貴方は報われますように

「めちゃくちゃ長いねー」
 病名を聞いた心護は爽やかな笑顔でさらっとそう呟いたけど、
「え゙っ……!?」
 私が変な声を上げると慌てて付け足した。
「あっ、ただの感想だしそんなに落ち込まないでっ」
「別に落ち込んでないよ。確かに長いと思うし……」
「鈴凰ちゃん」
「何?」
「長くても問題ナッシング!!」
 大きな声でそう言った心護の口元には百点を取って「なぁ、俺って凄いだろ?」と周りの人に自慢する男子小学生みたいな無邪気な笑顔が浮かんでいる。
「心護くんは正確に記憶しました」
 なぜか敬語で言いつつ心護は自分の頭を人差し指でとんとんと軽く叩く。それから黒ズボンの右ポケットからシルバーのスマートフォンを取り出して、
「……かびん……せい……ちょう……しょうこうぐん……っと。よし!」
 細くて長い綺麗な左手人差し指をしゅっしゅっと素早く動かし始めた。
「へぇ、なるほど。そう書くのか……。”過敏に反応する”の過敏なんだ」
「……ねぇ、心護。何してるの?」
「何って、ネットで検索したんだよ」
「えっ、検索したの!?」
 目を丸くして驚く私に心護はアーチ型の綺麗な眉を下げつつ言った。
「俺がアレコレ調べるの嫌だった? ごめんね、勝手なことしちゃって」
「ち、違うよっ」
 間髪入れず私は上ずった声で否定する。
「『過敏性腸症候群』はまだ認知度が低い病気だから心護が調べようと思ってくれたことがスッゴく嬉しくて!」
「あっ、なんだ! そーゆうことかぁ……。鈴凰ちゃんがスッゴく嬉しいならよかった」
 心護はホッとしたように笑ったが、すぐに口元をきゅっと引き締める。
「俺は出来る限り詳しく調べる。だけど、ネットの情報は多いうえにアバウトだし、誤った情報が含まれている場合もあるから、正しく理解するのは容易じゃない。俺は誤った知識で鈴凰ちゃんを傷つけたくない。だから鈴凰ちゃんに直接教えてもらいたいんだ。……まず、『過敏性腸症候群』がどういう病気なのか詳しく教えてもらいたいんだけど──」
 いいかな、と尋ねた心護の声は震えていて、つい緊張して唾が出てくる。放っておいたらどんどん口の中に溜まってきた。
 唾液だけじゃなくて空気も一緒に飲み込んでしまうから本当は飲み込みたくなかったけど、仕方なく飲み込む。
「『過敏性腸症候群』は大腸に異常が見つからないにも関わらず、お腹の調子が悪い事が数ヵ月以上も続いてしまう病気だよ」
 我ながらスラスラと説明できた。他人に説明する時に困らないように何度も調べたから当然だとは思うけど。
「後、『過敏性腸症候群』は『I(アイ)B(ビー)S(エス)』っていう略称があるの。こっちの方が言いやすいし覚えやすいかなぁって」
「うん、そうだね。なんか略称の方がカッコイイ♪」
「かっ、かっこいいかなぁ……? じゃあ、これからは『IBS』って言うね」
「了解!」
「……あのさ、お腹の調子がずっと悪いの?』
 心護にためらいがちにそう訊かれて若干間を置いて「うん」と頷く。
「悪いよ。一昨年……中三の秋頃から今までずっと」
「それは……、(つら)いね」
 心護は私より(つら)そうな表情で相槌を打った。私はこくりと頷いて説明を再開した。
「『IBS』はある四つの型に分けられる。便秘型、下痢型、混合型、そして分類不能型。でも私は……、その他のガス型で……」
 私の言葉がピタリと止まったのを怪訝に思ったのだろう、心護は私の顔を心配そうに窺ってきた。
「ガス型って?」
 やがて優しめのトーンで続きを促す。私は言おうか言うまいか迷って何度か口をパクパクと開閉した後に、言おうと決断した。
「ガス型はお腹の中にガスが溜まってお腹が張って痛くなったり…………、ガス漏れの症状に苦しんだり……。『IBS』の中で最も治りにくい型と言われてて。……ガス漏れっていうのは…………、無意識の内にガスが漏れてしまう症状の事でね……」
 滴り落ちる雨の雫のようにポツポツと喋ったけど、途中で(つら)くなって唇をきつく結んで説明を中断した。心護は続きを促さずに私の説明をメモした携帯の画面を考え込むような表情でじっと見詰めている。
 沈黙に耐えきれず、「私が」と小さく口を開けて声を発した。窓の外から聞こえる控えめな秋風の音でかき消されてしまうくらい弱っちい声を。
「……(くさ)いのはこのガス漏れが原因なの。ごめん。こんな汚い話……、聞きたくないよね」
