まだ半分も回していないのに、ドアノブはがちゃりと硬い音をたてて止まってしまった。いくら力を込めても、これ以上はぴくりともしない。錠がかかっているのだ。
 わたしはつれない灰色の扉を恨めしく見つめながら、小さくため息を漏らした。
 ……どうしちゃったんですか松永先輩。空はこんなにも気持ちよく晴れ渡っているというのに。

 三年生の教室は東校舎の一階に位置している。真っ先に陽が陰る場所のせいか、まだ四時をすぎたばかりだというのに廊下はすでに薄暗くなっていた。しかし刻一刻と濃くなる闇とは裏腹に、昼休みであるかのような賑わいを見せている。
 放課後、わたしたちの学校では三年生のために補習が行われている。それは表向きは希望者のみということになっているものの、全生徒志望校合格という旗印のもと、部活動や塾など学校側が認める正当な理由でもないかぎりは事実上参加が義務づけられているようだ。来週から期末試験が始まるため部活動が全面禁止になっていることもあり、今日はほぼすべての三年生が出席するのではないだろうか。
 補習が始まるまでまだ時間に余裕があるらしく、三年生たちは教室や廊下で思い思いに苦行前のわずかな安息の時をすごしている。その様子をわたしは廊下の外れから眺めていた。
 どうして松永先輩は屋上に来ないのか――そのことが気になっていた。
 これまでも松永先輩が来ておらず、屋上に入れなかったことがなかったわけじゃない。だけど、今回はこれで五日連続だ。こうも不在が続いたことはなかった。それに、来ないときは天気が悪いといった明確な理由があったのだけど、梅雨が明けてからというものずっと晴天続きなのでそれは当てはまらない。何か別の事情があるのだ。
 一番妥当な理由は補習に参加しているというものだろう。先輩も受験生なのだから、そろそろ進路のことが気になり始めてもおかしくないだろうし。でもそれなら、わたしに一言くらいあってもよさそうなものだけど。
 理由がなんであれ、直接先輩に聞けばはっきりするはず。――そう思ったからこそ、わたしは松永先輩に会うため、こうして三年生の教室までやって来たのだった。
 一階の教室や廊下は、三階のそれとまったく同じ作りになっている。だけど、わたしにとってそこはまったくの異界のように感じられた。床のリノリウムのひび割れや、掲示板に貼られたポスターのへたれ具合にいたるまで、わたしたち一年生の幼い世界にはない時間の重みがあるようの思われた。
 行き交っている生徒にしてもそうだ。同じ制服を着ているというのに、一年生と比べてはるかに大人びて見える。たった二年早く生まれただけでこうも違うものなのかと思わずにはいられない。二年後にはわたしも、下級生からそのように見られるのだろうか。まったく想像ができないけども。
 そんな三年生の世界を前にして異分子であるわたしはすっかり怖じ気づいてしまい、目の前に広がる光景を消火栓の赤いボックスの陰から窺うことしかできずにいた。
 尻込みしているわたしの目に、ひときわ目立つ一人の女子生徒の姿が映った。目立つといっても、松永先輩のように髪を赤く染めているといった理由ではない。男子生徒のように短い彼女の髪は、ごく普通の黒だった。その女子生徒が目立つ理由は身長だ。一緒にお喋りをしている他の女子生徒たちよりも頭ひとつ以上大きいのだ。周りにいる男子生徒にも彼女より背の高い人は見当たらない。
 わたしでは二年後どころか、一生かかってもあそこまで大きくなることはないだろうな。沢田さんならどうかわからないけど。
 わたしがその女子生徒の姿を見ながらそんなことを思っていたところ、不意に彼女がこちらを向いた。
 ……目が合ってしまった。
 彼女からすれば、わたしなど路傍の小石程度の存在にすぎず、ほんの一瞬目が合ったくらいでは気にも留めやしないだろうと思っていた。
 しかし、その予想は間違っていた。
 不意に黙り込んだ彼女を不思議に思った女子生徒が声を掛ける。彼女はその女子生徒に何事かを言う。制止するような素振りの女子生徒に彼女は軽く手を振ると、仲間の輪から離れ――こちらに向かって歩いてきた。
 その足取りは大きな体からは想像できないほど軽やかだ。前方を遮るように立っている生徒を右へ左へとステップを踏むようにすいすいかわしながら、一路わたしに迫ってくる。
 思わぬ事態にわたしは慌てふためいてしまった。
 わたし、何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか? さっき目が合ったのが睨んでいるとでも思われてしまったのだろうか? それとも、わたしが場違いな異分子だから? 文句を言われたりするのだろうか? いじめられたりするのだろうか?
