俺は白い装束を纏い、久しぶりに薄く化粧を施して宮廷の廊下を歩いていた。
なるべく胸をはった。俺が潔白であることを示すために。
時折すれ違う官吏は俺の姿にギョッとして目を伏せた。
俺の人生は既に後宮の外にいた時間よりここにいる時間のほうが長かった。
楽府に向かう時によく通る通路。奇麗に彩色された欄干。そして美しく切りそろえられた青々とした木々と艶やかな花々。そびえる清涼な山々。見上げた薄く青い空の端には、やはり小さな満月が白く浮かんでいた。
満月なのだな。なんとはなしにそう思う。
昼の月は夜見る月よりほんの少しだけ小さく見えた。
「何卒昌邑王をお許しください」
跪き、地に額を擦り付けた。
「延年よ。残念ながらそれはできぬ。できぬのだ」
「存じております。けれどもお調べになられたでしょう。昌邑王はなにも関与していないことを」
「それは知っておる。表をあげよ」
顔を上げると武帝はやつれ、病の色が濃かった。
「私は以前、帝にも平陽公主にも申し上げました。昌邑王には太子となるつもりがございませぬと」
「それも知っておる。知っておるのだ。だが、ならぬ。示しがつかぬ」
武帝は嘆息した。けれども俺はなるべくにこやかに微笑んだ。
そう。本来は許されるはずがない。
俺が心配していたとおり、劉髆は祭り上げられてしまったのだ。劉髆の知らぬ間に。
首謀者はやはり劉屈氂だった。劉屈氂の息子は広利の娘を娶っている。その縁で、広利が武帝より匈奴討伐の命を受け出兵する際に酒宴を開いた。劉拠太子が死を賜った巫蠱の獄の直後のことだ。
そしてその際に劉屈氂は広利に、武帝に昌邑王、つまり劉髆を太子に立てるよう請願したらどうかと勧めたそうだ。そうすれば今後の憂いはなくなると述べて。それを笑って流したという手紙が広利から届いている。それはすでに武帝に提出してある。
時期を考えると恐らく劉拠太子の冤罪にも劉屈氂が噛んでいるように思われた。劉屈氂と江充は宮殿で会うことも多かったのだろう。どこからどこまでは計画であったのかはもはやわからない。
劉屈氂の息子は劉髆の義理の従兄弟となる。劉髆が太子となり次期帝となれば劉屈氂はその権勢を思うまま振るうつもりだったのだろう。広利の娘と劉屈氂の息子が婚姻するのを防げばよかったのかも知れないが、残念ながら俺には後宮の外のことなど全くわからぬ。
本当であれば広利も無実なのだ。だが広利はもう無理だろう。その内容を知っていて、且つ首謀者である劉屈氂の外戚にあたるのだから。今は広利は匈奴に出兵しているが、そのままどこかへ逃げることを願うのみだ。やはり李家の呪いからは逃れられぬのか。暗澹たる想いを笑みに隠す。
いや、劉髆だけはなんとしても。
「延年よ。そなたは何を笑っておるのだ」
「帝、それは私も昌邑王も何ら恥じるところがないからです」
「本来なら族誅は九族滅亡と定められているから昌邑王に累が及ぶことはない。しかし知らぬ間にとはいえ、劉髆は張本人なのだ。帝位簒奪は巫蠱の儀などよりよほどの大罪だ」
「ですから私で代わりとして頂きたく」
「延年よ、お前はそもそも九族に含まれない」
武帝は苦しげに述べた。
なんとはなく、妹が死んだ直後の様子が思い浮かばれた。
そうだ、俺と妹はよく似ている。
もはや帝の寵は他の貴妃に移っていたとしても、武帝にとってあれほど死を悼んだ妹を再び失うことは耐え難いはずだ。そうすれば、妹を失った時の妹の願いは叶えねばならぬ心持ちになるというもの。どうか、どうか劉髆をお助け下さい。
「存じております。ですが私は昌邑王より近く帝に侍っておりました」
「だがお前も知らなかったのだろう?」
「献上致しました手紙の通り、広利からの手紙で気づくことができたのかもしれません。それが私の罪でございます」
「馬鹿な。あんな手紙で何がわかる。ただの酒の席でのことだ」
「昌邑王はその手紙すら、見てはおりません」
なるべく妹に似せて笑む。武帝に妹の手紙と妹を思い出してもらうために。
「昌邑王は李夫人の子です。私はしがない宦官に過ぎません。私にはなんの力もありません。だから昌邑王を守ろうと帝に封じて頂きました。けれどもそれでもまだ私は守ることはできなかった」
