私はみっともなく叫んだ。
口に出すと余計に悲しくなるし、転んでできた深めのすり傷を信頼していた友達に黄色いハサミでグリグリと抉られているかのように、心が痛くて痛くて壊れてしまいそうだった。いっそのこと、壊れて何も感じなくなればいいと思った。とっくの昔に楽しいや嬉しいという感情は麻痺して感じにくくなっている。もうどうなったっていい。
『くっさ……!』・『なんか焦げ臭い……』『下水道の臭いがする』・『誰かうんこ漏らした?』・『なんか、ここだけ便所の臭いしない?』・『硫黄の臭いがする』・『〇〇(私の後ろの席に座っていた女子生徒の苗字)さんが可哀想!』・『出席番号順って残酷だよね……。(恐らく、「出席番号順で並びなさい」と先生に指示された時に私の後ろに座らなければいけないため)』
これらは全て、私のクラスメイトが授業中や休み時間、試験中などに口にした言葉だ。直接的に言われたことはない。だけど、私の顔をチラチラ見ながら言うから私に向けての言葉だと分かりたくなくても分かった。
クラスメイトから頻繁にされる行動は鼻すすりや咳払い、ため息、舌打ち、スゥーと息を吐く、で、時々されるのは机を徐々に離したり、後ろから椅子を蹴ったり、教室の窓を全開にしたりする行為だ。私の後ろに立ってわざわざ臭いを嗅ぐこともあった。
今日の四時間目には、私の後ろの席に座っている男子生徒が両手を使っておならのような音を鳴らす「手おなら」をした。
「みんなは悪くない……。私が臭いのが悪い……。私が悪いから責められないし言い返せない……っ」
私は涙を零しながら「みんなは悪くない」という言葉を必死に繰り返した。それだけは誤解して欲しくない。臭い私が悪い。私に対するみんなの反応や言動は異常じゃなくて正常だ。異常なのは私だ。私の身体だ。
「みんなが悪くないんだったら鈴凰ちゃんも悪くない」
心護の意見を私は首を横に振って否定して、それから『IBS』よりも先に『呑気症』という病気を発症していたという事実を打ち明けた。
中三の夏頃から通い始めた塾の授業中に、喉の音(グーッ、ゲーッという低音)が頻繁に鳴るようになって、帰宅してからトイレで嘔吐した。それでも病気──『呑気症』だとは気づかずに放置した結果『IBS』まで併症したと考えられる。
「……まだ学校の授業で習ってない、家で予習してきた問題を塾の先生に当てられるのがスゴく嫌だった……」
教師から当てられるストレスやみんなの前で間違えたらどうしようという不安、それらが蓄積したのが原因で『呑気症』と『IBS』を発症したと捉えている。
「このまま一生治らないかもしれないって思ったら……死にたくなった……っ」
ヨーグルトや整腸剤、ガスだまり改善薬、漢方は悉く効かなかった。自宅近くの病院に行っても、医者は笑いながら『気にするな』という一言だけを与えて薬は与えなかった。最終手段としてネットで購入した消臭パンツすらあまり効果がなくて落胆する。
これから先もずっと、完治しづらいうえに他人に大きな迷惑をかける病気を抱えたまま生きなければいけない──。私は心の底から絶望して中三の十二月頃から『死にたい』と願うようになった。
「……もうこれ以上……自分が臭いせいで……みんなに迷惑かけたくないから……今すぐ死にたい……」
私は涙を流しながら鼻を啜りながら、醜い本音を吐露した。
「俺は死んで欲しくない」
心護が必死さに満ちた声音で言った。
「何で……?」
「俺は鈴凰ちゃんともっともっと沢山お喋りしたいから……。楽しい思い出を数え切れないくらい作りたいから……。喪った後でバカみたいに後悔したくないから」
心護は涙声でそう答える。いつの間にかもらい泣きしていて、今は暖かみのあるブラウンより赤色の方が存在感がある。
「……どうして心護まで泣いてるの?」
