気がついたら寝台に横たわっていた。
 兄が心配そうに私を覗き込んでいる。いえ、心配ではない、これは、絶望。そして優しさ。

「兄上、申し訳ありません」
「いや、お前のせいではない。私が甘かった。申し訳なかった」

 兄は手袋をはめた手で私の頭を優しく撫でる。体中が熱い。呼吸がしづらい。頭がぼんやりする。毒だ。

 その瞬間を私は覚えている。いつも用事を頼んでいる商人が室に来た。私はいつもどおり奥にこもり、侍女が応対していた。私の本当の自室は狭く薄暗く、窓1つない。広さも3畳ほどでもとは物置だった。締め切った室で火を焚いたら毒が生じるらしく、空気穴が1つだけ開いている。侍女はせめて窓のある部屋をと勧めるが、これは兄が私を守ってくれているのだ。私をあらゆる危険から。
 固く重い錠を内側に設置してある。ここに閉じこもっていれば敵に襲われることもない。毒矢に怯えることもない。それにこの薄暗い室は兄や弟たちと一緒に過ごした馬小屋や納戸を思い起こして少しだけ安心する。
 けれども誤算は1つだけ。穴が開いていたことだ。空気が通るその穴が。

 その時、ふいに室外がばたばたと騒がしくなった。刺客かと思ったがここにいる限りは安全だ。念の為兄に言われたように穴から離れて身を隠す。
 しばらくして外が静かになった。いつもであれば侍女が客の退去を知らせにくるのに来ない。とすれば室外にはまだ客、つまり潜在敵が存在する可能性がある。兄には安全が確保されるまで決して外には出るなときつく言われている。それに兄は朝と夕に私に会いにくる。さきほど昼餐をとってからしばらくたっている。恐らく待っても5刻後ほどには兄が訪れるだろう。それを待っていればいい。
 そう、そう思っていたのだけれど、ふと気がつくと室内が少し煙っていた。なんだろうと思ったらあたまがフラフラと揺れ、体の表面がヒリヒリしてきた。なんだろう、これは。そう思ううちに意識を失った。

 どうやら賊は客の端女だったようだ。主人である客と私の侍女たちを皆殺しにした上で室内を施錠密封し、その中で毒をまいて自死したらしい。そう兄は語った。
 ……そうなのですか。またみんな死んでしまったのですね。
 平陽公主様は新しい侍女を送ってくださるけど、いつもみんなすぐに死んでしまう。私の代わりに。私を生かすために。けれども結局私も死んでしまうようだ。皆の死が無駄になった。そのことは悲しかった。兄の言いつけどおり侍女とも最低限しか接触しなかったけれど、みんな良い人のように感じた。きっとあの中に死んでいい人なんていなかったはずなのに。

 私が気がついたのは全てが片付いた後だった。室は兄の下働きによって再び美しく整えられ、まるで何事もなかったかのようだった。
 劉髆が兄と一緒に帝のもとにいたことだけは救い。
 そんなことを思いながら私はぼんやりと兄の優しい声を聞いていた。

「兄上、私は死ぬのですね」

 兄は珍しく苦しそうに頭を振った。

「お前は死なない、これはそういう毒だ」
「死なないのですか?」

 意外だ。でもそれなら何故そのような顔を。そしてその兄の透き通った瞳に反射する私の姿をみて気がついた。そうか、ここは後宮だ。後宮で最も重要なのは命ではない。ここでは命なんて紙のように軽いんだ。死んでしまってもすぐに何事もなかったかのように忘れ去られ、新しい女がやってくる。

「けれども李夫人は死んでしまったのだ」

 兄のその酷く優しそうな透き通った瞳は血の涙を流していた。兄は昔から少しも変わっていない。美しいままだ。
 夕暮れの橙の光が窓から差し込む寝台の側に佇む兄は、西方から伝わるギヤマンのように透き通って儚く美しく見える。けれど、その身中は焼けた鉄のような激しく熱い怒りが渦巻いているのを感じる。これは兄と暮らした私と広利しかわからないものだろう。
 ふと、室の入り口ががやがやと騒がしくなり、帝の玉声が聞こえた。

「私が報を聞いてすぐに飛び出してきたから心配されたのだろう、お前は本当に帝に愛されているね」
「はい」
「少し待っていろ。ここはちゃんと守らせてあるから少し休め。夜半に戻る。念の為、劉髆は一晩預かる。まだ小さい。万一毒が残っていれば危険だ」

 兄はそう言って室を出た。帝と何やら話す声が聞こえる。私は急な病に倒れ安静にする必要があることになったらしい。病か。しばらくすると声が聞こえなくなった。声が聞こえなくなったことに恐怖を覚えた。倒れたときと同じような静寂。震える肩を両手で抱きしめる。けれども今度は何も起こらず、ほっと息を吐いた。

 新しい下働きは明日平陽公主に送って頂けるらしい。それまでは兄の信頼できる者が誰も入らぬように周囲を見張っているそうだ。1人で過ごす夜は初めてかもしれない。いつも下働きか、それ以前は兄か広利兄さんが側にいた。心細い。けれども私はいつも守られている。

 そういえば体は動く。とてもだるいけれども。本当に死なないんだな。
 窓を閉めなければ。そう思い体を起こすと夜具も夜着も汗でびっしょりと湿っていた。せめて着替えようと思って前をはだけると、全身の力が抜けた。

-李夫人は死んだ。

 私の白かった体は赤く腫れ上がり、ところどころ深い亀裂が刻まれている。これは治らない傷なのだろう。

 あ、あぁ。

 思わず声が出た。私は美しくなければならない。そうでなければ意味はない。美しくなければ。兄の願いを潰えさせてしまった。私は、なんてことを。涙が止まらない。顔も腫れているのか涙が通る筋は散々に乱れ、皮膚に痛みが沁み込んだ。
 窓が開いていたのを思い出す。こんな姿は誰にも見せることはできない。急いで窓辺により、閉じる間際に空に満月が輝いているのが見えた。
 私はあの満月を知っている。草原の夜、兄が私たちの頭を撫でながら眺めていた月だ。私たちを幸せにしてみせると呟いていた。先ほどの優しい兄の声。私が長安城を訪れたときに聞いて以来、聞くことのなかった家族としての声。私はもう兄の同志ではなくなった。共に李家の呪いを解く同志ではなくなってしまったのだ。私は兄をこの後宮に一人ぼっちにさせてしまった。
 でも、今こそあの満月に私も誓う。
 私ができることはもう少ないけれど、たとえ死んでしまったとしても、私も李の家を幸せにすることを。