 わたしは一刻も早くこの場から――彼女から逃げ出そうとした。だけど足が竦んでしまい、どうしても動くことができずにいた。
 ついに目の前までやって来た彼女は、わたしに向かって言った。
「あなた、一年生よね? 三年生の教室に何かご用?」
 その声は見た目の凛々しさによく似合うハスキーボイスだった。でもそこには「どうして一年のくせにこんなところにいるんだ!」というような威圧的なところは微塵もなく、むしろ優しげだった。しかも、わたしの背に合わせるように軽く屈み込んで話してくれている。それだけで彼女がいい人なのだということがわかった。
 わたしは身を固くしたまま口が利けなかった。彼女のことが怖かったからじゃない。彼女を見た目で判断し、勝手な憶測で恐怖したことがこの上なく恥ずかしかったのだ。松永先輩と初めて会ったときも同じ失敗をしたというのに、我ながら学習能力のないやつだと思わざるを得ない。
 彼女のもとに一緒にお喋りをしていた女子生徒たちが集まってきた。
「つばさ、どうしたのよ。突然、用があるから外れるだなんて言うからさ」「ちょっとこの子のことが気になったものでね」「わぁ、この子かわいいー」「ねえあなた、アメちゃん食べる?」「こらそこ、餌付けしない!」「で、この子はいったい誰なわけ? あんたの妹?」「違う違う。うちの妹はこんなにかわいくないわよ」「そうよねぇ。つばさの妹じゃね」「……ちょっと、なによその言い草は」「ごめんごめん。悪気はないのよ」「どうだかね……。この子が誰かはわたしも知らないのよ。ただ、さっきからここでおろおろしていたから、心配になって声をかけてみたんだけど」「あー、なるほどね。あいかわらず世話焼きおばさんっぷりを発揮しているってわけか」
 女子生徒たちから快活な笑い声がこぼれる。
 彼女――〝つばささん〟というらしい――は、「おばさんは余計よ、おばさんは」とふてくされたように口を尖らせる。その様子がわたしの知っている誰かに似ているような気がした。
 いったい誰だったろう?――と考えていると、つばささんが大きなため息をついた。
「だけど、この子何も答えてくれないのよね。やっぱり三年相手だと話しづらいのかな?」「それもあるだろうけど、一番の原因はやっぱり相手がつばさだからじゃないの」「どういう意味よ、それ」「だってさ、突然あんたがそんなでかい図体引っ提げて現れたら、どんな相手だってびびって固まっちゃうって」「あはは、それは言えてるわ」
「何よ、失礼な!」「違います!」
 むっとしたつばささんの声と、思わずわたしが発した声とが重なった。
 これには女子生徒だけでなく、つばささんも驚いたようだ。これまで黙り込んでいた人間が、突然声を張り上げたのだから当然だろう。
 彼女たちの目が一斉にわたしへと注がれる。その視線に気後れし、たまらず逃げ出したくなる。でも、彼女たちのつばささんに対する誤解を解かないと。――そう思ったからこそ、わたしはなけなしの勇気を振り絞って言った。
「……違います。わたしが黙っていたのは、決してこの先輩のことが怖かったとか、そういう理由じゃありません。だから、その……先輩をからかうようなことを言うのはやめてください」
