その日の放課後、わたしはいつものように屋上で空を眺めていた。
今日の空の青色はこれまで見てきた以上に濃く、深く感じられた。もくもくと元気よく立ち昇っている雲も眩しいくらいに白い。――中学生になって初めての夏がやってきたのだ。
日差しが強いため、レジャーシートを敷く場所は屋上の中央から貯水タンクの陰へと移っていた。そこは意外とひんやりとしていて居心地がよかった。夏場は暑すぎて屋上に行けないのではないかと危惧していたけど、これならよほどひどい猛暑でもないかぎりは大丈夫そうだ。
問題は冬だ。屋上は見るからに冷たい空っ風が吹きつけてきそうだから、たくさん着込んでこなきゃなぁ……。
なんて気の早い心配をしていたところ、
「ねえ、由佳」
不意に名前を呼ばれた。
「はい?」
わたしが横を振くと、そこには寝転がってこちらを見ている松永先輩の顔があった。その表情は何だか心配げだった。
「あなた、今日の服装頭髪検査の時間に渡り廊下で誰かとやり合っていなかった?」
先輩が言っているのは、わたしと沢田さんが渡り廊下で言い争いをした件だろう。
「……もしかして、見ていたんですか?」
だったら、止めに入るなり加勢するなりしてくれてもよかったのに……とわたしが思っていると、松永先輩は首を振り、
「ううん、私は見てはいないよ。そもそも、わたしは今日の検査は受けてないしね」
「え……?」
そういえば、検査が終わった後で松永先輩の姿を探しても見つけることができなかった。最初からいなかったのならそれも当然か。でも、どうしたんだろう。遅刻でもしたんだろうか。
先輩はそんなことはどうでもいいとばかりに先を続ける。
「人づてに聞いたのよ。『松永さんをめぐって二人の女子生徒がやり合っている。一人は大柄で何年かはわからないけど、もう一人は明らかに一年だった』ってね。私と関わりのある一年といえば由佳しかいないから、まさかとは思ったのだけど……」
「はい、その一人はわたしに間違いありません」
「そう……」
松永先輩はわたしの身体を上から下まで舐めるように眺めていく。その執拗な眼差しに、わたしは思わず身を固くしてしまった。やがて先輩は安心したようにほっと息をつく。
「どうやら大丈夫みたいね」
「大丈夫って……何がです?」
「聞いた話がどこまで本当なのかよくわからなかったのよ。なんせ、話によっては殴り合っていただの、一方がナイフを取り出しただのってことになっていたからさ」
……人の口を伝わっていくうちに、わたしと沢田さんの言い争いはえらく物騒なものへと変貌していったようだ。
「先輩、わたしたちはただちょっと言い争いをしただけであって、殴り合いとかナイフだとか、そういったことは一切ありませんでしたからね!」
変なイメージを持たれたら大変と、わたしはあわてて弁解する。
「そのようね。由佳に何事もなくてほっとしたよ」松永先輩は目を細めて微笑んだ。しかしその笑みはすぐに消え、再び不安げな顔に戻ってしまう。「でも、いったいどうしたの? 言い争いだなんて由佳らしくもない」
わたしは躊躇した。正直なところ、今朝の沢田さんとのやり取りについてはあまり話したくなかった。松永先輩のことを悪く言われたせいもあるけど、下界のつまらない諍い事の話をするのはこの神聖な場所を冒涜する行為のように思えたから。
とはいえ、このまま黙っているわけにもいかない。わたしは仕方なく、渡り廊下での一件を手短に伝えた。
わたしの話を聞き終えた松永先輩はしばらく黙り込んだままだった。やはり、自分のことを悪く言っていた沢田さんに憤っているのだろうか。
わたしにも松永先輩を誹謗するような発言をした沢田さんを許せないという気持ちはある。だからこそ、渡り廊下で言い争いをする事態にまでなったわけだし。
でも時間をおいて冷静になったせいか、今では沢田さんの発言はわたしのことを心配するあまりのものであり、決して悪気があったわけではないのだろうと少しは寛容な気持ちで受け止められるようになっていた。だからといって、松永先輩にも沢田さんのことを悪く思わないでほしいと求めるのはあまりに偽善的すぎるだろうけど。
