「遅い!」
 わたしを出迎えた母親が開口一番に言った。
 なんという理不尽……。本気で賞賛されることを期待をしていたわけではないけど、怒られるだなんて想定外もいいところだ。
 この不当な扱いに文句のひとつも言わなくてはと思っていたところ、今度は物を投げつけられた。……冗談抜きでしかるべき機関に訴え出るべきなのではなかろうか。
 胸で受け止めたそれは、幾重にも折りたたまれた布だった。広げてみるとエプロンに姿を変えた。変な薬でもやりながらデザインしたと思われるような柄だ。別に母にサイケ趣味があるわけではなく、単に布が安かったのだろう。母の方は違うエプロン――こちらは年甲斐もなくファンシーな柄。やはり値段が気に入ったものと思われる――を着けていた。
「制服のままでいいから、それを着けて台所に来なさい」
 それだけ告げと、母は台所に引き上げようとする。
「ちょっと待ってよ」わたしは慌てて母を呼び止めた。「いったい何だっていうのさ? まだ拭かなきゃいけない皿があるわけじゃないでしょ」
「夕食を作るから手伝いなさい」
「は?」
「わかったら早くしな」
「何を突然――」
 わたしはさらに問い詰めようとしたものの、すでに母の姿は玉のれんの向こうへと去ってしまった。目の前では木製の玉同士がぶつかり合い、カラカラと小気味よい音を立てている。
 ……いったい、なんだっていうんだろう?
 よくわからないけど、まごまごしていたら再び玉のれんの間から顔を突き出して罵倒の二つや三つぶつけられかねないので、わたしは困惑しつつも言われた通りにすることにした。
 カバンを部屋に置いてくる余裕はなさそうなので、とりあえず居間に放り込んでおく。
 父親はまだ帰宅しておらず、居間はしんと静まり返っていた。いくら天下の公務員様といえども、まだ小学生が外を駆け回るのを許されるような時間帯に帰宅し、のんびりテレビを見ていられるほど優雅な生活がおくれるわけではないらしい。
 制服の上からエプロンを身につけて準備を終えたわたしは、いったいどうなることやらと思いながら玉のれんをかき分けて台所に入っていった。

「さて、今夜の献立はワカメと油揚げの味噌汁に、ほうれん草のおひたし、前日作ったひじきの煮物にナスの漬け物、タイムセールで安く手に入れたサンマの塩焼き、そして肉じゃがよ」
「なんていうか、ジジババ臭いラインナップだなぁ……」
「文句ある?」
「いえ、別に」
「今回、あんたに作り方を教えるのは、メインメニューである肉じゃがよ」
「肉じゃがなら家庭科の授業で作ったことあるけどね」
「ふん。教科書や料理本に載っているようなのは、しょせん規格化された味にすぎないね。私が教えるのは、高屋家に代々伝えられてきた家庭の味よ」
「家庭の味ねぇ……」
「まずは材料。じゃがいもに牛薄切り肉、そして玉ねぎよ」
「授業では彩りと、してニンジンとかいんげんとかグリーンピースなんかも入れていたけどね」
「そんなものは邪道だね。肉じゃがなんだから、肉とじゃがいもが入っていればそれでいいの」
「そんな保守的だから、お母さんの料理は見た目が地味なんだよ」
「文句ある?」
「いえ、別に」
「まずじゃがいもの皮を剥く。本当は包丁を使うのが正道だけど、あなたには特別にピーラーを使うことを許可します。わざわざ百円ショップで買ってきてあげたんだから感謝しな」
「はいはい、ありがとうございます」
「芽があったらちゃんと取り除きなさい。さもないと――」
「さもないと、何さ?」
「死ぬよ」
「肉じゃがって、生死に関わるような食べ物だったのか……」
「皮を剥いたジャガイモは一口大くらいに切っておく。同様に、牛肉と玉ねぎも食べやすい大きさに切っておくといいわね」
「玉ねぎって切ると目にしみるじゃない。あれってどうすれば防げるの?」
「耐えなさい」
「……貴重なアドバイス、ありがとうございます」
「強火で熱した鍋にサラダ油を引いて材料を炒める。最初は牛肉、焼き色が付いた頃合を見計らってジャガイモと玉ねぎと投入、さらに炒める。ほら、木べらでかき混ぜて。ここで焦がすと、とても食べられたものじゃなくなるよ」
「はいはい。かき混ぜるっと」
「一通り炒め終わったところで、水、醤油、酒、みりんを入れて煮込むわよ」
「ちょ、ちょっと、適当にばんばん入れちゃってるけど、分量は計らなくていいの? たしか黄金比とかあるんじゃなかったっけ?」
「そこは目分量よ」
「なんてアバウトな……」
「よく料理本なんかでは『大さじ何杯』とか『カップ何杯』なんて書いてあるけど、あれは絶対、家事をやらない人間の発想よね。計量スプーンだのカップだのと、無駄な洗い物を増やしてどうするんだって思うわよ」
「そこは人に教える以上、わかりやすくする必要があるからでしょ。少なくともわたしは、今お母さんがやっているところを見ててもよく理解できなかったんだけど」
「文句ある?」
「あるけど……別にいいです」
「ほら、アクが出てきたよ! お玉ですくう。急いで!」
「はいはい、すくいますよっと」
「そうしたら落としぶたをし、火を弱めてしばらく煮込む」
「火を弱めるって中火? 弱火?」
「いい火加減よ」
「じゃあ、しばらく煮込むって、どれくらいの時間?」
「いい感じになるまでよ」
「…………」
「だいたいこんなところね。簡単でしょ?」
「……お母さんって、人にものを教えるのには向かないと思う」

 そんなこんなで、母のお料理教室は一段落した。あとは鍋の中が〝いい感じになるまで〟しばらく待つことになった。その空き時間に、わたしはさっきから気になっていたことを尋ねてみる。
「いったいどうしたの? これまで料理を教えてくれたことなんてなかったのにさ」
「まるで、これまでせがんでも教えてくれなかったかのような言い草ね。あんた、一度だって頼んだことがある?」
「そりゃないけどさ……」
 だって面倒臭いし、必要だとも思っていないし、何より将来自分が家事をしている姿なんてまったく想像ができないし。
「まあ、なんていうかね――」ふと母は、普段はめったに見せないような穏やかな表情を浮かべて言った。「代々付け継がれてきた我が家の味ってやつを娘にも伝えておきたいなって、そんなことを思ったわけよ」
「ふーん」
 そういうものなのかねぇ。よくわからないけど、とりあえずうなずいておいた。
「それに女たるもの、煮物のひとつも作れなくちゃね。これで男を籠絡するのよ。やつらはこういう家庭料理ってやつにめっぽう弱いんだからさ」
「……もしかして、お父さんもそれで籠絡したわけ?」
 わたしが尋ねると、母は「さーて、どうだったかしらね」としらばっくれたように答えた。
 そのとき、玄関のドアが開けられる音がした。続いてドアが閉められるやけに重々しい音がし、やがて足音が廊下を渡って近づいてくる。どうやら父が帰ってきたようだ。
「おかえりなさい」
 母が玉のれん越しに言うと、「ん」という声が返ってきた。「ただいま」も、玉のれんをかき分けて顔を覗かせることもなかったけど、母は別に気を悪くするでもなく続けて言う。
「今日の晩ご飯は肉じゃがですからね」
「お」
 父は同じように一文字で答えたけれど、心なしか声の調子が跳ね上がったように感じられた。
 なるほど、たしかに効果はてきめんのようだ。