 しばし呆然としていたつばささんだったけど、にんまり笑ったかと思うと、わたしの体をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう! わたしの味方はあなただけだよ!」
 一方、女子生徒たちには冷たい視線を向け、
「あんたらなんか、もう友達じゃないからね!」
 しっしと手を振って追い払うような仕草までしているつばささんに、女子生徒たちは「あんたそれ、傍から見ると襲っているようにしか見えないよ」と言って笑っていた。
 いきなり抱きしめられたときは思わず「ひゃっ!?」と情けない悲鳴を上げてしまったし、今もちょっと苦しいのだけど、わたし自身は決して嫌ではなかった。むしろ、失礼なことを思っていた自分を許してもらえたようで、嬉しくさえあった。
 さっきまで感じていた三年生の教室や、そこにいる生徒に対する恐怖心は、いつの間にか薄らいでいた。
「ねえあなた、もしかして三年生の誰かに用があって来たんじゃないの? 兄姉とか部活の先輩とかさ」
 やっとわたしを解放してくれたつばささんは、さっきのように身を屈めて尋ねた。
「はい。兄姉や部活の先輩ではありませんけど、だいたいそんなところです」
「そっか」つばささんはうなずいた。「じゃあ、わたしが呼んできてあげようか?」
「え? でも……」
「遠慮することないって。どうせ暇なんだしさ」
 そう言って、つばささんは優しく微笑んだ。
「暇ってあんた、もうすぐ補習始まるよ。ただでさえあんたは普段は部活で参加していないんだから、試験前くらいは真面目に勉強しておかないと」「いいのいいの。わたし、高校はスポーツ推薦で行くつもりだからさ」「あんたがそう望むのは勝手だけどさ、推薦って大会でそうとういい成績残さないだめなんじゃないの?」「それなら大丈夫。今年は有望な新人が入ったからさ。全国制覇だって夢じゃないよ。まあ、生意気なのが玉に瑕だけどね」
 そんな会話をしているつばささんたちを横目に、わたしは先の提案にどう答えるべきた考えていた。
 会ったばかりの人にそこまで世話になってよいものだろうかとは思った。だけど、彼女の提案はわたしにとって渡りに船だ。考えみれば、わたしは松永先輩がどこのクラスなのかも知らないし、たとえわかったとしても、この三年生が大勢たむろしている中を通って会いに行くのは気後れしてしまう。だから、呼んできてもらえるというのであれば、それはとてもありがたかった。
 それに、この人なら信用できそうだし。――断る理由はなさそうだ。
「せっかくですから、甘えさせていただきます」
 とわたしが言うと、つばささんは「よし、お姉さんに任せなさい!」と威勢よく自分の胸を叩いた。
「さあ、誰を呼んできてほしいのかな? 告白をしたいと思っている憧れの先輩でも何でも連れてきてあげるよ」
 力ずくでもね――と言わんばかりのつばささんに苦笑いしつつ、わたしは呼んでほしい人の名を告げた。

「松永先輩を呼んできてください」

 瞬間、場の空気が凍り付いた。
 箸が転んでもおかしいかのように絶えず笑っていた女子生徒の表情から一斉に笑みが消えた。つばささんも例外ではなく、優しげな顔が陰ってしまった。
 その突然の変化に、わたしは戸惑いを隠せなかった。
 いったいどうしたっていうのだろう? 何かまずいことでも言っただろうか。でも、わたしが口にしたのは松永先輩の名前だけだ。……それがいけなかったとでもいうの?
