その朝、俺たちはようやく長安の都にたどり着いた。
 俺が一番高く売れる場所、つまり金払いの良さそうな場所を考えた時、漢の国都である長安が思い浮かんだ。国都ということは最も豊かということだろう。豊かな町であれば実入りが増えるのではないか。弟妹が体を売らなくても生活できるのではないか。単純にそう思った。学がない俺には他には何も思いつかなかった。
 中山国から長安は遠い。1万5000市里。幼い弟妹を連れて進むには途方もない距離だったが、小さな驢馬と荷車に弟妹と少しばかりの家財を載せて進んだ。大きめの町があればしばらく滞在して少し無理してでも手っ取り早く稼ぎ、函谷関を抜け峻厳な山を超えた先にその都はあった。

 たどり着いた長安は見たこともない世界だった。これまで見たどの街より多くの人が行き来し賑わっている。不思議な事物が市を賑わせていた。透明な石、不思議な香りのする薬、奇妙な果実。そして駱駝と呼ばれる不思議な生き物や色が白かったり黒かったりする大きな人々。絹の道と呼ばれる西域南道を通って遥か西の国から様々なものが訪れているそうだ。
 ふと、ここが桃源郷という所なんだろうかという思いが浮かぶ。俺も弟妹たちも初めて見る事物に目を見張り、巨大で荘厳な威容を誇る長安城を見上げて唸った。

 ともあれ、一座の家業は芸事だ。市の端の方を借りて細々と舞った。そのころには俺はさらに薄汚れ、手練手管は巧みになっていた。市の責任者に侍り、そこから伝を広げて夜に舞う。いつのまにか俺の美しさは市場の話題となり、豪商、そして官吏に呼ばれて舞うようになった。
 長安は漢の国都であり、巨大都市だ。法は整備され、分を弁えて危険に気をつけて借りた納屋で息を潜めていれば弟妹が無体なことをされる可能性は少ない。俺は夜を空けるようになっても一定は安心できた。
 俺を招く者の身分が上がるにつれて下げ渡される金子は増えた。俺一人で家族を何日分か養えるほどの金子。金払いがいい。来てよかった。まだ幼い弟妹を働かせる必要すらないことに安堵する。

 その日。俺はとうとう長安城に招かれた。
 本来下賤の身である俺が上るはずがないところ。数日前から俺を召している官吏の伝手だ。その官吏は俺のために美しい衣を用意した。これまで見たことのない光沢艷やかな布に透けるような細かな刺繍で飾りたてられた衣服。これ一枚だけでどの程度の金子が動いたのだろう。おそらく俺が一生舞い続けても爪の先ほども届かないほどの額。
 この布が何枚かあれば、俺の弟妹は身を売らずに生きていくことができるだろう。けれども金にすると奪われるかもしれない。全て売ってなくなれば終わりだ。その後は、その子や孫はまた体を売るしかなくなる。呪いが続いてしまう。

 そういえば両親は自分たちの祖先は巫女で旅芸人は土地に縛られない高貴な仕事だと、土地に縛られた人々を馬鹿にしていた節がある。でも俺はその日暮らしに身を売る仕事よりも地道に働いて毎日を過ごしたかった。
 けれども商売をするにも伝手はない。弟妹を奉公に入れようと試みたことがあったが旅芸人というだけで信用がなくて無理なのだ。移動できてしまうから財産を奪われて逃げられる、そういう印象がつきまとう。細い腕を眺めて忌々しく思う。こんな体では農作業や力仕事もできない。結局俺たちは生まれた時から一座の呪いに蝕まれていて抜け出せない。

 髪に香油が塗られ爪が彩られる。俺はその技術を食い入るように見つめる。俺の商品価値を高める方法を。つまるところ俺はその官吏の手土産として誰かに献上されるのだ。それでも一向に構わない。もとより俺はそのようなものだったから。
 この見事な衣もいうなれば包装だ。俺を飾り立てるものだ。それならば中身の俺自身もおそらくそれと同等程度の価値はあるのだろう。ならばきっちり売りつけよう。

「ほう、中々の美しさだな。顔をあげよ」

 考えを打ち切り、声に従い伏していた顔をあげてにこりと微笑むと、場にいた誰もが息を呑むのがわかった。
 けれども俺も小さく息を呑んだ。俺の視界に広がるものは絢爛。まさにその一言に尽きた。そこはまだ長安城の外れであったにもかかわらず、俺がいつも横たわる世界とは全く異なっていた。見たこともない彫刻に絵画、見たこともない敷物、見たこともない陶磁、見たこともない食物に溢れていた。下げ渡された一欠片を口に含むと妙味が口中に広がり、夢を見るような気分になった。
 ここに留まることができれば、ひょっとしたら俺の家族を呪縛から解き放てるのではないか。それほど俺の現実との隔たりを感じた。桃源郷と信じられるほどに。

 いつもと異なる美しい薄絹をまとって舞う。体を伸ばしてより少しでも美しく見えるように。そして吐息の一つにも注意を払う。いつしか夜の帷が降りて、衣擦れの音が耳をくすぐった。激しく長い夜のあと、俺は上級官吏に尋ねた。

「こんな素晴らしい城に住まわれていらっしゃる武帝様はさぞかし美しいお妃がいらっしゃるのでしょうね」
「帝は後宮に八千もの美姫と暮らしておられるよ」
「私などには想像もつきません。そんなにたくさんの女性がいらっしゃるなど。男性はおられないのですか」
「帝を除いては奥に入れる男はみな宦官ばかりだな」

 宦官。
 その言葉は天啓のように降ってきた。考えに行き詰まっていた俺がここにとどまる方法。官吏などは望むことすらおこがましいが、宦官であればここにいることができるかもしれない。柔らかい寝具に手を添わせる。今も弟妹が寝ているだろう藁布団とは全く異なる妙なるその触り心地。それから今も寝台の脇に備えられた美味なる果実を口に含む。脳裏に刻みつけられた薄い粥を啜るしかなかった日。両親が死んだ直後は草の根を齧り飛虫を食むこともざらだった。
 何故これほどまでに異なるのか。人の形は同じであるのに。そう思いながら官吏に口付ける。交わる艶やかな唇の奥の、腹わたの深くが沸々と煮えたぎる。

 長安は稼ぎがいい。
 だから今は弟妹も働かなくていい。だがこれは一座がまだ目新しく珍しいからだ。いずれ飽きられる。飽きられると見向きもされなくなる。そうするとまた他の地へ渡らなければならない。今多くを稼いだとしてもいずれ妹や弟、その子らも俺と同じことをするようになる。俺が無垢な弟妹にその手解きをすることになる。そしていつか野垂れ死ぬ。病を得ても薬なんか買えない。俺の父も母もそうだったように、それは確定した未来だ。奥歯がギリと鳴る。
 それなら、それであれば。
 しなをつくって問いかけてみた。自らの価値が最も高く見える笑みで。

「官吏様。私は美しいのでしょうか」
「何を言う。その纏う絹より細かな肌の艶といい、鳶のように高く細い声といい、女であれば後宮に召されるであろうな。わしの妾になるかね?」

 俺はその時、その室の窓から見える薄い三日月を眺めて心を決めた。俺はこの城の一角に食い込む楔となり、一座の呪いを解き、必ず弟妹を幸せにすることを。