私は念のため周りを見渡した。予想通り教室内には自分以外誰もいない。みんな既に部活に行っている。私は帰宅部で学校からまっすぐお家に帰るのが主な活動内容だ。
日直の仕事が終わってそろそろ帰ろうと思って教室から出ようとした時にちょうど、柴田くんが教室に戻ってきた。その時は戻ってきた理由が分からなかったけど今なら分かる。柴田くんは部活に行こうと教室を出たけど、『ヤバいからな?』と私に伝えるために教室に戻ってきたのだ。
でもさ。何でわざわざそんなことを伝えにきたの──? 臭いがヤバいのなんて知ってる。私が一番分かってるよ。それなのに……酷い。
涙が頰を伝う。スカートのポケットからティッシュを取り出して涙を拭いて鼻をかんだ。熱い。私の柴田くんへの想いはどのくらい熱かったんだろう。本当に好きだったのかな。分からない……。けど、もうどうでもいい。完全に嫌われてしまった。この恋は絶対に叶わない。
ああ、私が灯彩ちゃんだったらよかったのに。
望月灯彩はクラスメイトで、柴田くんと一番仲の良い女子だ。……多分。
ねぇ、知ってる!? 柴田くんと灯彩ちゃんって幼馴染カップルなんだよー!!
もし誰かにそう教えられたら疑わずに信じる。それくらい二人は仲が良さそうに見えた。
灯彩ちゃんは童顔で、それを隠すくらいの大きなベージュ色の眼鏡をかけていて、短い髪を一つに束ねている。背丈は150cm前後で私と同じくらいで、はにかむように控えめに笑う顔がとても可愛い。
あと、目立つタイプではなく地味で大人しいタイプだけど意外と口が悪い。この前、柴田くんに向かって、『バーカ』と笑いながら暴言を吐いていた。(私は陰キャだし毒舌だから人のこと言えないけど。)
柴田くんと灯彩ちゃんはいつも楽しそうにお喋りしていた。いいな羨ましいな、と私は独りで二人の様子を見て密かに嫉妬していた。きっとこれからも、二人は変わらず楽しい時間を一緒に過ごすんだろう。
私は……柴田くんと友達になりたかった。自分の臭いなんか気にせずただ普通に話がしたかった。それすらも叶わないのなら私はもう──。
教室の時計を確認すると四時五十分を過ぎたあたりを指していた。今度こそ帰ろうと思って教室を出た時にふとドアが目に入った。柴田くんに思い切り蹴られたドアだ。蹴られた箇所をさすりながら、
痛かったよね。ごめんね、私のせいで……。
そっと呟く。そしたら、『痛かったよね』というドアに向けての言葉が自分に言っているようにも聞こえて、涙が溢れてきた。
痛い。柴田くんに傷つけられた心が痛い。こんなに泣いたら明日の朝は目が腫れてしまうかも、と不安になるぐらい涙が止まらない。
心が死んだ、って柴田くんに酷い言葉を浴びせられた時に言ったけど今は生きてる。
だって、今も心が死んだままなら痛みも辛さも苦しみも虚しさも悲しみも何も感じなくなってるはずだ。だけど、残念なことに全てをひしひしと感じる。多分、心は再び生き返ったんだと思う。本当に生き返ったんじゃなくて、生まれてから死ぬまでにつけられた傷は癒えずにそのままで、ゾンビのように制御不能のイカれた状態で蘇ったと言った方が正しいかな。
でも、柴田くんは悪くないから責められない。臭いことを本人に伝えて何とかしようとするのは当然の行動だと思うしね。だから怒りの矛先は柴田くんではなく諸悪の根源へ向かった。
おい、IBSッ!! 本当いい加減にしろ!! どれだけ私を苦しめたら気が済むんだ!! お前のせいで人生めちゃくちゃだよ!!! ……ああでも、病気に文句言ったって無駄か……。
思わずため息を吐いたら、生温くて気持ち悪くて、そのうえ糞のような臭いがして吐き気と悲しみが一気に込み上げてきた。
失恋した次の日、私は学校を休んだ。今日も行きたくなくてベッドの上から起き上がらずにいたら、お父さんが「二日連続で休むと却ってきつくなるぞ! 今日は頑張って行け!!」とドア越しに言ってきた。