「だってさ……、散々心ない言葉ぶっ刺されたうえに酷いことされてる……。俺だったら絶対に耐えられない。なのに鈴凰ちゃんは凄いよ……っ」
心護は手の甲で乱暴に涙を拭う。
「凄くない!」
「ううん、凄いよ……。今までよく頑張ったね」
言いつつ心護がまた私に近寄ろうとしたので慌てて二歩後ずさった。でも、心護は今度は近づくのをやめずにさらに近づいてきて、教室内に足を踏み入れた。柴田くんはずっと廊下にいて入ろうともしなかったのに。
心護は私の固く握りしめた右手をそっと手に取って、
「安心して。俺は鈴凰ちゃんの味方だ」
自分の両手で包み込んだ。包み込まれた感触がなくて心護の手が温かくも冷たくもないのは、まあ、当然と言えば当然だけど虚しくなる。ほんの少しだけでも温もりを感じたかった。
「ねぇ。俺が鈴凰ちゃんに近づけば、臭いに気づいて鈴凰ちゃんのことを嫌いになると思ってる?」
心護に静かな口調で質問されて私はこくりと頷く。
「嫌いになるわけない。もし仮に臭いと思っても嫌わないよ」
私は左手で心護の両手を引き剥がした。
「『味方だ』とか『臭いと思っても嫌わない』とか偽りの言葉なんか要らない!! お母さんには『もうやめて聞きたくない。私は医者じゃないから治せない』って言われたし、親友には『悲劇のヒロインぶってんじゃねーよ。辛いのはお前だけじゃない』って言われた。昨日まで仲の良かった友達は今日は私と目が合っただけで嫌そうな顔をした。だからもう、誰も信じられないし信じたくないの。……心護は優しい言葉をかけておいて後で地獄の底に突き落とすつもりなんでしょ?」
「じっ……、地獄の底に突き落とす……」
心護は呟くと少しの間黙り込んだけど、穏やかな笑顔を浮かべてすぐに喋り始めた。
「俺の言葉が信じられなくても信じなくても構わないよ。俺の声が鈴凰ちゃんの耳に届くうちにちゃんと伝えておけばよかったな、って後悔しないために伝えてるだけだから。……もういっかい言うね。俺は鈴凰ちゃんの味方だ」
心護はそう伝えた後、私の握り拳を再び両手で優しく包み込んだ。私はもう、心護の手を引き剥がさずに幼い子供のようにわんわん泣き始めた。
「──ねぇ鈴凰」
「……なに?」
まだ泣き止まないうちに突然話しかけられて反射的に見上げた私は思わずハッと息を呑む。
心護の美しい顔が見る見るうちに醜く歪んでいく。マッシュショートヘアの髪が少し伸びてショートカットヘアになって明るい茶髪から黒髪に、そして最終的に女子高校生に変身した。
あっ、こいつはもう一人の私だ。そうだ。そういえば呼び捨てで呼ばれた。心護は私を呼び捨てじゃなくてちゃん付けで呼ぶ。そういう”キャラ設定”だ。
「何の用?」
私が睨みつけるともう一人の私は「何の用じゃないでしょ」と呆れ顔で腕を組んだ。
「妄想タイムはここでおしまいにしてそろそろ現実を受け入れなよ」
私は我慢できずにチッと舌打ちをする。
「うるさいなぁ、分かってるよ!」
「白樺心護は現実世界には存在しない。お前を理解してくれる人も、お前の病気を理解してくれる人も──」
「その先は言うなッ!!」
「存在しない」
言うなっちゅーの、と私はため息混じりに呟いて、指で涙を拭って鼻を啜った。
“妄想”の中でも泣いて現実でも泣いている。夢の中でも夢から醒めても泣いているのと似たようなものだ。
こうなったらいいのにな、と思う。長い長い妄想だった。そう。もう一人の私が断言した通り、白樺心護は現実世界には存在しない。徳永鈴凰の妄想の中だけに存在する一キャラクターに過ぎない。
実際に起こった訳ではないから妄想タイムが終了した後は悲しいし虚しくなるけど、妄想で救われることもあるし妄想している間は現実逃避できるから妄想することだけはどうしてもやめられない。
妄想とは言っても、私が心護に話した内容は全て真実で嘘は吐いていない。妄想の中でさえ、病気の症状や本音を話すのは躊躇してしまったけど。
