「あなたに謝らないといけないね」
 自己紹介が終わったところで改まったように松永先輩は言った。
「謝るって、何をです?」
 その言葉の意味がわからず、わたしは首をかしげる。
「さっき私、あなたに酷いこと言っちゃったじゃないの。そのことを謝罪しなきゃと思ってね」
「そんな……。結構ですよ、謝罪だなんて。わたしはなんとも思っていませんから。どうか気になさらないでください」
 わたしは遠慮したものの、松永先輩は頑として受け付けない。
「そういうわけにはいかないよ。私があなたに酷いことを言ったのは紛れもない事実なんだからさ。謝るのは人間として当然の行為だよ。あなたもあなたよ。不当なことを言われたんだから無理矢理にでも謝らせなきゃ。自分の尊厳は自分で守らないとね」
「はあ……」
 何で謝られる側のわたしが説教されているんだろう?
 なんか釈然としなかったけど、とりあえず言われたとおりにした。
「じゃあ、謝ってください」
「ごめんなさい」
 松永先輩はぺこりと頭を下げた。
 群れを組んで上空を飛んでいた鳥の姿が肉眼では認識できなくなるほど遠くに行くくらいの時間が経過した。その間、松永先輩はずっと頭を下げ続けたままだ。
 ……いつまでそうしているつもりなんだろう?
 いいかげん心配になってきた頃、松永先輩の肩がぷるぷると震えだした。
 松永先輩が頭を上げた。その顔はにやけていた。わたしとのやり取りがあまりに滑稽だったせいだろう。頭を下げている間は必死に耐えていたものの、わたしの顔を見たとたん吹き出し、げらげら笑い転げた。
 そんな松永先輩の様子にしばし呆気にとられていたわたしだったけど、やがて釣られるように笑い出した。それは先輩にも負けないほどの哄笑だった。
 わたしの反応に松永先輩は虚を突かれたように一瞬素に戻ったものの、すぐさま負けじとばかりに笑いを再開する。
 殺風景な屋上は、しばしわたしたちの笑い声で満たされた。こんな目一杯笑ったのはすごく久しぶりのような気がした。
 やがて笑い疲れたわたしたちは揃ってレジャーシートの上に仰向けに寝転がり、ぼんやりと目の前に広がる青い空を眺めた。
「いい天気ですね」
「そうね」
「風、気持ちいいですね」
「そうね」
「雲が流れていきますね」
「そうね」
 そんな会話とはいえないような言葉を交わしながら空を眺めていると、とてもゆったりとした気分になった。立入禁止になっている屋上にいることや、隣にいるのが髪を赤く染めた不良であること――そんな些細なことをいちいち気にしていたさっきまでの自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
 それに、掃除の最中であることも――
 ……ん、掃除?
「忘れてた!?」
 わたしは飛び起きた。
 そうだ、わたしはゴミを捨てに行った帰りだったんだ。教室を出てからどれくらいの時間が経ったのかわからないけど、きっと掃除当番のみんなは待たされて苛立っているに違いない。
「先輩、わたし教室に戻ります」
 この場所と空には未練があったものの、これ以上わたしの帰りを待っているみんなに迷惑をかけるわけにはいかない。
「そう」松永先輩はうなずいた。「じゃあ、私も戻ろうかな」
「いえ、先輩はわたしにかまわずゆっくりしていってください」
「いいのよ、別に。これでも今日はいつもより長居したくらいなんだしさ」
 結局、わたしたちは一緒に屋上を出ることにした。松永先輩は敷いていたレジャーシートを片付ける。わたしは「手伝いましょうか?」と言ったけど、一人でやった方が早いからとやんわり断られた。事実、先輩は慣れた手つきであっという間にレジャーシートを小さく折り畳んでしまった。
「屋上を出たところで待っててくれる? 私はこれをしまってくるからさ」
「わかりました」
「言うまでもないけど、扉の開け閉めは静かにね」
「はい、心得ています」
 わたしの返事に松永先輩は軽く微笑むと、貯水タンクの方に歩いていった。
 わたしは言われたとおり音をたてないよう扉を少しだけ開けると、その隙間に身体を滑り込ませて屋上を出た。
 今まで明るい屋上にいたせいか、ただでさえ薄暗い階段フロアはよけい暗く感じられた。
 松永先輩はすぐに来るだろうと思い、扉を手で押さえたままにして待つことにした。しかし先輩はなかなかやってこなかった。どうしたんだろうと思い、わたしは扉の隙間から顔を突き出して屋上の様子を覗き見た。
 松永先輩は扉のすぐ側に立っていた。その手にレジャーシートはない。すでに隠し場所である貯水タンクの下に置いてきたようだ。だったら何をぐずぐずしているんだろう?
 先輩はフェンスの向こう側をじっと見つめていた。この学校は高台の上にあり、さらに屋上という校舎の一番高いところにいるため、ここからだと町全体を一望することができた。
 何か気になるものがあるのかと思い、わたしも松永先輩の視線の先を目で追ってみた。
 ぽつぽつと住宅がへばり付くように建っている高台を下った先には、急行や特急は素通りしてしまう小さな駅舎と、その正面に陣取っている商店街の錆び付いたアーケードの屋根が見えた。ランニングコースやちょっとした公園になっている広い河川敷のある大きな川が町の中央を分断するように流れている。川に架かっている橋には高い主塔がそびえ立ち、そのてっぺんに赤いライトがチカチカ灯っている。橋の向こうは新興の住宅地になっている。碁盤目上の敷地に整然と建ち並ぶ家々の屋根はまるでモザイク模様のよう。どれかはわからないけど、その中の茶色い一片がわたしの家だ。住宅地の向こう側にはショッピングセンターの大きな建物があり、そのさらに遠方には舞台劇の書き割りのような山の稜線が見える。山のすぐ上には沈み始めようとしている太陽があった。先ほどわたしは松永先輩の髪の色を夕日のようだと評したけど、いま瞳に映っている本物は何だか薄ぼんやりしていて、先輩のまとっている鮮烈な赤と比べるとずいぶん見劣りがした。
 フェンスの編み目越しに広がっているのは、ごくありふれた地方都市の風景だった。これのいったいどこに先輩の興味を引く要素があるのか、正直わたしにはよくわからなかった。
「あの、先輩――」
 自分の世界に浸っているところを邪魔するようで気が引けたけど、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。わたしは恐る恐る松永先輩に声をかけた。
 はっとしたように身を震わせた松永先輩は、ゆっくりとこちらを振り返った。感慨に耽っていたところを邪魔されて怒っていやしないか心配だったけど、先輩がわたしに向けてくれた笑みはさっきまでと変わらぬ、いや、これまで以上に優しげだった。
 どこかさっぱりとした様子で先輩は言った。
「戻ろうか」