」
「はい。今日はありがとうございました」
二人でカップを手にして、資料室を後にする。
先生の斜め後ろを歩きながら、先生のことを考えて、なんだか泣きそうだった。
「新島くん。この間のことなんだけど、もう一度よく考えたの。私と、付き合ってくれませんか」
彼の唖然とした顔が、夕陽をバックに浮かび上がるようだった。
桜田先生と話をした次の日、私は新島くんと一緒に帰ろうと誘った。ちょうどテスト期間に差し掛かり、部活が休みになったのだ。
「え、それ、本当か?」
「うん。この前は中途半端な返事してごめんね。でも、ちゃんと考えたから」
「そうか。はは、それは良かった。ありがとう」
照れ隠しなのか、彼は大胆に喜ぶことなく、自然な笑顔を浮かべた。それが尚更、彼の本当の気持ちを表しているようで、私はこれで良かったんだと思えた。
彼とお付き合いを始めてから、一ヶ月が経った。テスト期間も終わり彼はまた部活が始まったので、頻繁にデートはできないけれど、教室で一緒に話すだけで楽しいと思った。
初めてのデートでは休日に映画を見た。王道のラブストーリーが見たくて、彼にお願いしたら、「いいよ」と快く連れて行ってくれた。薄暗い映画館でドキドキしながら隣に座って映画を見た。緊張で、ポップコーンを何度も床に落としてしまった。
映画を見た後はご飯を食べて解散した。心の中で思い描いていたデートらしいデート。家に帰ってからも、彼とLINEしながら、今日楽しかったねと話した。そうして気付いたら眠っていた。
私は新島くんが好き。
彼と会うたびに、彼と話すたびに、心の中で祈るように呟いた。
私は新島くんが好き。
彼がぎこちなく、私の手を握ってくれるのが好き。
「好きだ」と優しい声で言ってくれるのが好き。
まだ緊張気味に、私を「陽葵」と呼ぶ声が好き。
彼の全部が好き。
好きに、なりたい。
「好きになりたい……」
ふと、そんなことを考えている自分がいてはっとした。
私は彼を、好きになりたいの?
なんだそれ、変なの。間違いだ。言葉を間違えただけ。
私は彼を好きなんだ。
好きなんだよ。
大丈夫だ。
新島くんとのお付き合いを続けながら、高校二年生が終わろうとしていた。
三学期、二年生最後の登校日。終業式の後に私は桜田先生に呼ばれて「資料室」に向かった。
話ってなんだろう。
ドキドキしながら、私は資料室の扉を開けた。
「陽葵ちゃん。来てくれてありがとう」
先生はいつものように、資料室の椅子に座っていた。四人掛けのテーブルの上に、二人分のコーヒーと、ミルク、砂糖が置かれていた。
「よかったらこれ、使って」
「ありがとうございます」
私がブラックコーヒーを飲めないことを察してくれたんだ。
先生の優しさを噛み締めながら、私はミルクと砂糖をコーヒーに入れた。
「甘い」
「そう。良かった」
先生は相変わらず、生徒との時間を純粋に楽しもうとしてくれているようだった。
「今日で、二年生も終わりなんですね」
「そうね。早かったでしょう?」
「はい、すごく早かった」
「これからもっと、早く感じるようになるわよ」
「ですよね。うう」
「まあまだ若いんだし、これからよ」
「これから、か。先生は4月からまた、私たちの学年ですよね」
大抵の先生は学年持ち回りで、三年間同じ先生たちがそれぞれのクラスにつくため、担任先生の顔ぶれはあまり変わらない。どの先生がクラスの担任になるかだけが変わる。
「あ、そのことなんだけどね」
先生は少し瞳を伏せて、それから私の目を見た。
「私、4月から別の高校で働くことになったの」
「え?」
上手く言葉が呑み込めず、先生を二度見した。
眉を下げて口元をキュッと閉じている先生が、私の知ってるどの先生の姿よりも寂しそうだった。
「異動になったの。教師だから仕方ないのだけれど、やっぱり寂しいわね。あ、これ、絶対に誰にも言わないでね。本当は口外しちゃいけないから」
「そんな」
状況を説明されてもなお、私の心は追いつかなかった。
先生が、異動。
いなくなる。
ここから、私の側から。
今までだって、担任だった先生が異動することはあった。でも、これほど心から悲しいと思ったことはない。
「離任式にも出られるか分からなくて。だから、陽葵ちゃんとお別れしとかないと、てね」
「……嫌です」
初めてだった。
先生に、自分の気持ちをはっきり伝えるのは。
桜田先生は、「えっ」と私を見ている。
「私、先生のことが好きなのに」
「私も、陽葵ちゃんが好きよ」
「違うっ……! 私、先生のことが、心の底から、好きなんです。一人の女性として、好きだと思うんです」
驚愕。
