「あら、出かけるの?」
 母がそう尋ねたのは、わたしが昼間でも薄暗い玄関の框に座って靴を履いている時だった。
 わたしは母に丸めた背中を向けたまま、
「ちょっと、友だ……クラスメイトの買い物に付き合わなくちゃならなくなってね」
 自分としてはまったく乗り気ではないのだということをアピールすべく大きくため息をついてみせた。

 今度の日曜日、一緒に修学旅行のための買い物に行くという決定がなされたのは、数日前の昼休みのことだった。
 その日、わたしと田丸と中沢の三人は、いつものようにくっつけた机を囲んで昼食を共にしていた。そう、あの――初めて三人で昼を食べ、中沢が自分は弱い人間だと告白し、田丸にシカトに荷担したことを謝罪し、田丸がそれを許して友達になろうと提案した――日以来、こうして三人で昼を食べることが常態化しているのだ。
「じゃあ、景ちゃんのスコッチエッグ一個と、わたしのフライドポテト二本を交換ね」
「えっ、なんか交換レートおかしくないですか?」
「そうかなぁ? じゃあ、おまけとしてブロッコリーも付けるよ」
「……それ、佳乃さんが嫌いなおかずを押し付けているだけですよね?」
 中沢と田丸が弁当のおかずをトレードしている様子を見て、わたしは小さくため息をついた。……なんでこんな事態になってしまったのだろう。
 クラスの田丸に対するシカトは、どうも自然消滅という形になったようだ。別に誰かが終結を宣言したわけではないものの、わたしや中沢が協定破り(そもそもわたしは、そんなバカげた協定に参加した覚えはないのだけど)をしたことによってもはや有名無実化してしまった。以降も後ろめたさもあってか田丸に積極的に関わろうとするクラスメイトはいなかったけど、朝の挨拶やちょっとした手伝いを頼むときに声をかけるくらいはされるようにはなったようだ。
 いや、一度だけ積極的に声をかけてきた相手はいた。例によってわたしは名前を覚えてはいないけど、見るからにカースト上位に位置していそうな女子四人組だ。以前田丸は、そのグループの末席に名を連ねていたそうだ。なんでも一学期早々勧誘されたのだという。田丸自身も「なんでだろうね?」と不思議がっていたが、それについては〝顔〟の一言で説明がつきそうだ。
 ある日の休み時間、四人は連れ立って田丸の席にやってくると、これまでのことなどまるでなかったかのように一緒に街に遊びに行こうと誘ってきた。その様子を自分の席から突っ伏した状態で見ていたわたしは、田丸が元の群れに戻ることができるのであれば、それに越したことはないんじゃないかと思っていた。
 しかし、彼女たちに対する田丸の返答は、
「アッカンベー!」
 だった。
 あとで田丸に聞いたところによると、彼女がクラス全体からシカトされるようになったのは、そのイケてるグループ内での人間関係のいざこざが発端であったようだ。なんでも、リーダー格の女子の彼氏が田丸のことを「かわいい」と評したのがきっかけだったとか。なんてバカバカしい……。
 田丸も同意見らしく、「あの人たちと付き合うようになってせいで、以前仲のよかった友達と疎遠になったり、連日怪しげなナイトスポットに連れて行かれたりと、ろくなことがなかったからね。ほんと、バカバカしいったらありゃしないよ!」と頬をパンパンに膨らませながら言っていた。
「もうあの人たちとは付き合う気はないよ。だって、今のわたしには麻美ちゃんと景ちゃんがいるもんね」
 というわけで、田丸はわたしのところに入り浸るようになったのだった。
 中沢は、女子Aと女子B(名前がなんだったかは忘れた)と袂を分かったようだ。
 中沢によると、三人は入学した際に席が隣同士だったという理由でつるむようになり、以後もだらだらと関係を続けていただけで、それほど親密な間柄でもないそうだ。もっとも、それは中沢個人の感想であって、わたしには少なくとも女子Aと女子Bは仲がよさそうに見受けられたけど(なんせ、連れ立ってわたしの席に乗り込んできたくらいだし)。
