校舎裏にある集積所にゴミを捨て、再び教室のある三階まで戻ってきたわたしを出迎えたのは、頭が痛くなるような喧噪だった。
 机が床を引きずる耳障りな摩擦音、行っている仕事の単純さの割にやたらけたたましい黒板消しクリーナーのモーター音、箒でチャンバラをしている男子のがさつな歓声、掃除そっちのけでお喋りに興じている女子の甲高い笑い声――校内は放課後の掃除時間という狂騒の真っ直中にあった。
 目の前で繰り広げられている騒々しい光景に、わたしは眉をひそめてしまう。掃除中なのだから多少うるさくなるのは仕方がないのかもしれないけど、それにしたってもう少し静かにできないものだろうか。だいたい、やかましさの原因の半分は掃除とは何の関係のないものだし。
 ここで「あなたたち、遊んでないで真面目に掃除しなさいよ!」と注意のひとつもできたらどんなに胸がすくことだろう。現実のわたしはといえば、そんな度胸などあろうはずもなく、ただげんなりとため息をつくより他ないのだけれど。
 ……早く戻ろう。みんな、わたしを待っているはずだから。
 そう思い、教室にむけて足を踏み出そうとした、そのときだった。

 ――――。

 わたしは思わず足を止めてしまった。今、何かが聞こえたような気がしたのだ。
 ――それは、扉が閉まる音。
 校舎には扉なんて数え切れないほど存在している。今の時間はそれを開け閉めする人間にも事欠かない。本来ならそんな音が聞こえたところで、何の不思議もありはしないはずだ。
 だけど、その音は教室に使われている引き戸ではなく、放送室など一部の部屋でしか見ない開き戸が発したものだった。それに、ペラペラな合板製の扉とは違う重々しさがあった。そしてなにより、隣にいる相手の話し声すら聞き取るのが困難な騒々しい中にあって、そのかすかな音はやけにはっきりとわたしの耳に届いた。――理由はいろいろとあるけど、とにかくわたしはその音に何か不思議なものを感じずにはいられなかった。
 きょろきょろと周りを見回す。扉が閉まる音など聞こえなかったのか、聞こえたところで別に変には思わないのか、わたしのように呆然と立ちつくしているような人はいなかった。
 ……もしかすると、あの音はわたしひとりのために鳴ったのかもしれない。
 その見解は少しの気味悪さと同時に、わたしの胸をときめかせた。なぜならそれは、これからわたしだけの特別な物語が始まる予兆のように思えたから……。
 などと、ありえない妄想を逞しくさせていたわたしの目を覚まさせるかのように背中を突き飛ばされた。その衝撃でわたしはたまらず廊下の隅の方によろめいてしまう。手から弾かれたゴミ箱が跳ねるようにリノリウムの床を転がっていく。
 さっきまでわたしが立っていたところを数名の男子がどたばた駆け抜けていく。
「ぼけっと突っ立ってるんじゃねえよ、ブス!」
 一番後ろを走っていたイガグリ頭の小柄な男子が、すれ違い様にわたしに怒鳴った。彼らはそのまま廊下のむこうへと走り去っていった。
 わたしは彼らの背中を恨めしげに見送った。たしかにぼんやりしていたわたしも悪かったかもしれないけど、廊下を走ってはいけないという小学生にも自明のルールすら守れないあの男子たちはもっと悪いはずだ。今回はただよろけただけで済んだからいいようなものの、もしわたしが転んで怪我でもしたらどう責任を取るつもりなのだろうか。
 これだから男子は嫌いなんだ。不潔だし、乱暴だし、意地悪だし……。
 常日頃抱いている同年代の異性に対する憤懣を心の中でぼやきながら、わたしはゴミ箱を拾いに行った。
 ゴミ箱は上り階段に引っかかって止まっていた。不幸中の幸いだ。下り階段の方に転がっていたら、そのまま下の階へと落っこちていただろうから。
 わたしは重くてごわごわするスカートの裾を気にしながらしゃがみ込み、横倒しになっているゴミ箱を拾い上げた。再び身を起こそうと顔をもたげたところ、わたしの味方をしてくれた上り階段の向こう側の景色が目に飛び込んできた。
 灰色に塗られた鉄製の手すりに、同じく灰色をしたリノリウム張りの踏み板。段は踊り場で折り返し、さらに上へと伸びている。
 それは一見したところ、他の場所にあるものとなんら変わるところのない、ごく普通の階段のようだ。ただ、他所のように踊り場の下部に光を取り入れるための小窓がないせいか薄暗かった。最大の違いは、手すりと壁の間にプラスチック製の鎖が渡され、その中央に〈屋上への立ち入りを禁ず〉と書かれたプレートが取り付けられていることだろう。
 数ヵ月前まで通っていた小学校でもそうだったけど、学校という世界はわたしたち生徒が屋上に行くことを許してはくれない。小学校のときは単純に高いところは危険からという安全面からの配慮だっただろうけど、中学校ではさらに、生徒がタバコを吸ったりといった悪さをしていても目が行き届かないからという理由も加わるのかもしれない。学園物の漫画やドラマでよく見られる屋上でお昼を食べたり友達と戯れたりといった楽しげなシチュエーションは、残念ながらこの学校ではありえない光景だ。