心護が私に言った台詞は全て、私が求めている言葉だろう。それに、心のどこかで期待しているのかもしれない。いつか、自分の家族や友人、これから出会うかもしれないこの世にいる誰かが自分に心護のように優しく接してくれることを。……あるわけないのに。人に期待すんな。くだらない。
私は念のため周りを見渡した。予想通り教室内には自分以外誰もいない。みんな既に部活に行っている。私は帰宅部で学校からまっすぐお家に帰るのが主な活動内容だ。
日直の仕事が終わってそろそろ帰ろうと思って教室から出ようとした時にちょうど、柴田くんが教室に戻ってきた。その時は戻ってきた理由が分からなかったけど今なら分かる。柴田くんは部活に行こうと教室を出たけど、『ヤバいからな?』と私に伝えるために教室に戻ってきたのだ。
でもさ。何でわざわざそんなことを伝えにきたの──? 臭いがヤバいのなんて知ってる。私が一番分かってるよ。それなのに……酷い。
涙が頰を伝う。スカートのポケットからティッシュを取り出して涙を拭いて鼻をかんだ。熱い。私の柴田くんへの想いはどのくらい熱かったんだろう。本当に好きだったのかな。分からない……。けど、もうどうでもいい。完全に嫌われてしまった。この恋は絶対に叶わない。
ああ、私が灯彩ちゃんだったらよかったのに。
望月灯彩はクラスメイトで、柴田くんと一番仲の良い女子だ。……多分。
ねぇ、知ってる!? 柴田くんと灯彩ちゃんって幼馴染カップルなんだよー!!
もし誰かにそう教えられたら疑わずに信じる。それくらい二人は仲が良さそうに見えた。
灯彩ちゃんは童顔で、それを隠すくらいの大きなベージュ色の眼鏡をかけていて、短い髪を一つに束ねている。背丈は150cm前後で私と同じくらいで、はにかむように控えめに笑う顔がとても可愛い。
あと、目立つタイプではなく地味で大人しいタイプだけど意外と口が悪い。この前、柴田くんに向かって、『バーカ』と笑いながら暴言を吐いていた。(私は陰キャだし毒舌だから人のこと言えないけど。)
柴田くんと灯彩ちゃんはいつも楽しそうにお喋りしていた。いいな羨ましいな、と私は独りで二人の様子を見て密かに嫉妬していた。きっとこれからも、二人は変わらず楽しい時間を一緒に過ごすんだろう。
私は……柴田くんと友達になりたかった。自分の臭いなんか気にせずただ普通に話がしたかった。それすらも叶わないのなら私はもう──。
教室の時計を確認すると四時五十分を過ぎたあたりを指していた。今度こそ帰ろうと思って教室を出た時にふとドアが目に入った。柴田くんに思い切り蹴られたドアだ。蹴られた箇所をさすりながら、
痛かったよね。ごめんね、私のせいで……。
そっと呟く。そしたら、『痛かったよね』というドアに向けての言葉が自分に言っているようにも聞こえて、涙が溢れてきた。
痛い。柴田くんに傷つけられた心が痛い。こんなに泣いたら明日の朝は目が腫れてしまうかも、と不安になるぐらい涙が止まらない。
心が死んだ、って柴田くんに酷い言葉を浴びせられた時に言ったけど今は生きてる。
だって、今も心が死んだままなら痛みも辛さも苦しみも虚しさも悲しみも何も感じなくなってるはずだ。だけど、残念なことに全てをひしひしと感じる。多分、心は再び生き返ったんだと思う。本当に生き返ったんじゃなくて、生まれてから死ぬまでにつけられた傷は癒えずにそのままで、ゾンビのように制御不能のイカれた状態で蘇ったと言った方が正しいかな。
でも、柴田くんは悪くないから責められない。臭いことを本人に伝えて何とかしようとするのは当然の行動だと思うしね。だから怒りの矛先は柴田くんではなく諸悪の根源へ向かった。
おい、IBSッ!! 本当いい加減にしろ!! どれだけ私を苦しめたら気が済むんだ!! お前のせいで人生めちゃくちゃだよ!!! ……ああでも、病気に文句言ったって無駄か……。
