真面目ないい子――それはわたしが昔から言われ続けてきた言葉。
父方の祖父が言った――「由佳ちゃんみたいな真面目ないい子が奥さんだったら、その家は安泰だな」
近所のおばさんが言った――「うちの子も由佳ちゃんのように真面目ないい子だったらねぇ」
幼稚園の保母さんにも言われた――「遊び道具の後片付けなんかも嫌な顔せずにやってくれる由香ちゃんのような真面目ないい子がいてくれて助かるわ」
真面目ないい子と言われることは決して嫌ではなかった。だってそれは、まぎれもなく誉め言葉であるのだから。
それにわたしは、真面目であること以外、何の取り柄もない人間なのだし……。
授業中しっかりノートをとるくせに、この間の中間テストは二五二人中一二五番という可も不可もない成績だった。運動はからっきしだめで、いまだに逆上がりができない。根暗で人当たりがよくないし、容姿だって……。
何も誇れるところがなく、地味で目立たない、いてもいなくてもいいような存在――それがわたし、河村由佳という人間だ。
そんなわたしが存在することを許されるためには、せめて他人に迷惑をかけない真面目ないい子でいなくてはならないのだと思っていた。
それはわたしにとって、たいして難しいことではなかった。人の言いつけをよく守り、禁じられていることは絶対にしない――わたしはそういう真面目な生き方にさして息苦しさを感じることのない人間であったから。
これまでそうやって生きてきたのだし、これから先も同じようにやっていけばいいんだ。そうすれば幸せになれる。――わたしはそう信じて疑わなかった。
……でも、そんなのは嘘、欺瞞だ。
そのことを教えてくれたのは、小学校に入ってからずっと友達だった吉野純子ちゃんだ。
小学校六年生だったある日、わたしは純子ちゃんに絶交を宣言された。わたしは当惑せずにはいられなかった。
どうしてなのか理由を尋ねたところ、純子ちゃんはわたしに冷ややかな目をむけて言った。
「由佳ちゃんは真面目ないい子だからね」
そのときは純子ちゃんが何を言っているのかまったく理解ができなかった。真面目ないい子であることで誉められはすれど、どうして嫌われなくてはならないのだろう。理不尽だと思った。
でも、今ならその言葉の意味がわかるような気がする。
それは、わたしが大人にとっての真面目ないい子でしかなかったからだ。大人の顔色を窺うことに汲々としているような子どもだったからだ。友達と遊んでいるときも、楽しむより先に、親がいい印象を持っている相手であるかとか、先生がよい顔をしないような遊びではないかとか、そんなことばかり考えてしまうような子どもだったからだ。
あるとき、わたしは純子ちゃんに誘われて近くの自然公園に行った。純子ちゃんの家の近所に住むお兄さんが、そこの貯水池でザリガニが釣れると言っていたからだ。池はフェンスで囲まれており、危険なので入ってはいけないと警告する看板も掲げられていたけど、純子ちゃんはそんなもの気にすることなくフェンスを乗り越え、わたしにも来るよう促した。わたしは逃げ出してしまった。怖かったのだ。これまで数多くの人が呑み込まれたという噂のある底なしの池や、見るからにグロテスクなザリガニがじゃない。フェンスの内側に入るという禁じられた行為をすることが怖かったのだ。
またあるとき、女子グループでショッピングセンター内にあるシネコンに映画を観に行こうと誘われた。わたしは断ろうとした。保護者同伴じゃないとそういうところには行ってはいけないと先生に言われていたから。でも純子ちゃんはばれなきゃ大丈夫だよと言って、強引に予定を決めてしまった。当日、わたしは集合場所に行かなかった。仮病を使ったのだ。次の日学校でみんなに「風邪はもういいの?」と心配される度に心が痛んだ。
他にも似たようなことは幾らでもあった気がする。そうやって、わたしは自分が真面目ないい子であることを守るために、幾度となく友達を裏切ってきたのだ。
純子ちゃんはそんな不誠実なわたしに怒り、呆れ、最後には愛想を尽かしたのだろう。当然の結果だ。むしろ、よくこれまでこんなわたしと友達でいてくれたものだと、逆に感心すらしてしまう。
純子ちゃんに絶交されたわたしには、他に友達と呼べるような人はいなかった。新しい友達を作ることもできなかった。みんな純子ちゃん同様わたしを嫌っているように思えたし、たとえ仲良くなれたとしても、わたしの性格のせいですぐに純子ちゃんのように絶交されるに決まっている。――それはとても辛いことで……。
ならばいっそ、真面目ないい子なんてやめてしまえ、とも考えた。だけど、それで親や先生にまで見捨てられたりなんかしたら、友達もいないわたしは本当に独りぼっちになってしまう。――それはたまらなく怖いことで……。
そんなジレンマに囚われたまま、わたしはこれまで通り真面目でいい子という生き方をずるずると続けている。
