「お母さん、何かお手伝いしましょうか?」
わたしは台所の玉のれんから頭をのぞかせ、孝心に満ちた声で母の背中に言った。これまでまともに家の手伝いなんかしたことがなかったので、きっとわたしの申し出を聞いて感涙にむせぶに違いない。
しかし、母は胡散臭そうに一瞥を向け、
「けっこうです。そんなことより勉強しなさい、勉強」
……出鼻をくじかれた。
せっかく娘が親孝行しようとしているのに、どうしてやる気を削ぐようなことを言うかなぁ。親がそんな無理解だと、子どもが夜の街を徘徊したり、自らの死を望んだりといった逸脱行動に走りかねないよ、まったく。
路線を変更して〝勉強のできる子〟という記憶を残そうかとも考えたけど、それには時間がかかるし、なにより逆立ちしても不可能なので却下。相手がどう思おうが、ここは親孝行路線で押し通すことにしよう。
「いいからいいから、遠慮しないで。あ、この食器を拭けばいいのね」
「あ、こらっ!?」
わたしは母の隣に強引に割り込むと、水切りかごの中の食器を手に取った――つもりだったのだけど、洗われたばかりでまだ濡れていた皿はわたしの手からつるりと滑り、床に落ちて割れてしまった。
「…………」
「…………」
いくつもの破片に砕けた皿を呆然と見つめる母とわたし。台所を気まずい沈黙が支配する。
「あ、あのさ――」しばらくしてからわたしは言った。「わたしはただ親孝行がしたかっただけで、決して悪気があったわけじゃないんだよ」
「…………」
「本当だよ」
「…………」
「でもほら、こどもはちょっと困ったちゃんくらいの方が親としてはかわいく思えるんじゃないかなー、なんて……」
「…………」
わたしは必死に弁解を試みたものの、怒りで肩をわなわな震わせている母は聞く耳を持たなかった。鬼の形相で台所の出口を指差し、怒鳴った。
「出て行けーっ!」
言われるまでもなく、わたしは脱兎の如く台所から退散した。
怒り狂う母からほうほうの体で落ち延びたわたしは、再び居間に足を踏み入れた。そこでは父があいかわらず何が楽しいのかわからない様子でナイター中継を観ていた。
手強い母は後回しにして、とりあえず父から懐柔することにしよう。
父には肩を揉んであげようと考えている。仕事で疲れた体をいたわってくれる心優しい娘をアピールしようというわけだ。今度はしくじらないようにしないとね。
「お父さん、肩でもお揉みしましょうか?」
わたしは以前やっていたファミレスのバイトで培った接客術を生かし(お尻を触ってきた客の頭をトレイでぶん殴り、三日でクビになったけど)、満面の笑みで尋ねる。
父はこちらを振り向きもせず、一言、
「ん」
……それ、いいのか悪いのかどっちなのよ。まあいい。都合よく了承したものと受け取ってやる。
わたしは父の背後に回り、肩に手をかけようとしたところ、
「げっ……」
フケが積もってところどころ白くなっている父の肩を見て、思わず呻き声が出てしまった。この人、ちゃんと頭を洗っているのだろうか。
正直、ばっちくてあまり触りたくはなかったけど、これも親孝行のためだと思って耐えることにした。意を決して父の肩に手をかける。
思えば父の肩を揉むだなんて、小学生の時に父の日のプレゼントとして〈肩たたき券〉をあげて以来だ。あの券はたしか十回分あったはずだけど、その日に一回使用されたきりになっていたはずだ。残りはどうして使われなかったのだろう?