 私は俯いてすぐに自分の腕に右手の親指の爪を立てた。一個……二個……三個……。左腕の手首に紅色の三日月が刻まれていく。こうやって自傷して堪えないとどす黒い感情が溢れ出してしまいそうなんだ。
 心護は絶対気づいていたのに自傷行為を止めずに「汚い話じゃないよ」と断言した。
「でも。鈴凰ちゃん、今、凄く(つら)そうな顔してる。もうこの話はやめようか?」
 心護が出した提案に私は無言で頷いた。このまま『IBS』の話を続けるのは(つら)い。
 数秒後に心護は私にふわりと微笑みかけた。
「鈴凰ちゃんが話してくれたことは全部メモった。帰ったら必ず調べるよ。話しづらいことを話してくれて本当にありがとう」
「ううん。こちらこそ、真剣に聞いてくれてありがとう」
 私は上目遣いで心護を見上げた。心護の身長は175㎝で154㎝の私を見下ろしているのに威圧感がない。柴田くんが私に向けた軽蔑の眼差しとは全然違って、一目見ただけで優しい人だと分かる灯火のように温かい眼差しで私を見詰め返している。
「もう、心護は……」
「ん?」
「私のこと、嫌いになったよね?」
「……え?」
 心護は不思議そうに首を傾げた。
「嫌いになってないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だ! おならって言うのが嫌で、ガスって言ったけど、私は人前でおならするような汚い人間なんだよ!? そんな私を嫌いにならないハズがない!!」
「何言ってんの? 鈴凰ちゃんは汚い人間じゃないよ」
 私は何にも分かってないと顔を顰めながら「ううん汚い人間だよ」と首を激しく横に振った。
「ううん、汚い人間じゃないよ。だって、したくなくても勝手にガスが漏れてしまうんだよね? だったら鈴凰ちゃんのせいじゃなくて『IBS』のせいだよ」
「でも……。みんな我慢してるのに我慢できずにしてしまう下品な私はやっぱり汚い人間でしかない」
 私は涙ぐみながら何とかそう返して自分の短い髪を両耳に雑にかけた。
「下品じゃないよ。ただの生理現象だ。誰だってすんのにした人に対して冷ややかな目を向けるのはおかしい。……我慢すんのが当然だって主張する人たちの方がマジで狂ってるし生きづらくしてると思う。
 そもそも俺は、他人を平気で傷つけるような人たちを汚い人間だと思ってる。だから鈴凰ちゃんは汚い人間じゃない。鈴凰ちゃんは人を傷つけるタイプには見えないから」
 私は目をぎゅっと瞑る。
「そういう風に言えるのは……、心護がまだ私の後ろの席に座ったことがないからだよ。どんなに優しい人でも私が(くさ)いことに気づいた途端に冷たくなる」
「鈴凰ちゃん──、」
 心護が何かを言いかけたその時だ。
 グーッ……ボコッ……ボコボコボコ…………
 三種類の音が教室内に鳴り響いた。やがてしんと静まり返る。
 もう最悪だ──。
「私だよ」
 心護が何か言う前に自己申告した。『IBS』を発症してから今までに、一体何回このクソみたいな症状で絶望しただろうか。
「汚い音を聞かせてしまって本当にごめん……。これは私のお腹の音……腹鳴(ふくめい)。『IBS』の厄介な症状の一つなんだ……」
 おならの音みたいで恥ずかしいホント最悪、と嘆きながら左脇腹を強くつねった。自分のお腹が憎い。消えろ。消えてしまえ。
「鈴凰ちゃん、自分で自分を傷つけないで。つねるのは痛いからやめよう?」
「既に痛いから大丈夫だよ」
 早口かつ投げやりな口調で呟くと心護は「えっ?」と戸惑った声を上げた。
「痛い? 痛いってお(なか)が痛いの?」
「お腹が張って痛くて……吐き気も……」
「吐き気まで!?」
 意外と肝が座っているという”設定”の心護が今は目を白黒させてパニクっている。
「うん……。ちょっと気持ち悪い」
「大丈夫? そうだな……。とりあえずお手洗いに行こう」
 言いつつ心護が近づこうとしたその瞬間、私は両手を前に出して「ちょっとストップ!」と慌てて止めた。
「何で?」
「だっ、大丈夫だから!」
「本当に?」
「うん!!」
 私が逃げるように三歩後ずさると心護は近づくのをやめた。
「今すぐ吐くことは多分ないし! ちょっと息苦しいだけだからっ」
「そっか、息苦しいんだね……。早く治まって欲しいね」
 心護の言葉に私はこくこくと頷く。
「お腹はどこらへんがどんな感じで痛むの?」
「うーんと……、左の脇腹が捻られるように痛いかなぁ」