やがて松永先輩が口を開いた。それは沢田さんへの非難ではなく、
「由佳はそれでいいの?」
「えっ、何がです?」
先輩が何を言いたいのかわからず、わたしは聞き返す。
「そんな生き方を選んで、あなたは本当に後悔しない?」
重い口調の松永先輩に、わたしは笑って答えた。
「先輩、何を心配しているんです。沢田さんに何か言われたくらいでわたしの気が変わるとでも思っているんですか。大丈夫ですよ。わたしは決めたんです。自分の証をしっかり持って生きていこうって。誰に何と言われようとも、その信念が揺らぐことは絶対にありませんよ」
わたしにそう決意させてくれたのは、誰あろう松永先輩なんですよ。――感謝の気持ちを込めてそう伝えた。
「そう……」
わたしの言葉に松永先輩は頷いた。でも、その表情はどこか哀しげで、それがわたしを不安にさせた。
……先輩、いったいどうしちゃったんです? もしかして、わたしを自分と同じ道に誘い込んでしまったと気に病んでいるんですか。
そんな顔はしないでほしかった。いつものように、こちらを包み込むような笑顔でわたしを安心させてほしかった。
その願いが通じたのか、やがて先輩はクスッと微笑んだ。
「由佳、あなたとやり合った子、名前は何て言ったっけ?」
「沢田さんです。沢田みさきさん」
そう答えると、松永先輩はまたクスクスと笑う。
「あの……どうかしましたか?」
「いやね、わたしの知り合いにもお節介な子がいてさ。まさかとは思ったんだけど、やっぱりね」
そこまで言うと松永先輩はこれまで以上に楽しげに笑った。わたしには何がおかしいのかわからず、ただ呆然とその様子を見ているより他なかった。
やがて笑い止んだ先輩は優しくわたしに言った。
「由佳はいい友達を持ったね」
「…………」
その先輩の言葉にわたしは抵抗を覚えずにはいられなかった。
「……違います」
「え?」
「わたしと沢田さんは友達なんかじゃありません」
わたしにとって沢田さんは単なるクラスメイトのひとりだ。掃除当番と遠足の班が一緒で、名簿が四つ後で、運動会の学級対抗リレーでバトンを渡しただけの――ただそれだけの関係にすぎないのだ。
「それなのに、沢田さんってばわたしにお節介ばかり焼いてくるんです。事ある度に話しかけてきたり、クラスで班を決める時に無理矢理引っ張り込んだり……。はっきり言って迷惑なんですよね。うるさいし、鬱陶しいし、とにかく余計なお世話なんです。友達でもないくせして」
沢田さんを非難する言葉を吐きながら、何をそんなにムキになっているのか、自分でもよくわからなくなっていた。
「ねえ由佳」松永先輩は穏やかに言った。「あなたがその子のことをどのように思っているのかは私にはわからないけど、友達にしろ、親にしろ、教師にしろ、自分を気にかけてくれる相手がいるのは、とても幸せなことなんだと思うよ」
「…………」
「今の由佳はそういう関係に臆病になっているのかもしれないけどね」
松永先輩はそう言うと、これでこの話はお終いとばかりに視線を空へと向けた。
そんな先輩の横顔をぼんやりと眺めながら、わたしは言われた言葉を心の中で反芻する。
――由佳は臆病になっているだけ。
たしかにそうなのかもしれない。純子ちゃんに絶交されて以来、わたしは人と深く関わることを恐れるようになってしまった。新たに友達を作れなかったこともそうだし、これまでのように大人の言うことを無条件に信用できなくなったのもきっともそのせいだろう。
中学校に入ったからもその傾向は変わらず、わたしはクラスの中で孤立していた。クラスメイトにとってわたしはいるのかどうかもわからない、どうでもいい存在であったに違いない。
そんな中にあって、唯一沢田さんだけはわたしを気にかけてくれた。わたしは沢田さんのことを疎ましく思いながらも、その厚意は感じていたのだ。
そして今日、わたしが自分を証を守って生きていくということを理解できないながらも認めてくれたとき、本当に嬉しく思ったのだ。
松永先輩が言うように気にかけてくれる人がいるのはとても幸せなことなのかもしれない。
