「はい、結構です。皆さん、ご苦労様でした」
 豊田先生は教室をぐるりと見回すと、後ろで一列に並んで立っていたわたしたち掃除当番の労をねぎらった。
 わたしのクラスの担任である豊田先生は、頭に半分以上白いものが混じった定年間近と思われる男の先生だ。生徒をきつく叱ったりすることのない穏やかな人柄で、以前わたしがゴミを捨てに行ったままなかなか戻って来なかった時も、「次からは気を付けてくださいね」と優しく諭すだけだった。その甘さが時々もどかしく感じることもあるけど、わたしは穏和な豊田先生が決して嫌いではなかった。だから、クラスメイトが陰で先生のことを「ボケ老人」や「骨董品」などと言って蔑んでいるのを見ると悲しくなってしまう。といって、それをたしなめる勇気などわたしにはないのだけど……。
 豊田先生の最終チェックは、五組の西山先生のように窓の桟に残っているわずかな埃にまで目を光らせるような厳しいものではなく、周囲をざっと見回しただけで済ませてしまう。それがわかっているせいか、うちのクラスは掃除の仕方がぞんざいだ。次の日登校したら、昨日床に落ちていたゴミがそのまま残っていたなんてことも珍しくない。どうして自分たちが使っている教室の掃除くらいきちんとできないんだろうと思ってしまう。
 今日も今日とて、丸めた雑巾と箒で野球を始めた男子と、それを一喝した沢田さんとの間で一悶着あったため、思いの外時間がかかってしまったけど、なんとか掃除は完了した。この後は各々部活に出たり帰宅したりすることになる。わたしは部活には所属していないけど、だからといってまだ家にも帰るつもりはなかった。
 クラスメイトが鞄を持って我先にと教室を飛び出していく中、わたしは教壇正面の自分の席に腰を下ろし、誰もいなくなるのを待つことにした。
 ちらりと窓に目をやる。六月に入ってからというもの、窓ガラスには水気をたっぷり含んだ鉛色の雲と、そこから絶えることなく垂れ落ちてくる細い水の矢という気が滅入る光景ばかりが映し出されていた。
 しかし、いくら梅雨といえどもずっと雨の日ばかりが続くわけではない。気まぐれのようにふと晴れ間が顔を覗かせることもある。今日はちょうどそんな日だった。窓から見える空はいくらか雲が多めではあるものの、雨の心配はしなくてよさそうだ。その事実にわたしは小躍りしたくなった。晴れているということはすなわち、屋上に行けるということなのだから。
「河村さん」
 うきうき気分でいたところに不意に声をかけられた。振り向くとそこには沢田さんが立っていた。肩には大きなスポーツバッグを掛けている。教科書やノートといった勉強道具だけでなく、部活の道具も入っているのだろう(たしか沢田さんはバレーボール部だったはず)。
「まだ帰らないの?」と沢田さんは訊いた。
「うん。もうちょっとだけ教室にいるつもり」とわたしは答えた。
「何か用事でもあるの? 誰かを待っているとかさ」
「まあ、そんなところかな」
 本当は待っているんじゃなくて、待ってくれている人のところに行くつもりなのだけど、それを言うわけにはいかない。
「そう……」
 わたしの返事に沢田さんは頷いたもの、それで納得して立ち去ってはくれなかった。人の顔をじっと見つめ、何か言いたげにしている。
 ……いったいどうしたっていうんだろう?