まさに、桜田先生の表情にはその二文字がぴったりだった。
そりゃそうだろう。
生徒から、しかも女の子から、「女性として好き」だと言われるなんて、誰が予想できるだろうか。
私自身、絶対に言わないと思っていた言葉が口から出てきて、驚いた。
そんなこと、伝えたってどうしようもないのに。
「でも、陽葵ちゃんは、新島くんとお付き合いしてるでしょう……?」
彼と交際を始めてから、先生は私の相談した相手が新島くんだということを知っている。
「はい。でも、彼のことも好きです。でも、先生のことはもっと好きなんです」
分からない。
私は、おかしな人間なのかもしれない。
好きだという気持ちを二重に、しかも全然違う相手に抱くなんて、普通じゃない。
普通じゃないけれど、どちらも真実だった。
「……そう」
先生はそれから、何も言わずに席を立った。
ああ、お別れだ。
気付いてしまえば一瞬だった。
先生は私の気持ちに対して、何も答えてくれない。
仕方ない。もし自分が先生の立場だったら、同じことをしていただろう。
資料室から出てゆく先生を、私は追いかけられなかった。
追いかけられないまま、三ヶ月が過ぎた。
新島くんが女の人と一緒にいるのを見たのは、高校三年生の6月のことだった。
土曜日、私は友達の詩織と、ランチをしに近くの繁華街に来ていた。
「ねえ、あれ、新島くんじゃない?」
「え?」
詩織が指さしたところには、確かに彼がいた。
彼が女の人と一緒に、学生服の店から出てきたところだった。
女の人は、若い子じゃない。四十代くらい。母親のようだ。
だから浮気現場に遭遇したわけではなかった。
けれど、彼が一緒にいる女性の顔を見たとき、私は思わず声を上げそうになった。
だってその人は、紛れもなく、三月に煮え切らないお別れをした桜田先生だったから。
私が大好きな、先生だったから。
「あれ、桜田先生じゃん! 久しぶりだね」
私たちと彼らの距離は10メートルもなく、お互いの会話が聞こえるほどの距離だ。
私は、彼らを凝視し、固まった。
「サイズ、なおって良かったわね」
「ありがとう。母さん」
「お母さん……?」
「え、どういうこと? 桜田先生が、新島くんのお母さん?」
混乱する私たちに二人が気づいて、こちらを向いた。
新島くんが、「しまった」と頭をかく。
「陽葵ちゃん……」
先生が、私を呼ぶ。
どうして。
どうして先生と新島くんが一緒にいるんだ。
けれど思い返してみれば、先生には、新しく結婚した旦那さんと、その連れ子の男の子がいると言っていた。
まさか。
まさかその子どもが、新島くん……?
「あ、待って! 陽葵ちゃん!」
本当は、逃げ出そうとした。
真実は、いつも私の想像から遠く離れている。
桜田先生が私の元に駆け寄ってきて、詩織がそっと私たちから距離を置いた。
「陽葵ちゃん、隠しててごめんなさい。新島綾人は私の息子なの。でも、話した通り私たちに血の繋がりはない。お互い別姓で生活してるわ」
「そんなこと今更言われたって、受け入れられるわけないじゃないですか」
「ええ、そうよね……。でも私は、陽葵ちゃんに私たちのこと、許してほしいの」
先生はすまなそうに、私に頭を下げた。
自分に謝る先生を見て、心が疼く。
「私も、陽葵ちゃんが好きなの。もちろん、生徒として、だけど。でも、心からそう思うわ。陽葵ちゃんがどこにいても、私がどこにいても、それは変わらない」
「変わらない……」
「ええ。綾人が私の息子で、陽葵ちゃんが綾人とお付き合いしていても、それは変わらない。変わらないままでいいのよ。陽葵ちゃんは自分らしくいて。大人になっても、この先私を忘れても。それが、先生からお願いよ」
自分勝手だと、思う。
でも、目の前で必死に訴える桜田先生の瞳は、真実だけを語っている。
嘘偽りない、本心を。
だから私も、先生の言葉を素直に受け取らないといけないと思った。
先生が、気持ちを変えてくれた。
「分かりました。私、先生のこと、このまま好きでいます。それいいですか?」
「もちろんよ」
「ありがとう、先生。忘れませんよ、絶対に」
そう言うと、先生の目尻に水滴が浮かんでいるのが見えた。
先生の後ろで私たちのことを見ていた新島くんが、ほっとした表情を浮かべている。
彼には先生への気持ちはもちろん伝えていないけれど、この先もしかしたら伝えることがあるのかもしれない。
その時彼は笑うだろうか。怒るだろうか。
分からない。
分からないけれど、この気持ちが変わるまで、胸にしまって生きよう。
あのね、先生。
私は新島くんが好き。
でも、桜田先生を心から愛しています。
【終わり】