……でも、そんなのはしょせん、同情でしかないのだろう。
沢田さんはクラスメイトだからとか、同じ掃除の班だからとか、副委員長だからとか、そういった義務感でわたしを心配しているにすぎないのだろう。それ以外にわたしなんかと関わろうとする理由などありはしないのだから。
それに、沢田さんには矢島さんがいる。可愛くて女の子らしい矢島さんと、かっこよくて運動神経抜群な沢田さんは天下無敵のコンビだ。そんな二人の間にわたしが入り込む余地などありはしない。そんな二人と友達になりたいだなんて思うのは高望みもいいところだろう。
臆病と言われようともかまいはしない。拒絶されて傷つくくらいなら、最初から孤独のままでいるほうがずっとましだから……。
わたしは鬱々とした思考を打ち切るように、ごろんと仰向けに寝転がった。目の前にはあいかわらず青い空が広がっている。
わたしは大きく息を吐いた。それはわたしのもやもやした気分と共に青い空へと吸い込まれていく。それだけでいくらか気分が楽になるような気がした。
いいんだ、友達なんかいなくたって。わたしはこの空と松永先輩さえいてくれれば、他には何もいらないのだから。
このままいつものように何もせずぼんやりと空を眺めた後、見つからないよう階下に戻り、そこで解散ということになるはずだった。
だけど、今日は〝いつも〟とは違っていた。
仰向けに寝転がっていた松永先輩はすっと上空に左腕をのばした。最初、腕時計を見ようとしているのかと思ったけど、そうではなかった。
先輩は大きく指を広げると、真っ青な空に手のひらをかざし、そしてぎゅっと手を握りしめた。再びぱっと広げ、ぎゅっと握る。そんな動作を幾度となく繰り返している。
「先輩……何をしているんです?」
その奇妙な行動をしばらく眺めていたわたしは、気になって尋ねてみた。
先輩は上空を見つめ、例の動作を続けながら答える。
「ちょっとね、雲を捕まえようと思ってさ」
「雲を捕まえる……ですか?」
「そうだよ。こんなにも雲が近くに見えるから、こうやって手を伸ばしたら捕まえられるような気がするんだ」
「はあ……」
てっきりからかわれているのかと思ったけど、先輩の顔は真剣そのものだ。
わたしは再び空へと視線を向けた。たしかに雲はびっくりするほど低いところを漂っているように見える。なるほど、これなら手で触れられそうな気がした。
わたしはまっすぐに腕を伸ばし、指を大きく広げた。ふわふわの入道雲が手のひらの中に隠れる。
今だと思い、ぎゅっと手を握りしめる。
捕まえた!
しかし、雲は何ら変わることなくその場に浮かび続けていた。
当然だ。いくら近くに見えたとしても、実際には雲は学校の屋上なんかより遙かに高いところを漂っているのだから。
わたしはその雲を捕まえる行動を繰り返した。たとえ無駄とわかっていても、松永先輩と同じことをしているというだけで楽しい気分になれた。
でも、しばらくするとやめてしまった。単純に疲れてしまったのだ。腕をまっすぐ伸ばしたまま手を広げたり握ったりを繰り返すのは思いのほか重労働だった。
「こんなことを続けていたら腕が太くなっちゃいますね」
わたしは笑いながら松永先輩を見た。きっと先輩も同じことを考えていて、笑顔でうなずいてくれるに違いないと思いながら。
しかし、先輩はいまだ執拗に雲を捕まえようとし続けていた。
「どうして届かないんだろう……」先輩はぼそりと呟いた。それはわたしに聞かせるためのものではなく、まったくの独り言だった。「こんなにも近くに見えるのに、どうして捕まえることができないんだろう……。もっと空に近い場所にいかないとだめってことなの?」
先輩は何度も雲を捕まえようと試みるものの、もちろん成功することはなかった。それでも決して諦めようとはしない。
「先輩……」
わたしは松永先輩を止めようとした。このままでは先輩が上空の雲のように手の届かないところに行ってしまうんじゃないか――そんな気がしてならなかったから。
だけど、鬼気迫るという表現がぴったり当てはまりそうな先輩の姿にわたしは怖じ気づいてしまい、結局黙って見ていることしかできなかった。