「あなたの言っている松永先輩って、もしかして松永京子のこと?」
 つばささんは訊いた。それは尋ねるというより確認するという感じだった。
「ええ、そうですけど……」
 当惑を隠せずにわたしが答えると、女子生徒たちはそれ以上に当惑した様子で互いの顔を見合わせていた。
「……そうだよね。三年で松永と言えば彼女しかいないから」つばささんはため息混じりに独り言を呟くと、深刻そうな顔でわたしに尋ねる。「ねえ、あなたは松永さんがどういう人間かわかっているの?」
「……不良だとでも言いたいんですか?」
「そうは言わないけど……」つばささんは口ごもる。「でもまあ、世間一般の感覚からすれば、特殊な人間であることは確かかもしれないね」
 そして、自分もその世間一般の感覚の側に属する人間なのだ――そうつばささんは言いたいのだろうか。
「あの……松永先輩を呼んできてはもらえないのでしょうか?」
 さっきまでの友好的な気分はもはや薄れてしまっていたけど、それでもわたしは催促してみる。
「うーん、そうしてあげたいのはやまやまなんだけどさ……」
 つばささんは言葉を濁す。さっきは人を呼んでくることを快く承諾したものの、それはあくまで普通の生徒の場合に限った話であって、松永京子のような不良は例外だとでもいうのだろうか。
「呼んでこようにも、松永さんは停学になったからねぇ」
 女子生徒のひとりが口を挟んだ。
 停学――学校側が処罰として学生の登校を一定期間停止すること。
 小学校時代にはそんな処罰があることすら知らず、中学生になってからも自分には縁遠いものとしか認識していなかった。その罰を先輩が受けたという話にわたしは衝撃を受けた。
「どういうことですか、それ!? 松永先輩が停学だなんて!」
 考えるよりも先にわたしはその女子生徒に詰め寄っていた。彼女はわたしの勢いに圧されておたおたするばかりだ。代わって別の女子生徒たちがわたしの質問に答えてくれた。
「わたしたちも先生たちから説明を受けたわけじゃないし、どうせ聞いたところで『他人の心配をするより、まず自分のことをちゃんとしろ』とか説教されるだけだろうから、はっきりしたことはわからないんだけど……学年内でそういう噂が立っているのよ」「松永さんが停学になったってね」「その噂によれば、校長室に呼び出されて『もう学校に来なくてよろしい』って宣告されたんだってさ」「そんなの、ただの噂にすぎないじゃないかって? たしかにそうだね。だけど、彼女にはそういう噂が立っても仕方がない土壌というものがあるわけだし」「あの赤く染めた髪ね」「あんな髪をしていたら停学になっても何の不思議もないでしょ」「少なくとも、松永さんが先週の月曜日以降学校に来ていないのはまぎれもない事実だよ」
 先週の月曜日――松永先輩が服装頭髪検査を受けておらず、放課後に屋上で自分の証を持って生きようと決意したわたしにそれで後悔しないかと弱気な言葉を投げかけ、気に掛けてくれる人がいるのは幸せなことだと語り、そして必死になって雲を捕まえようとしていた――わたしたちが最後に会った日。
 女子生徒たちの話が本当だとすれば、松永先輩はあの日以来学校には来ていないことになる。それならいくら屋上に行ってもいなかったのも納得できる。できるけども……。
 言葉を失っているわたしをほっぽり出して、女子生徒たちは松永先輩の話題で盛り上がっていた。
「でもさ、中学校に停学なんてあるの? 義務教育なのにさ」「知らないよ、そんなこと。わたしは停学になったことなんてないし、なる予定もないもの」「でも、賢明な処置ではあるよね。ああいう輩を更生させるのは一筋縄ではいかないだろうからさ。それなら最初から排除してしまったほうが簡単だし、他の生徒に悪影響を与えるのを未然に防ぐこともできるしね」「いわゆる〝腐ったミカンの方程式〟ってやつ?」「うわっ、古いなそれ」「でも仕方ないよね。その責任は松永さん自身にあるんだからさ」「そうだよね。あんな髪をしている松永京子が悪いのよ」「しかし、松永のやつもいったい何を考えてるんだか。あんな目立つ真似したら、遅かれ早かれこうなることはわかりきっていただろうにさ」「しょせん不良なんてそんなもんでしょ。何にでも反抗してみせることで、自分がいかにただ者ではないかを周りに誇示してみせたいのよ」「ああいう連中って、わたしたちみたいに真面目にやっている人を『意気地がない』とか『飼い慣らされている』とか言ってせせら笑っているのよね。実際は、自分たちのほうが現実から逃げているだけのくせしてさ」
 日頃溜まっていた鬱憤を晴らそうとするかのように女子生徒たちの口は止まらない。
「ここだけの話、わたし、あの人のことは髪を染める以前からあまり好きではなかったのよね。親切で礼儀正しいけど、どこか白々しい感じがしてさ」「あんたも? 実はわたしも同じこと思ってたんだ。なんていうか、優等生っぷりが鼻につくっていうかさ」「そんな人間が、ある日突然髪を赤くして学校にやって来たものだから、周囲の人間は度肝を抜かされたんだけどね」「そうそう。優等生がおかしくなったって言うんで騒ぎになったんだよね。先生たちなんかあわてて職員会議なんか開いちゃってさ」「実際、あれには誰でもびびるって。みごとなまでに真っ赤なんだもん。髪を染めるにしたって、もう少しましな色があるでしょうに」「教師なんて適当にあしらっておけばいいのに、わざわざ挑発するような真似しちゃってさ。はっきり言って馬鹿だとしか言いようがないね」「だよねー」
 女子生徒たちはどっと笑う。さっきは朗らかに思えた彼女たちの笑い声が、今ではとても醜悪なものに感じられた。
 わたしの中で沸々と怒りが煮えたぎっていた。彼女たちを黙らせたかった。飛びかかってそのやかましい口を塞いでやりたかった。相手が複数だろうが、上級生だろうが関係ない。わたしひとりでも松永先輩の名誉のために戦いたかった。
 だけど現実のわたしは、ただ黙って女子生徒たちの話を聞いていることしかできなかった。胸に渦巻いている怒りを爆発させるどころか、不快さを顔に出すことすらできずにいる。
 何しているの? いつまでも勝手なことを言わせておいていいの? 「松永先輩を侮辱するな!」と一喝してやらなくていいの?