お父さんとお母さんは私の将来を心配している。違う。今の私を心配して欲しい。台所から包丁を取り出して手首に当てて結局恐ろしくなって泣く泣く仕舞ってを毎晩繰り返してる私を。首を吊る場所を探しながら家の中をふらふらと歩いている私を。死にたいのに死ねない、無様でどうしようもないこの私を。心配して欲しい。ほら。早く気づいて……。何も気づいてないくせに。病気になった私の気持ちなんて理解しようともしていないくせに。お父さんとお母さんは自分の臭いなんて気にせずに普通に生活できてるくせに。
お母さんは『そんな病気初めて聞いたしなったことないからどうしたらいいか分かんない! あんたはお母さんにどうしろって言うのッ!?』ってヒステリックに怒鳴る。ねえ。突然変な病気になってどうしたらいいのか一番分かんないのは私だよ。そんなの言い訳だ。私から逃げてるだけだ。両親から逃げられてる私も、学校や人間から逃げてるから人のこと言えないかもだけど。
両親が私にかける言葉は決まって『学校に行け!』・『せめて高校は卒業しろ!』・『中卒はダメだ!』・『みんな辛くても頑張ってるんだよ!』で温かい言葉なんてひとつももらっていない。嘘でもいいから言って欲しかったな、お父さんとお母さんは鈴凰の味方だからねって。
私のために動くのが面倒くさいから自分たちの力だけじゃ解決できそうにないから諦めて放置してるだけなんだよね? ねえ、そうでしょ? 私が死んだら少しは後悔してくれるだろうか。後悔して欲しい。もっと娘に寄り添ってあげればよかったって。両親が後悔してくれたら……私は嬉しい。
今日もまたみんなから臭いって言われるんだ。傷つくために学校に行っているようなものだ。暗澹たる気持ちで登校した。背中に成人男性が覆い被さっているかのように身体がクソ重くて辛うじて廊下を進む。
教室前の廊下では柴田くんが二人の友達と立ち話をしていた。やっぱり柴田くんだった。でも友達と一緒だと挨拶しづらいからやめよう。そんなことより、柴田くんは友達と何を話してるんだろう。まさか私の陰口を叩いてるんじゃ、と不安に襲われて心臓をバクバクさせながら耳を澄ませる。
「いや、マジでヤバいから!! お前気づいてねぇの!? マジで授業中ヤバいんだって! もう学校来ないで欲しいわー……」
友達に不満そうに愚痴を漏らしていた柴田くんは「あっ!」と私がいることに気づいて心底嫌そうな顔をした。
「うわっ! 来たし……」
最悪、と低く呟いて苛立った様子でガリガリと天然パーマ頭をかく。私は何も言い返せなかった。もし言い返せば、必ず柴田くんの口から私が傷つくワードが発せられる。一言ったら十返ってくる。メンタルがもたない。そもそも、柴田くんやクラスのみんなに迷惑をかけている分際で言い返す資格なんてあるわけがない。黙って耐えるしかなかった。
もし、『私が臭いのは過敏性腸症候群っていう病気のせいなんだ』と伝えたら、柴田くんは信じてくれるだろうか。いや、信じてくれないに違いない。これは柴田くんが性格悪いからでも冷たい人間だからでもない。普通の人間ならまず信じない。私も自分がこの病気になるまでこんな病気があるなんて知らなかった。知りたくなかったし知らないままでいたかった。
私は俯きながら柴田くんたちの横を通り過ぎた。また『臭い』って言われるかなと思ったけど何も言われなかった。……ラッキーだ。私はちっとも傷ついていない。超ハッピーだ。
でも。何でだろう。苦しい。自分で自分の首を絞めた時も今と同じぐらい息苦しかった。
倒れそうになりながらも教室の床を踏み締めて、廊下側の一番後ろの席に何とか辿り着いた。こんなことになるなら後ろのドアから入ればよかった。
柴田くんが廊下にいるのを発見した時に、『よし。死ぬ前にせめて柴田くんにおはようって挨拶しよう』と決めて、後ろのドア前を通り過ぎたのがまずかった。完全に選択をミスった。まあでも、後ろから入ることを選択したとしても、入る直前に柴田くんのあの言葉は聞き取れたはずだからどのみち傷ついたんだ。
学校に来んな──!