今日の空の青色はこれまで見てきた以上に濃く、深く感じられた。もくもくと元気よく立ち昇っている雲も眩しいくらいに白い。――中学生になって初めての夏がやってきたのだ。
日差しが強いため、レジャーシートを敷く場所は屋上の中央から貯水タンクの陰へと移っていた。そこは意外とひんやりとしていて居心地がよかった。夏場は暑すぎて屋上に行けないのではないかと危惧していたけど、これならよほどひどい猛暑でもないかぎりは大丈夫そうだ。
問題は冬だ。屋上は見るからに冷たい空っ風が吹きつけてきそうだから、たくさん着込んでこなきゃなぁ……。
なんて気の早い心配をしていたところ、
「ねえ、由佳」
不意に名前を呼ばれた。
「はい?」
わたしが横を振くと、そこには寝転がってこちらを見ている松永先輩の顔があった。その表情は何だか心配げだった。
「あなた、今日の服装頭髪検査の時間に渡り廊下で誰かとやり合っていなかった?」
先輩が言っているのは、わたしと沢田さんが渡り廊下で言い争いをした件だろう。
「……もしかして、見ていたんですか?」
だったら、止めに入るなり加勢するなりしてくれてもよかったのに……とわたしが思っていると、松永先輩は首を振り、
「ううん、私は見てはいないよ。そもそも、わたしは今日の検査は受けてないしね」
「え……?」
そういえば、検査が終わった後で松永先輩の姿を探しても見つけることができなかった。最初からいなかったのならそれも当然か。でも、どうしたんだろう。遅刻でもしたんだろうか。
先輩はそんなことはどうでもいいとばかりに先を続ける。
「人づてに聞いたのよ。『松永さんをめぐって二人の女子生徒がやり合っている。一人は大柄で何年かはわからないけど、もう一人は明らかに一年だった』ってね。私と関わりのある一年といえば由佳しかいないから、まさかとは思ったのだけど……」
「はい、その一人はわたしに間違いありません」
「そう……」
松永先輩はわたしの身体を上から下まで舐めるように眺めていく。その執拗な眼差しに、わたしは思わず身を固くしてしまった。やがて先輩は安心したようにほっと息をつく。
「どうやら大丈夫みたいね」
「大丈夫って……何がです?」
「聞いた話がどこまで本当なのかよくわからなかったのよ。なんせ、話によっては殴り合っていただの、一方がナイフを取り出しただのってことになっていたからさ」
……人の口を伝わっていくうちに、わたしと沢田さんの言い争いはえらく物騒なものへと変貌していったようだ。
「先輩、わたしたちはただちょっと言い争いをしただけであって、殴り合いとかナイフだとか、そういったことは一切ありませんでしたからね!」
変なイメージを持たれたら大変と、わたしはあわてて弁解する。
「そのようね。由佳に何事もなくてほっとしたよ」松永先輩は目を細めて微笑んだ。しかしその笑みはすぐに消え、再び不安げな顔に戻ってしまう。「でも、いったいどうしたの? 言い争いだなんて由佳らしくもない」
わたしは躊躇した。正直なところ、今朝の沢田さんとのやり取りについてはあまり話したくなかった。松永先輩のことを悪く言われたせいもあるけど、下界のつまらない諍い事の話をするのはこの神聖な場所を冒涜する行為のように思えたから。
とはいえ、このまま黙っているわけにもいかない。わたしは仕方なく、渡り廊下での一件を手短に伝えた。
わたしの話を聞き終えた松永先輩はしばらく黙り込んだままだった。やはり、自分のことを悪く言っていた沢田さんに憤っているのだろうか。
わたしにも松永先輩を誹謗するような発言をした沢田さんを許せないという気持ちはある。だからこそ、渡り廊下で言い争いをする事態にまでなったわけだし。
でも時間をおいて冷静になったせいか、今では沢田さんの発言はわたしのことを心配するあまりのものであり、決して悪気があったわけではないのだろうと少しは寛容な気持ちで受け止められるようになっていた。だからといって、松永先輩にも沢田さんのことを悪く思わないでほしいと求めるのはあまりに偽善的すぎるだろうけど。