 そう思いながらも、体は竦んでしまい、どうしても動いてくれない。そんな自分が不甲斐なくて涙が出そうになる。
 助けて、松永先輩……。
「あんたたち、いい加減にしなよ!」
 つばささんの叱責に、女子生徒たちの口がぴたりと止まった。
「本人がいないところでそうやって陰口叩いて楽しい? だとしたら、相当根性が腐ってるんじゃないの。あんたたち、さっきわたしのことを世話焼きおばさんだなんて言ってたけど、わたしから見れば、あんたたちのほうがよっぽどおばさんよ。人のゴシップや噂話を何よりの生き甲斐にしているようなね。恥ずかしいったらありゃしない。松永さんのことはあくまで噂で本当のところはわかっていないんだから、憶測だけで勝手なこと言うもんじゃないよ」
 さっき、自分がからかわれた時とは違い、つばささんは本気で怒っていた。女子生徒たちは気まずそうにうなだれる。
 わたしの気持ちを代弁するかのように女子生徒たちを嗜めてくれたつばさんの姿に、ここにもわたしたちの味方をしてくれる人がいるのだと思い、嬉しくなってしまった。
 ……だけど、そんな浮かれ気分は次の女子生徒の一言によってあっさり吹き飛んでしまった。
「何よ、ひとりでいい人ぶっちゃってさ。あんたは誰よりも松永京子のことを嫌っていたじゃないの」
 その言葉には明らかに毒の棘があった。
「ちょっと、何を言っているのよ。わたしは別に松永さんのことを嫌ってなんかいないわよ」「そうだっけ? あなた、いつだったか松永と激しくやりあっていたじゃないの」「たしかにそんなこともあったけど……。でもあれは、別に松永さんのことが嫌いだからって話ではなかったでしょ」「あ、そう。でも、あんたは松永京子のことを嫌ってはいなくても恐れてはいたんじゃないの?」「……どういう意味よ、それ」「松永って今でこそあんなだけど、以前は誰からも好かれるようなやつだったからね。あんたはその人望を恐れていたのよ。自分がこつこつとお節介焼きまでして築いたものをみんな持っていかれるんじゃないかってね。だから、松永がおかしくなって髪を真っ赤に染めたことでみんなの気持ちが離れていったことにあんたは歓喜したんじゃない?」「……あんた、いい加減にしないとぶつよ」「おお、怖い怖い。都合が悪くなると力に訴えるのが図体でかいやつの困ったところよね」「言っておくけど、わたしは部活の後輩にだって手を出したことはないからね」「たとえ力に訴えなくても、あんたのでかい図体そのものが十分威圧的なのよ」「なによ、その理不尽な言いがかりは」「この際だから言わせてもらうけど、わたしにはあんたのそのお節介な性格が鼻について仕方がなかったのよね。本人は自己満足できてさぞかし気持ちがよろしいでしょうけど、こっちからすれば鬱陶しいことこの上ないのよ!」「こいつ!」
 言い合っていた女子生徒に飛びかかろうとするつばささんを他の女子生徒たちが必死になって抑えようとしている。周囲にいた生徒も止めに入ったり、逆にはやし立てたりしていた。
 そんな修羅場をわたしはただ呆然と眺めていた。
 どうして、こんなことになってしまったの? さっきまでは、下級生のわたしに気を掛けてくれるような和やかな雰囲気だったのに……。わたしが悪いの? わたしが松永先輩の名前を出したばっかりに、こんな殺伐とした事態にしてしまったとでもいうの?