思わずため息を吐いたら、生温くて気持ち悪くて、そのうえ糞のような臭いがして吐き気と悲しみが一気に込み上げてきた。
失恋した次の日、私は学校を休んだ。今日も行きたくなくてベッドの上から起き上がらずにいたら、お父さんが「二日連続で休むと却ってきつくなるぞ! 今日は頑張って行け!!」とドア越しに言ってきた。
お父さんとお母さんは私の将来を心配している。違う。今の私を心配して欲しい。台所から包丁を取り出して手首に当てて結局恐ろしくなって泣く泣く仕舞ってを毎晩繰り返してる私を。首を吊る場所を探しながら家の中をふらふらと歩いている私を。死にたいのに死ねない、無様でどうしようもないこの私を。心配して欲しい。ほら。早く気づいて……。何も気づいてないくせに。病気になった私の気持ちなんて理解しようともしていないくせに。お父さんとお母さんは自分の臭いなんて気にせずに普通に生活できてるくせに。
お母さんは『そんな病気初めて聞いたしなったことないからどうしたらいいか分かんない! あんたはお母さんにどうしろって言うのッ!?』ってヒステリックに怒鳴る。ねえ。突然変な病気になってどうしたらいいのか一番分かんないのは私だよ。そんなの言い訳だ。私から逃げてるだけだ。両親から逃げられてる私も、学校や人間から逃げてるから人のこと言えないかもだけど。
両親が私にかける言葉は決まって『学校に行け!』・『せめて高校は卒業しろ!』・『中卒はダメだ!』・『みんな辛くても頑張ってるんだよ!』で温かい言葉なんてひとつももらっていない。嘘でもいいから言って欲しかったな、お父さんとお母さんは鈴凰の味方だからねって。
私のために動くのが面倒くさいから自分たちの力だけじゃ解決できそうにないから諦めて放置してるだけなんだよね? ねえ、そうでしょ? 私が死んだら少しは後悔してくれるだろうか。後悔して欲しい。もっと娘に寄り添ってあげればよかったって。両親が後悔してくれたら……私は嬉しい。
今日もまたみんなから臭いって言われるんだ。傷つくために学校に行っているようなものだ。暗澹たる気持ちで登校した。背中に成人男性が覆い被さっているかのように身体がクソ重くて辛うじて廊下を進む。
教室前の廊下では柴田くんが二人の友達と立ち話をしていた。やっぱり柴田くんだった。でも友達と一緒だと挨拶しづらいからやめよう。そんなことより、柴田くんは友達と何を話してるんだろう。まさか私の陰口を叩いてるんじゃ、と不安に襲われて心臓をバクバクさせながら耳を澄ませる。
「いや、マジでヤバいから!! お前気づいてねぇの!? マジで授業中ヤバいんだって! もう学校来ないで欲しいわー……」
友達に不満そうに愚痴を漏らしていた柴田くんは「あっ!」と私がいることに気づいて心底嫌そうな顔をした。
「うわっ! 来たし……」
最悪、と低く呟いて苛立った様子でガリガリと天然パーマ頭をかく。私は何も言い返せなかった。もし言い返せば、必ず柴田くんの口から私が傷つくワードが発せられる。一言ったら十返ってくる。メンタルがもたない。そもそも、柴田くんやクラスのみんなに迷惑をかけている分際で言い返す資格なんてあるわけがない。黙って耐えるしかなかった。
もし、『私が臭いのは過敏性腸症候群っていう病気のせいなんだ』と伝えたら、柴田くんは信じてくれるだろうか。いや、信じてくれないに違いない。これは柴田くんが性格悪いからでも冷たい人間だからでもない。普通の人間ならまず信じない。私も自分がこの病気になるまでこんな病気があるなんて知らなかった。知りたくなかったし知らないままでいたかった。
私は俯きながら柴田くんたちの横を通り過ぎた。また『臭い』って言われるかなと思ったけど何も言われなかった。……ラッキーだ。私はちっとも傷ついていない。超ハッピーだ。