やがて松永先輩が口を開いた。それは沢田さんへの非難ではなく、
「由佳はそれでいいの?」
「えっ、何がです?」
先輩が何を言いたいのかわからず、わたしは聞き返す。
「そんな生き方を選んで、あなたは本当に後悔しない?」
重い口調の松永先輩に、わたしは笑って答えた。
「先輩、何を心配しているんです。沢田さんに何か言われたくらいでわたしの気が変わるとでも思っているんですか。大丈夫ですよ。わたしは決めたんです。自分の証をしっかり持って生きていこうって。誰に何と言われようとも、その信念が揺らぐことは絶対にありませんよ」
わたしにそう決意させてくれたのは、誰あろう松永先輩なんですよ。――感謝の気持ちを込めてそう伝えた。
「そう……」
わたしの言葉に松永先輩は頷いた。でも、その表情はどこか哀しげで、それがわたしを不安にさせた。
……先輩、いったいどうしちゃったんです? もしかして、わたしを自分と同じ道に誘い込んでしまったと気に病んでいるんですか。
そんな顔はしないでほしかった。いつものように、こちらを包み込むような笑顔でわたしを安心させてほしかった。
その願いが通じたのか、やがて先輩はクスッと微笑んだ。
「由佳、あなたとやり合った子、名前は何て言ったっけ?」
「沢田さんです。沢田みさきさん」
そう答えると、松永先輩はまたクスクスと笑う。
「あの……どうかしましたか?」
「いやね、わたしの知り合いにもお節介な子がいてさ。まさかとは思ったんだけど、やっぱりね」
そこまで言うと松永先輩はこれまで以上に楽しげに笑った。わたしには何がおかしいのかわからず、ただ呆然とその様子を見ているより他なかった。
やがて笑い止んだ先輩は優しくわたしに言った。
「由佳はいい友達を持ったね」
「…………」
その先輩の言葉にわたしは抵抗を覚えずにはいられなかった。
「……違います」
「え?」
「わたしと沢田さんは友達なんかじゃありません」
わたしにとって沢田さんは単なるクラスメイトのひとりだ。掃除当番と遠足の班が一緒で、名簿が四つ後で、運動会の学級対抗リレーでバトンを渡しただけの――ただそれだけの関係にすぎないのだ。
「それなのに、沢田さんってばわたしにお節介ばかり焼いてくるんです。事ある度に話しかけてきたり、クラスで班を決める時に無理矢理引っ張り込んだり……。はっきり言って迷惑なんですよね。うるさいし、鬱陶しいし、とにかく余計なお世話なんです。友達でもないくせして」
沢田さんを非難する言葉を吐きながら、何をそんなにムキになっているのか、自分でもよくわからなくなっていた。
「ねえ由佳」松永先輩は穏やかに言った。「あなたがその子のことをどのように思っているのかは私にはわからないけど、友達にしろ、親にしろ、教師にしろ、自分を気にかけてくれる相手がいるのは、とても幸せなことなんだと思うよ」
「…………」
「今の由佳はそういう関係に臆病になっているのかもしれないけどね」
松永先輩はそう言うと、これでこの話はお終いとばかりに視線を空へと向けた。
そんな先輩の横顔をぼんやりと眺めながら、わたしは言われた言葉を心の中で反芻する。
――由佳は臆病になっているだけ。
たしかにそうなのかもしれない。純子ちゃんに絶交されて以来、わたしは人と深く関わることを恐れるようになってしまった。新たに友達を作れなかったこともそうだし、これまでのように大人の言うことを無条件に信用できなくなったのもきっともそのせいだろう。
中学校に入ったからもその傾向は変わらず、わたしはクラスの中で孤立していた。クラスメイトにとってわたしはいるのかどうかもわからない、どうでもいい存在であったに違いない。
そんな中にあって、唯一沢田さんだけはわたしを気にかけてくれた。わたしは沢田さんのことを疎ましく思いながらも、その厚意は感じていたのだ。
そして今日、わたしが自分を証を守って生きていくということを理解できないながらも認めてくれたとき、本当に嬉しく思ったのだ。
松永先輩が言うように気にかけてくれる人がいるのはとても幸せなことなのかもしれない。