 中沢には仲間内にいながらも疎外感を抱いていたが、それでもひとりでいるよりはましだという理由でそこに留り続けていたのだという。だけど、勝手にわたしに謝罪をしたり、田丸と友達になったりといった独断専行を咎められたこともあり、もうこの人たちとは一緒にはやっていけないと決断したのだそうだ。彼女自身、わたしに話しかけた時点でこういう結果になることは覚悟していたのだろう。
 一年以上続いていた関係を解消して後悔しないのかとわたしが尋ねたところ、中沢は少しの寂しさと、それ以上に希望に満ちた表情で、
「いいんです」
 と答えた。
 こうして居場所を捨てた中沢は、現在はわたしのところに身を寄せているのだった。
 田丸と中沢がつるむのは別にいい。なんせ二人はわざわざ宣言をしてまで友達同志になったのだから。
 でも、なんでわたしまでそれに付き合わされているのだろう。しかも、いつもわたしの席の周りに集まってくるため、傍から見れば、わたしが中心になっているように思われているのではないか。わたしの方からは、一度たりとも進んでそのような集まりを主催したことなどないのだが。
 わたしとしてはのんびりと弁当が食べられないし、食後の昼寝もできなくなるしで、溜まり場にされるのは正直勘弁願いたいところではあるのだけど――
「麻美ちゃん、卵焼きあげるね。このあいだあげたの気に入ってくれたみたいだから。ついでにブロッコリーも……あ、こっちはいりませんか、そうですか」
「以前、麻美さんからコロッケをいただいたので、よかったらわたしが作ったのも食べてみてください。わたしのはカニクリームコロッケなんですよ」
 ……おかずのバラエティが増すし、まあ悪くはないかな、なんて思ったりしているわけだけど。
「そういえば、来週から修学旅行だね」と田丸。
「そうですね」うなずく中沢。「行き先が京都と奈良というのがいかにも定番って感じですけど、わたしはまだ両方とも行ったことがないので楽しみです」
「そろそろ、旅行に持っていくものを買い揃えなきゃね」
「でしたら、繁華街まで遠出した方がいいかもしれませんよ」
「そうだね。せっかく街に出るんなら、買い物だけじゃなくていろんなところに遊びにも行きたいよね」
「いいですね、それ。さいわい、今週末はいいお天気みたいですし」
 まるで田丸と中沢の二人で買い物の相談しているかのようだけど、合間合間にチラチラこちらに向けられる視線のせいで、わたしに聞かせようとしてるのは明らかだった。どうもこいつらは、わたしを含めた三人で街に遊びに行きたいと思っているようだ。
 田丸はわたしの方から誘ってきてほしそうにうずうずしている。これまで何度となくわたしが助け船を出したこともあり、今回もそれを期待しているのだろう。
 中沢は孤高のわたしに憧れると言ってしまった手前、集団行動に引きずり込むことに若干の迷いがあるようだけど、今回ばかりは田丸との共闘関係を隠そうとしなかった。
 潤んだ瞳で懇願するペットショップで売られている子犬たち(二匹になってしまった!)に対し、わたしは素知らぬふりを決めこんで食事を続ける。これ以上、煩わしい人間関係に巻き込まれてたまるものか。
 弁当箱の蓋を見ると、そこには先ほど二人からもらった卵焼きとカニクリームコロッケが入っていた。……まさかこれって、便宜を図ってもらうためのワイロだったわけじゃないよね。
 弁当箱の蓋からちらりと視線を上げると、二人は期待に満ちた表情でわたしを見つめていた。
 取るべきか、取らざるべきか……。
 しばし煩悶していたわたしだったけど、結局は欲望に屈しておかずに箸を付けた。まずかったら文句のひとつも言ってやろうと思ったけど、あいにくおいしかったのでそれも叶わず、やけくそ気味にわたしは宣言した。
「マル、ケイ、二人とも今度の日曜日に一緒に修学旅行のための買い物に行くよ。――いいね?」
 それを聞かされた二人は、一瞬はっとした表情になり、次いで互いを見合い、最後に揃ってわたしの方を向いた。その顔には満面に笑みが浮かんでいた。
「もちろん!」と、田(マル)佳乃は答えた。
「いいですとも!」と、中沢(ケイ)子は答えた。