柴田くんがぼそりと呟いた『うわっ! 来たし……』が私にはそう言っているようにしか聞こえなかった。
ああ死にたい、とリュックサックを机の上に下ろしながら願う。学生鞄を机の横にかけながら内心呟く。屋上から飛び降りたい。
けど、私は高所恐怖症だから、実際に屋上に上がったら屋上から下を見下ろしただけでガクガクと足が竦んで一メートルくらい後ずさった後にそのまま座り込んで動けなくなるだろう。こんなに死にたいのに死ぬことすらできないなんて情けない。
もし柴田くんがIBSになったら、私にぶつけた数々の言葉を思い出して反省するのだろうか。でも柴田くんはIBSになって欲しくない。この病気になればどんなにポジティブな人でもネガティヴになると思う。それくらいIBSはクソみたいな病気なのだ。底抜けに明るい貴方が暗くなってしまうのだけは嫌だ。
だから。柴田くんがIBSになりませんように。私は報われなかったけどどうか貴方は報われますように。
IBSが早く治りますように、という私の願いを未だに叶えてくれない神が叶えてくれるかはかなり怪しいけど。こんなことを願うくらい私は柴田くんのことが好きだったんだよ──なんて我ながら吐き気がするほど気持ち悪い。
『吐き気がするほどくせーんだよッ!!』
柴田くんから言われた言葉を思い出して下唇を強く噛み締める。ハハッ。笑える。
多分、IBSにならなかったとしても、私は気持ち悪い人間だっただろうから、私と柴田くんが仲のいい友達になることはなかった。そう結論づけないとこの先、生きていけそうにない。IBSのせいで素敵な恋愛ができないなんて思いたくない。
リュックサックに顔を埋める。みんなは私がこんな行動を取っても、眠いんだろうなって大して気にも留めていないだろう。そもそも、『あっ、鈴凰ちゃんいたんだ?』と言われるほど影が薄い私が何をしても誰も気づかない。
さよなら五番目の恋。さよなら高校生活。さよなら柴田くん。私ね、高校を辞めるよ。さよなら。この先、もう会うことはないと思う。元気でね。……好きだったよ。
真っ暗リュックのチャックを開けて水色の筆箱を取り出す。
私が筆箱につけているキーホルダーは、柴田くんが筆箱につけているキーホルダーとは違う。別のアニメのキーホルダーだ。でも、柴田くんがつけているキーホルダーのキャラクターの名前は知っていたし、そのキャラクターが登場するアニメも好きで毎週欠かさず見ていた。
だから、何もなければ柴田くんに話しかけたかった。「そのアニメ好きなの? 私も好きだよ」って……。
柴田くんは隣の席だった五月の頃にはよく話しかけてくれた。何を話したのかは思い出せないけど、とても楽しかったこととそれで好きになったことだけはよく覚えている。楽しかった思い出も、昨日の放課後と今朝の出来事の記憶であっという間に黒く塗り潰されてしまった。
多分、十七歳で私は高校を中退して、多分、貴方は無事に卒業する。柴田くんが灯彩ちゃんとイチャイチャしたり、友達と笑い合ったりしながら残りの高校生活をenjoyするだろうことを思うと、それこそ血の涙をボタボタと流したくなるくらい悔しい。だけど……仕方がない。
髪型が特徴的な男性キャラのキーホルダーを指で弄んでいたら、唐突にかりんとうが食べたくなった。こげ茶色で便にそっくりだから『うんこの臭い』と揶揄されたことがある私にはお似合いのお菓子だろうし、甘くて美味しいかりんとうは好きだ。糖分を欲しているのかもしれない。私の人生には糖分が足りない。
ああ──口の中が苦くて苦くて堪らない。