そんなことを考えながら父の肩をわしゃわしゃ揉み出したところ、父が悲鳴を上げた。びっくりしてわたしは手を離してしまう。
父は飼い主に理不尽な仕打ちを受けた犬のような悲しげな瞳をわたしへむける。これ以上ひどい仕打ちは勘弁してくださいと言わんばかりだ。
「……今日のところはこれくらいにしておくね」
相手に拒絶されてしまった以上、親孝行を強要することはできず、わたしはすごすごと居間を後にした。
肩たたき券が使われなかった理由が今頃になってわかった気がした。
わたしは台所の玉のれんから頭をのぞかせ、孝心に満ちた声で母の背中に言った。これまでまともに家の手伝いなんかしたことがなかったので、きっとわたしの申し出を聞いて感涙にむせぶに違いない。
しかし、母は胡散臭そうに一瞥を向け、
「けっこうです。そんなことより勉強しなさい、勉強」
……出鼻をくじかれた。
せっかく娘が親孝行しようとしているのに、どうしてやる気を削ぐようなことを言うかなぁ。親がそんな無理解だと、子どもが夜の街を徘徊したり、自らの死を望んだりといった逸脱行動に走りかねないよ、まったく。
路線を変更して〝勉強のできる子〟という記憶を残そうかとも考えたけど、それには時間がかかるし、なにより逆立ちしても不可能なので却下。相手がどう思おうが、ここは親孝行路線で押し通すことにしよう。
「いいからいいから、遠慮しないで。あ、この食器を拭けばいいのね」
「あ、こらっ!?」
わたしは母の隣に強引に割り込むと、水切りかごの中の食器を手に取った――つもりだったのだけど、洗われたばかりでまだ濡れていた皿はわたしの手からつるりと滑り、床に落ちて割れてしまった。
「…………」
「…………」
いくつもの破片に砕けた皿を呆然と見つめる母とわたし。台所を気まずい沈黙が支配する。
「あ、あのさ――」しばらくしてからわたしは言った。「わたしはただ親孝行がしたかっただけで、決して悪気があったわけじゃないんだよ」
「…………」
「本当だよ」
「…………」
「でもほら、こどもはちょっと困ったちゃんくらいの方が親としてはかわいく思えるんじゃないかなー、なんて……」
「…………」
わたしは必死に弁解を試みたものの、怒りで肩をわなわな震わせている母は聞く耳を持たなかった。鬼の形相で台所の出口を指差し、怒鳴った。
「出て行けーっ!」
言われるまでもなく、わたしは脱兎の如く台所から退散した。
怒り狂う母からほうほうの体で落ち延びたわたしは、再び居間に足を踏み入れた。そこでは父があいかわらず何が楽しいのかわからない様子でナイター中継を観ていた。
手強い母は後回しにして、とりあえず父から懐柔することにしよう。
父には肩を揉んであげようと考えている。仕事で疲れた体をいたわってくれる心優しい娘をアピールしようというわけだ。今度はしくじらないようにしないとね。
「お父さん、肩でもお揉みしましょうか?」
わたしは以前やっていたファミレスのバイトで培った接客術を生かし(お尻を触ってきた客の頭をトレイでぶん殴り、三日でクビになったけど)、満面の笑みで尋ねる。
父はこちらを振り向きもせず、一言、
「ん」
……それ、いいのか悪いのかどっちなのよ。まあいい。都合よく了承したものと受け取ってやる。
わたしは父の背後に回り、肩に手をかけようとしたところ、
「げっ……」
フケが積もってところどころ白くなっている父の肩を見て、思わず呻き声が出てしまった。この人、ちゃんと頭を洗っているのだろうか。
正直、ばっちくてあまり触りたくはなかったけど、これも親孝行のためだと思って耐えることにした。意を決して父の肩に手をかける。
思えば父の肩を揉むだなんて、小学生の時に父の日のプレゼントとして〈肩たたき券〉をあげて以来だ。あの券はたしか十回分あったはずだけど、その日に一回使用されたきりになっていたはずだ。残りはどうして使われなかったのだろう?
そんなことを考えながら父の肩をわしゃわしゃ揉み出したところ、父が悲鳴を上げた。びっくりしてわたしは手を離してしまう。
父は飼い主に理不尽な仕打ちを受けた犬のような悲しげな瞳をわたしへむける。これ以上ひどい仕打ちは勘弁してくださいと言わんばかりだ。
「……今日のところはこれくらいにしておくね」
相手に拒絶されてしまった以上、親孝行を強要することはできず、わたしはすごすごと居間を後にした。
肩たたき券が使われなかった理由が今頃になってわかった気がした。