 困惑するわたしに沢田さんは言った。
「ねえ河村さん、変なことを聞くようだけど、何か困ったりしてしない?」
「困ったりって、何が?」
 沢田さんが何を言いたいのかわからず、逆にわたしは聞き返す。
「そうね……たとえば誰かに因縁を付けられたとか、金銭を要求されたとか、パシリをさせられているとか。――どう?」
「いや、別にないけど……」
 しいて困ったことあげるとすれば、こうして沢田さんに変な質問をされることなのだけど。
「そう……。ないなら別にいいんだけどね」
 沢田さんは口ではそう言うものの、その不満げな表情からわたしの言葉に納得してはいないのは明らかだ。
「ねえ、河村さん」沢田さんはわたしに真剣な眼差しを向けて言った。「今後、何か困ったことがあったら遠慮せずにわたしに相談してね。力になってあげるからさ。わたしの手に余るようなことでも、三年にいるお姉ちゃんに頼めばなんとかしてくれると思うし。――わかった?」
「うん……」
 わたしは沢田さんの勢いに気圧されて頷きはしたものの、だからといって、遠慮せず「邪魔だから早く帰ってください」とは言えそうになかった。
 そんなわたしの気持ちが通じたわけではないのだろうけど、沢田さんは「じゃあ、また明日ね」と言い残して教室を去っていった。
 なんで沢田さんがあんなことを言い出したのか皆目見当が付かなかった。わたしたちは心配事を相談するほど親しい間柄でもないのに。
 なにはともあれ、これで教室には誰もいなくなった。屋上に向かうならこの時をおいて他ない。
 わたしは教科書とノートで膨らんだリュック型のスクールバッグを胸に抱いて席を立つ。教室の出入り口から頭だけを覗かせ、廊下に人がいないか確認する。――うん、大丈夫。
 教室を飛び出すと、走って――は校則違反なので早歩きで階段へと向かう。
 下の階段や踊り場に人の気配がないことを探る。――よし、誰もいない。
 屋上へと向かう階段を見上げる。いつものようにプラスチックの鎖が掛けられ、その先に進もうとする者を阻んでいる。わたしは今からその禁を侵そうとしているのだ。もう〝正気を失っていた〟なんて言葉で誤魔化したりはしない。この行動はまぎれもなくわたしの意志によるものなのだから。そのことに少しの罪悪感と、それ以上の高揚感を覚えていた。
 意を決して鎖の下をくぐる。初めてのときのように背中を当ててしまうようなこともなく、スムーズにくぐり抜けることができた。
 音をたてないようつま先立ちで階段を駆け上がっていく。踊り場を曲がりさらに登っていくと、やがて鉄の扉の前へと到着した。灰色の扉は相変わらずの無愛想だけど、わたしには顔なじみが出迎えてくれたように感じられ、思わず頬が弛んでしまう。
 ドアノブに手を掛ける。「どうかいますように」と念じながらひねると、何の抵抗もなく回転した。錠が開いている。それはすなわち、松永先輩が来ているということ。
 高揚する気分を抑えるようにひとつ息をつくと、扉に身体を密着させ、全身を預けるようにして押していく。
 扉はゆっくりと開かれていき、向こう側の世界がわたしの眼前にその姿を現した。

 そこには――空があった。

 わたしは息を呑んだ。その何てことない、ありきたりな空を目の当たりにした瞬間、いつものように自分の心が解き放たれたような浮遊感に襲われる。
 それはとても自由で、この上なく心地よくて――
 がさりという音に、わたしは我に返った。
 屋上の中央には四、五人が座ってもまだ余裕のある大きなレジャーシートが敷かれていた。そこに上半身を起こしている人影が見える。どうやらさっきの音は、起きあがった際にレジャーシートが擦れたもののようだ。
 赤い髪をした女子生徒――松永先輩がわたしを手招きしている。
 わたしはすぐさま先輩の元に駆け寄ろうとした。
 先輩が慌てたような顔でわたしの後ろを指差す。
 どうしたんだろうと思って振り返ったわたしが見たのは、上部に取り付けられたバネの力によって今まさに閉じられようとしている扉だった。このままの勢いで閉まったら、きっと下にまで響くような大きな音をたててしまうに違いない。
 わたしはあわててドアノブを掴んだ。勢いのついた扉は思いの外重く、少し身体を引きずられてしまったけど、すんでのところで止めることができた。
 慎重にそっと扉を閉じる。ほんの小さな音だけを残し、校舎と屋上の世界は遮断された。
 ほっと安堵の息をついたところ、後ろからクスクスと笑い声が聞こえてきた。振り返ると松永先輩が笑っていた。今のわたしのあわてぶりがツボにはまったようだ。
 そんなに笑うことないじゃないですか!――わたしは頬を膨らませる。
 その反応がまたおかしかったらしく、先輩はこれまで以上に大笑いした。
 そんな先輩に最初呆れ気味のわたしだったけど、しだいに自分でもおかしくなってきてしまい、釣られるように笑い出した。
 そうやってしばらく一緒に笑い合った後、松永先輩は赤い髪を掻き上げ、改まったようにわたしに言った。
「ようこそ、空に近い場所へ」