「捻られるように? そんなに痛いのか……。(つら)いね。──そうだ! マッサージ! マッサージしよう! 掌で、”の”の字をかくようにお腹を優しく撫でてみて」
 心護の母親のような慈しみに満ちた声が心地良くて安心して、私は自分のお腹をゆっくりマッサージし始めた。
 きっとすぐよくなる。大丈夫。大丈夫だからね。
 私がマッサージをしている間ずっと、心護は何度も温かい言葉で励ましてくれた。
「ねぇ、鈴凰ちゃんのお腹さん」
 唐突に話しかける対象が私から私のお腹に変わり、ビックリして思わずお腹から心護に視線を移した。一方、心護は私のお腹をひどく真剣な顔で見据えていた。
「鈴凰ちゃんを苦しめないで。鈴凰ちゃんにこれ以上(つら)い思いをさせないでね。どうかお願いします」
 心護は両手を祈るように組みながらそう言い、さらに「痛いの痛いの飛んでけ!」とよく聞くフレーズを口にした。
「……今の。何?」
「おまじないだよ♪」
「おまじない?」
「うん! 俺が小三の頃にね、お母さんが今みたいにおまじないを唱えてくれたんだ。そしたら不思議と痛みが和らいで心がじわぁーとあったかくなった」
 小三の頃におまじないを唱えてくれたお母さんというのは、白樺心護の母親ではなく私の母親だ。黙り込んだ私に心護が「ごめん」と謝罪した。
「こんなの気休めにしかならないよね」
「ううん。そうじゃなくて心護は私の体調を心配してくれるんだね……??」
 語尾が不自然に上がる。瞼が熱くなってきた。やばい泣きそう。
「そんなの当たり前だよ」
「当たり前じゃない! ……心護はおかしいよ」
 ついに我慢できずに涙がボロボロと零れ落ちて頬を伝う。
「お、おかしい……?」
 心護が困惑している。
「だって! こんな風に私に優しく接してくれる人なんて一人もいなかったッ!!」
 私はみっともなく叫んだ。
 口に出すと余計に悲しくなるし、転んでできた深めのすり傷を信頼していた友達に黄色いハサミでグリグリと抉られているかのように、心が痛くて痛くて壊れてしまいそうだった。いっそのこと、壊れて何も感じなくなればいいと思った。とっくの昔に楽しいや嬉しいという感情は麻痺して感じにくくなっている。もうどうなったっていい。

『くっさ……!』・『なんか焦げ(くさ)い……』『下水道の(にお)いがする』・『誰かうんこ漏らした?』・『なんか、ここだけ便所の(にお)いしない?』・『硫黄の(にお)いがする』・『〇〇(私の後ろの席に座っていた女子生徒の苗字)さんが可哀想!』・『出席番号順って残酷だよね……。(恐らく、「出席番号順で並びなさい」と先生に指示された時に私の後ろに座らなければいけないため)』

 これらは全て、私のクラスメイトが授業中や休み時間、試験中などに口にした言葉だ。直接的に言われたことはない。だけど、私の顔をチラチラ見ながら言うから私に向けての言葉だと分かりたくなくても分かった。
 クラスメイトから頻繁にされる行動は鼻すすりや咳払い、ため息、舌打ち、スゥーと息を吐く、で、時々されるのは机を徐々に離したり、後ろから椅子を蹴ったり、教室の窓を全開にしたりする行為だ。私の後ろに立ってわざわざ(にお)いを嗅ぐこともあった。
 今日の四時間目には、私の後ろの席に座っている男子生徒が両手を使っておならのような音を鳴らす「手おなら」をした。
「みんなは悪くない……。私が(くさ)いのが悪い……。私が悪いから責められないし言い返せない……っ」
 私は涙を零しながら「みんなは悪くない」という言葉を必死に繰り返した。それだけは誤解して欲しくない。(くさ)い私が悪い。私に対するみんなの反応や言動は異常じゃなくて正常だ。異常なのは私だ。私の身体(お腹)だ。
「みんなが悪くないんだったら鈴凰ちゃんも悪くない」
 心護の意見を私は首を横に振って否定して、それから『IBS』よりも先に『(どん)()(しょう)』という病気を発症していたという事実を打ち明けた。
 中三の夏頃から通い始めた塾の授業中に、喉の音(グーッ、ゲーッという低音)が頻繁に鳴るようになって、帰宅してからトイレで嘔吐した。それでも病気──『呑気症』だとは気づかずに放置した結果『IBS』まで併症したと考えられる。
「……まだ学校の授業で習ってない、家で予習してきた問題を塾の先生に当てられるのがスゴく嫌だった……」
 教師から当てられるストレスやみんなの前で間違えたらどうしようという不安、それらが蓄積したのが原因で『呑気症』と『IBS』を発症したと捉えている。