 ……嫌だ。こんなの、嫌だ。
「やめてください!」
 たまらずわたしは叫んだ。その声は半分裏返っていたし、迫力という点ではつばささんの足下にも及ばなかったけど、それでも彼女たちは我に返ったように争いをやめた。
 気まずい空気が流れる中、つばささんがすまなそうにわたしに言った。
「ごめんね。突然、言い争いなんか始めちゃったりして。たしかに嫌だよね、こんなの」
 つばささんの後ろで、さっきまで言い争いをしていた女子生徒が「またそうやっていい人ぶっちゃってさ」とぼやいていたけど、他の女子生徒に引きずられるようにわたしたちの前から去っていった。
「あの……いいんですか?」
 彼女たちの後ろ姿を見送りながらわたしはつばささんに尋ねた。このまま友情にひびが入ったままにしておくのはよろしくないように思うのだけど。
「いいのいいの。あいつとはいつもこんな調子だからさ。言いたいこと言い合う分、後腐れなくてすっきりしたものよ」
 そう言ってつばささんは笑ったものの、その笑顔はどこか無理しているように感じられた。
「それより、本当にごめんね。不愉快な思いをさせちゃってさ」
「そんな……むしろわたしの方が謝らないと。こんなことになったのはわたしのせいなんでしょうし」
「そんなことない。あなたは全然悪くないよ。もちろん松永さんもね」
 つばささんが本心からそう言ってくれているのだろうけど、先ほどの女子生徒の発言を聞いた後では彼女の言葉を素直に受け取ることはできそうになかった。
「さっきの松永さんの停学の話だけど、あれはあくまで噂にすぎないんだから、真に受けたりしないでね」
「でも、松永先輩が登校していないのは事実なんですよね?」
「それはそうなんだけどね……。でも安心して。どうせ風邪か何かで休んでいるだけだろうしさ」
 つばささんはいい人には違いないのだろうけど、嘘は致命的に下手なようだ。表情から、自分でもそんなことを信じていないのはバレバレだった。
「そんなわけで、残念ながら松永さんを呼んできてあげることはできないけど――」そこまで言ったところで、つばささんはいいことを思いついたというようにぽんっと手を叩いた。「そうだ! これから一緒に松永さんの家に行ってみようか?」
「え?」
 その思いがけない提案にわたしは当惑した。
「それならあなたも松永さんに会えるし、彼女の口から噂の真相も聞くことができて一石二鳥だよ」
「でも……」
「わたしに迷惑を掛けると思っているのなら、そんな心配は無用だよ。正直、真面目に補習に出るのはかったるいと思っていたところだし、それになにより、わたしも松永さんのことが気になるからさ」
「…………」
「どうする? 行ってみる?」
 つばささんは身をかがめ、わたしの顔を覗き込むようにして返答を待つ。その体勢は背の高い彼女には少し辛そうで、解放してあげるためにも早く返答しなくてはいけないと思うのだけど、どうしても口から言葉が出てこなかった。本当なら「行きたい!」と即答すべきなのに、なぜか心の一部がそれを拒否しているのだ。
 そのとき、学校のチャイムが鳴った。廊下に出ていた生徒がぞろぞろと教室に入っていく。どうやら補習が始まるようだ。
 それがきっかけになったのか、束縛が解けたかのようにわたしの体が自由になった。解放された体でわたしが真っ先にとった行動はつばささんの提案に返答することではなく――
「さ、さようなら!」
 つばささんがチャイムを気を取られている隙に、わたしは背を向け、生徒玄関に向かって走り出した。
「ちょっ、ちょっと待って!?」
 後方からつばささんの呼び止める声がしたけど、わたしは聞こえないふりを決め込んだ。