 この前の国語の授業で習った「李下に冠を正さず」じゃないけど、いつまでもこんなところに突っ立っていたら、屋上に行こうと目論んでいるなどと妙な誤解をされかねない。一刻も早くこの場から立ち去った方がいいだろう。
 そう思いながらも、わたしは階段から目を離すことができずにいた。もしかすると、さっきの扉が閉まる音はこの先から聞こえてきたのではないか――そんな気がしたから。
 この階段を登ってみたいと思った。
 あの音の正体を確かめてみたいと思った。
 一目でいいから屋上の風景を見てみたいと思った。
 沸々とわいてくるそれらの願望に、わたしは困惑せずにはいられなかった。
 いったい何を考えているの!? 鎖に取り付けられた警告を読むまでもなく、そんな先生方に怒られるような真似をしてはいけないことくらいわかっているはずなのに。
 己の思わぬ欲望に恐怖したわたしは、首をぶんぶん振ってそれを頭の中から払いのけようとした。いつものわたしだったらそれで悪しき煩悩を追い払い、正気を取り戻していたはずだ。
 だけど、そのときのわたしは〝いつも〟とは違っていたようだ。そうとでも考えないと、この先の自分の行動は説明できそうになかった。先ほど耳にしたあの音がわたしに正気を失わせたのだろうか。
 わたしは用心深く周囲を窺った。多くの生徒の姿があったものの、皆自分のことに忙しいらしく、誰一人としてわたしの存在になど注意を払ってはいなかった。
 今ならいける!
 わたしは両腕にゴミ箱を抱えると、意を決してプラスチック製の鎖の下を潜り抜けた。まだ体に馴染んでいない大きめの制服のせいで目測を誤り、軽く背中が当たってしまったけど、さいわい鎖は軽く揺れただけで周囲の注意を引くほどの音は立たなかった。
 第一関門を突破したわたしは、つま先立ちで静かに、かつ素早く階段を駆け上がっていく。内履きの薄ぺらいゴム底越しに砂のように硬い塵を踏みしめる感触が伝わってくる。踊り場まで来ると、腕をフックのようにして手すりに引っかけ、登ってきたときの勢いを殺さずにぐるりと百八十度旋回する。ここまで来ると、下からではわたしの姿を認めることはできないはずだ。残りの階段も同じようにして登っていく。
 そして三畳ほどの狭い空間に到着した。他の階のように、さらに上へと向かう階段は存在しない。ここが校舎の最上階なのだ。
 そこには灰色のペンキがのっぺりと塗られただけの、なんの飾り気もない重たげな鉄製の扉があった。
 これが屋上への扉?
 そのあまりに素っ気ない外観に少し拍子抜けしてしまったけど、開き戸であることや重たげな金属製であることなど、想定していた条件は満たしていた。どうやら先ほど聞こえた気になる音は、この扉が発したものに間違いなさそうだ。
 そう確信したところで、ふとわたしは我に返ってしまった。
 わたしはいったい何をしようとしているのだろう? 屋上に行ったところで、そこにいるのは先生に決まっている。もし見つかったら怒られてしまうのに……。
 階下の喧噪がわたしの耳に届く。ほんの数分前まで眉をひそめずにはいられなかった騒々しい生徒たちの声は、ここからだと遙か遠くに感じられた。
 漠然とした不安に襲われ、たまらず元いた場所に目をむけようとする。だけど、むこうからわたしの姿が見えないように、こちらからも階下を望むことはできなかった。視界には今しがた登ってきたばかりの灰色の階段と、薄暗い踊り場があるだけだ。やり場をなくした視線は、仕方なしに屋上への扉へ引き戻される。
 この扉を開けて向こう側へと足を踏み入れたが最後、二度とこれまでいた世界に戻ることができなくなるんじゃないか?――そんな予感にわたしは身震いしてしまう。
 だけど、不思議と引き返そうという気は起こらなかった。それどころか、一刻も早く屋上を見てみたいという欲望はわたしの中でどんどん膨らんでいった。
 わたしは抱えていたゴミ箱を脇に置くと、ドアノブにそっと手を触れてみた。手のひらにひんやりとした感触が走る。ためしにひねってみると、ドアノブは何の抵抗もなく回った。錠が開いている。それはまるで、扉の向こう側の世界がわたしに来訪を促してくれているかのように感じられた。
 階下の、本来わたしがいるべき世界は相変わらず賑やかだ。だけど、先ほどまでのような恐怖や寂寥はもはや感じられない。気持ちはただ扉の向こう側へと向かっていた。
 大丈夫。さあ、行こう!
 はやる気持ちを抑えるようにひとつ小さく息をつくと、わたしは静かに扉を押していった。
 両腕にずっしりとした重みを感じる。
 ゆっくりと扉は開かれていき、向こう側の世界がわたしの眼前にその姿を現した。