……でも、そんなのはしょせん、同情でしかないのだろう。
沢田さんはクラスメイトだからとか、同じ掃除の班だからとか、副委員長だからとか、そういった義務感でわたしを心配しているにすぎないのだろう。それ以外にわたしなんかと関わろうとする理由などありはしないのだから。
それに、沢田さんには矢島さんがいる。可愛くて女の子らしい矢島さんと、かっこよくて運動神経抜群な沢田さんは天下無敵のコンビだ。そんな二人の間にわたしが入り込む余地などありはしない。そんな二人と友達になりたいだなんて思うのは高望みもいいところだろう。
臆病と言われようともかまいはしない。拒絶されて傷つくくらいなら、最初から孤独のままでいるほうがずっとましだから……。
わたしは鬱々とした思考を打ち切るように、ごろんと仰向けに寝転がった。目の前にはあいかわらず青い空が広がっている。
わたしは大きく息を吐いた。それはわたしのもやもやした気分と共に青い空へと吸い込まれていく。それだけでいくらか気分が楽になるような気がした。
いいんだ、友達なんかいなくたって。わたしはこの空と松永先輩さえいてくれれば、他には何もいらないのだから。
このままいつものように何もせずぼんやりと空を眺めた後、見つからないよう階下に戻り、そこで解散ということになるはずだった。
だけど、今日は〝いつも〟とは違っていた。
仰向けに寝転がっていた松永先輩はすっと上空に左腕をのばした。最初、腕時計を見ようとしているのかと思ったけど、そうではなかった。
先輩は大きく指を広げると、真っ青な空に手のひらをかざし、そしてぎゅっと手を握りしめた。再びぱっと広げ、ぎゅっと握る。そんな動作を幾度となく繰り返している。
「先輩……何をしているんです?」
その奇妙な行動をしばらく眺めていたわたしは、気になって尋ねてみた。
先輩は上空を見つめ、例の動作を続けながら答える。
「ちょっとね、雲を捕まえようと思ってさ」
「雲を捕まえる……ですか?」
「そうだよ。こんなにも雲が近くに見えるから、こうやって手を伸ばしたら捕まえられるような気がするんだ」
「はあ……」
てっきりからかわれているのかと思ったけど、先輩の顔は真剣そのものだ。
わたしは再び空へと視線を向けた。たしかに雲はびっくりするほど低いところを漂っているように見える。なるほど、これなら手で触れられそうな気がした。
わたしはまっすぐに腕を伸ばし、指を大きく広げた。ふわふわの入道雲が手のひらの中に隠れる。
今だと思い、ぎゅっと手を握りしめる。
捕まえた!
しかし、雲は何ら変わることなくその場に浮かび続けていた。
当然だ。いくら近くに見えたとしても、実際には雲は学校の屋上なんかより遙かに高いところを漂っているのだから。
わたしはその雲を捕まえる行動を繰り返した。たとえ無駄とわかっていても、松永先輩と同じことをしているというだけで楽しい気分になれた。
でも、しばらくするとやめてしまった。単純に疲れてしまったのだ。腕をまっすぐ伸ばしたまま手を広げたり握ったりを繰り返すのは思いのほか重労働だった。
「こんなことを続けていたら腕が太くなっちゃいますね」
わたしは笑いながら松永先輩を見た。きっと先輩も同じことを考えていて、笑顔でうなずいてくれるに違いないと思いながら。
しかし、先輩はいまだ執拗に雲を捕まえようとし続けていた。
「どうして届かないんだろう……」先輩はぼそりと呟いた。それはわたしに聞かせるためのものではなく、まったくの独り言だった。「こんなにも近くに見えるのに、どうして捕まえることができないんだろう……。もっと空に近い場所にいかないとだめってことなの?」
先輩は何度も雲を捕まえようと試みるものの、もちろん成功することはなかった。それでも決して諦めようとはしない。
「先輩……」
わたしは松永先輩を止めようとした。このままでは先輩が上空の雲のように手の届かないところに行ってしまうんじゃないか――そんな気がしてならなかったから。
だけど、鬼気迫るという表現がぴったり当てはまりそうな先輩の姿にわたしは怖じ気づいてしまい、結局黙って見ていることしかできなかった。