「このまま一生治らないかもしれないって思ったら……死にたくなった……っ」
 ヨーグルトや整腸剤、ガスだまり改善薬、漢方は悉く効かなかった。自宅近くの病院に行っても、医者は笑いながら『気にするな』という一言だけを与えて薬は与えなかった。最終手段としてネットで購入した消臭パンツすらあまり効果がなくて落胆する。
 これから先もずっと、完治しづらいうえに他人に大きな迷惑をかける病気を抱えたまま生きなければいけない──。私は心の底から絶望して中三の十二月頃から『死にたい』と願うようになった。
「……もうこれ以上……自分が(くさ)いせいで……みんなに迷惑かけたくないから……今すぐ死にたい……」
 私は涙を流しながら鼻を啜りながら、醜い本音を吐露した。
「俺は死んで欲しくない」
 心護が必死さに満ちた声音で言った。
「何で……?」
「俺は鈴凰ちゃんともっともっと沢山お喋りしたいから……。楽しい思い出を数え切れないくらい作りたいから……。喪った後でバカみたいに後悔したくないから」
 心護は涙声でそう答える。いつの間にかもらい泣きしていて、今は暖かみのあるブラウン(瞳の色)より赤色(血管)の方が存在感がある。
「……どうして心護まで泣いてるの?」
「だってさ……、散々心ない言葉ぶっ刺されたうえに酷いことされてる……。俺だったら絶対に耐えられない。なのに鈴凰ちゃんは凄いよ……っ」
 心護は手の甲で乱暴に涙を拭う。
「凄くない!」
「ううん、凄いよ……。今までよく頑張ったね」
 言いつつ心護がまた私に近寄ろうとしたので慌てて二歩後ずさった。でも、心護は今度は近づくのをやめずにさらに近づいてきて、教室内に足を踏み入れた。柴田くんはずっと廊下にいて入ろうともしなかったのに。
 心護は私の固く握りしめた右手をそっと手に取って、
「安心して。俺は鈴凰ちゃんの味方だ」
 自分の両手で包み込んだ。包み込まれた感触がなくて心護の手が温かくも冷たくもないのは、まあ、当然と言えば当然だけど虚しくなる。ほんの少しだけでも温もりを感じたかった。
「ねぇ。俺が鈴凰ちゃんに近づけば、(にお)いに気づいて鈴凰ちゃんのことを嫌いになると思ってる?」
 心護に静かな口調で質問されて私はこくりと頷く。
「嫌いになるわけない。もし仮に(くさ)いと思っても嫌わないよ」
 私は左手で心護の両手を引き剥がした。
「『味方だ』とか『臭いと思っても嫌わない』とか偽りの言葉なんか要らない!! お母さんには『もうやめて聞きたくない。私は医者じゃないから治せない』って言われたし、親友には『悲劇のヒロインぶってんじゃねーよ。(つら)いのはお前だけじゃない』って言われた。昨日まで仲の良かった友達は今日は私と目が合っただけで嫌そうな顔をした。だからもう、誰も信じられないし信じたくないの。……心護は優しい言葉をかけておいて後で地獄の底に突き落とすつもりなんでしょ?」
「じっ……、地獄の底に突き落とす……」
 心護は呟くと少しの間黙り込んだけど、穏やかな笑顔を浮かべてすぐに喋り始めた。
「俺の言葉が信じられなくても信じなくても構わないよ。俺の声が鈴凰ちゃんの耳に届くうちにちゃんと伝えておけばよかったな、って後悔しないために伝えてるだけだから。……もういっかい言うね。俺は鈴凰ちゃんの味方だ」
 心護はそう伝えた後、私の握り拳を再び両手で優しく包み込んだ。私はもう、心護の手を引き剥がさずに幼い子供のようにわんわん泣き始めた。


「──ねぇ鈴凰」
「……なに?」
 まだ泣き止まないうちに突然話しかけられて反射的に見上げた私は思わずハッと息を呑む。 
 心護の美しい顔が見る見るうちに醜く歪んでいく。マッシュショートヘアの髪が少し伸びてショートカットヘアになって明るい茶髪から黒髪に、そして最終的に女子高校生に変身した。 
 あっ、こいつはもう一人の私だ。そうだ。そういえば呼び捨てで呼ばれた。心護は私を呼び捨てじゃなくてちゃん付けで呼ぶ。そういう”キャラ設定”だ。
「何の用?」
 私が睨みつけるともう一人の私は「何の用じゃないでしょ」と呆れ顔で腕を組んだ。
「妄想タイムはここでおしまいにしてそろそろ現実を受け入れなよ」
 私は我慢できずにチッと舌打ちをする。
「うるさいなぁ、分かってるよ!」
「白樺心護は現実世界には存在しない。お前を理解してくれる人も、お前の病気を理解してくれる人も──」
「その先は言うなッ!!」
「存在しない」