父方の祖父が言った――「由佳ちゃんみたいな真面目ないい子が奥さんだったら、その家は安泰だな」
近所のおばさんが言った――「うちの子も由佳ちゃんのように真面目ないい子だったらねぇ」
幼稚園の保母さんにも言われた――「遊び道具の後片付けなんかも嫌な顔せずにやってくれる由香ちゃんのような真面目ないい子がいてくれて助かるわ」
真面目ないい子と言われることは決して嫌ではなかった。だってそれは、まぎれもなく誉め言葉であるのだから。
それにわたしは、真面目であること以外、何の取り柄もない人間なのだし……。
授業中しっかりノートをとるくせに、この間の中間テストは二五二人中一二五番という可も不可もない成績だった。運動はからっきしだめで、いまだに逆上がりができない。根暗で人当たりがよくないし、容姿だって……。
何も誇れるところがなく、地味で目立たない、いてもいなくてもいいような存在――それがわたし、河村由佳という人間だ。
そんなわたしが存在することを許されるためには、せめて他人に迷惑をかけない真面目ないい子でいなくてはならないのだと思っていた。
それはわたしにとって、たいして難しいことではなかった。人の言いつけをよく守り、禁じられていることは絶対にしない――わたしはそういう真面目な生き方にさして息苦しさを感じることのない人間であったから。
これまでそうやって生きてきたのだし、これから先も同じようにやっていけばいいんだ。そうすれば幸せになれる。――わたしはそう信じて疑わなかった。
……でも、そんなのは嘘、欺瞞だ。
そのことを教えてくれたのは、小学校に入ってからずっと友達だった吉野純子ちゃんだ。
小学校六年生だったある日、わたしは純子ちゃんに絶交を宣言された。わたしは当惑せずにはいられなかった。
どうしてなのか理由を尋ねたところ、純子ちゃんはわたしに冷ややかな目をむけて言った。
「由佳ちゃんは真面目ないい子だからね」
そのときは純子ちゃんが何を言っているのかまったく理解ができなかった。真面目ないい子であることで誉められはすれど、どうして嫌われなくてはならないのだろう。理不尽だと思った。
でも、今ならその言葉の意味がわかるような気がする。
それは、わたしが大人にとっての真面目ないい子でしかなかったからだ。大人の顔色を窺うことに汲々としているような子どもだったからだ。友達と遊んでいるときも、楽しむより先に、親がいい印象を持っている相手であるかとか、先生がよい顔をしないような遊びではないかとか、そんなことばかり考えてしまうような子どもだったからだ。
あるとき、わたしは純子ちゃんに誘われて近くの自然公園に行った。純子ちゃんの家の近所に住むお兄さんが、そこの貯水池でザリガニが釣れると言っていたからだ。池はフェンスで囲まれており、危険なので入ってはいけないと警告する看板も掲げられていたけど、純子ちゃんはそんなもの気にすることなくフェンスを乗り越え、わたしにも来るよう促した。わたしは逃げ出してしまった。怖かったのだ。これまで数多くの人が呑み込まれたという噂のある底なしの池や、見るからにグロテスクなザリガニがじゃない。フェンスの内側に入るという禁じられた行為をすることが怖かったのだ。
またあるとき、女子グループでショッピングセンター内にあるシネコンに映画を観に行こうと誘われた。わたしは断ろうとした。保護者同伴じゃないとそういうところには行ってはいけないと先生に言われていたから。でも純子ちゃんはばれなきゃ大丈夫だよと言って、強引に予定を決めてしまった。当日、わたしは集合場所に行かなかった。仮病を使ったのだ。次の日学校でみんなに「風邪はもういいの?」と心配される度に心が痛んだ。
他にも似たようなことは幾らでもあった気がする。そうやって、わたしは自分が真面目ないい子であることを守るために、幾度となく友達を裏切ってきたのだ。
純子ちゃんはそんな不誠実なわたしに怒り、呆れ、最後には愛想を尽かしたのだろう。当然の結果だ。むしろ、よくこれまでこんなわたしと友達でいてくれたものだと、逆に感心すらしてしまう。
純子ちゃんに絶交されたわたしには、他に友達と呼べるような人はいなかった。新しい友達を作ることもできなかった。みんな純子ちゃん同様わたしを嫌っているように思えたし、たとえ仲良くなれたとしても、わたしの性格のせいですぐに純子ちゃんのように絶交されるに決まっている。――それはとても辛いことで……。
ならばいっそ、真面目ないい子なんてやめてしまえ、とも考えた。だけど、それで親や先生にまで見捨てられたりなんかしたら、友達もいないわたしは本当に独りぼっちになってしまう。――それはたまらなく怖いことで……。
そんなジレンマに囚われたまま、わたしはこれまで通り真面目でいい子という生き方をずるずると続けている。