「だから延年のせいではない」
こころなしか気遣うような音があふれる。
妹よ。俺が勝手に始めたことなのに俺に付き合って散ってしまった妹よ。
お前はあの時、俺の願いは成就すると言ってくれた。
だから俺は何が何でも成就しなければならないのだ。
俺は劉髆を守る。だから力を貸してくれ。妹の魂よ。
そう強く思っていると、奇妙なことが起こった。ふいに宮外から風が不思議に吹き込み、煙のような白いもやが窓からさらりと吹き込んできた。
いつか道士が焚いた香のように不思議な香りのたつその煙は俺の周りをくるりと漂い、そして帝に向かう。そしてそれに武帝も気がついた。
「李、李なのか? また現れてくれたのか?」
「李、李なのか? 現れてくれたのか?」
武帝は少し慌て、その白い靄に手を伸ばした。
それは不思議に濃淡ができ、いつしか女性の姿を薄っすらと形作った。
「李。すまなかった。朕は知らなかったのだ。李が暗殺されたことなど」
「李、お前を失って朕はとても悲しんだ。これほど悲しみを覚えたことなど他にはない」
「李。お前は変わらず美しいなぁ。誰よりも」
空気が少しだけ振動するのを感じる。
俺には妹の声は聞こえなかったが、武帝と妹は何かを語らっていた。
妹の姿は醜い姿ではなく美しい姿のまま武帝に刻みつけられている。
薄っすらとその煙のなかから浮かぶその姿は俺と同じくすこし微笑んでいるようだった。
ふいに武帝が俺をみて涙をこぼした。
どうか。どうか劉髆の命をお助けください。帝よ。
それが俺の、そして妹の願いです。
再び俺は跪き、妹が飲んだものと同じ阿片を煽る。
「帝、どうか私の命をもって私の代わりに昌邑王をお助けください」
「延年、待て、今何を飲んだ⁉ 医官。誰か速く医官を」
「帝、李家の不幸は私が全て贖います」
「なんのことだ延年、お願いだ、死なないでくれ、どうか」
武帝が玉座を離れ俺に近づいてくる。
とろけるように瞼が落ちてくると、ふいに妹の形をした煙が俺の上に重なり、体がふわりと軽くなった。
暗い。死とはこのようなものなのか。もう体は何も動かない。けれど、妹がともにあるのを感じる。ふと口から音がこぼれているのに気がついた。
『尊き主様。どうか、劉髆をお助けください』
「李なのか? 延年なのか?」
『それだけを、どうか。私たちの祈りを』
「わかった、助ける。必ず助けるから、だから行かないでくれ。後生だ」
『主様、ありがとうございます。私も延年もとても幸せです』
ふいになにかに引っ張られる気がして、俺が俺の体からぺりぺりと引き剥がされるような感触がした。
ぼんやりと目を開けると、ふわりと宙を漂っている心持ちになった。
『兄上、もう大丈夫。李家の呪いは兄上の体とともに地上に置いてきました。もう兄上は自由です』
そう、か。
なんだかふわふわと空を登っていく心持ちだ。
長安城を上から眺めているような。不思議な気持ちだ。
そう思うと次第に高度が高くなり、より遠くまで見渡せた。
視線は秦嶺山を超え、眼下には緑が広がっている。
かつて、家族とともに苦労して超えた山が小さく見える。
『兄上、私たちが生まれた平原はあのあたりですよ』
少し離れたところに草色の原が広がった。思ったより近いのかな。あんなに歩いたのに。
そして空を見上げると、薄い青色の空にただ1つだけ白い満月が浮かんでいた。
そうか、俺は地を這わずに空を眺めているのだな。
『一緒に月に行きましょう。あの恒久の月に。桃源郷で楽しく暮らしましょう、兄上。そこで広利や劉髆が来るのを一緒にまつの』
桃源郷、か。月に桃源郷があると、そういえば昔そう願っていた。
『もう手が届きます。私にも、兄上にも』
そうだ、な。
◇◇◇
その後、劉髆は何も知らなかったこと、李延年がその代わりに自死を賜り責を果たしたということで罪に問われることはなかった。
武帝は長い間太子位を空白とし、亡くなる間際に大司馬将軍に任命した霍光に命じて、その崩御後、李夫人に考武皇后の名を贈らせ、皇后の格式で祭祀を行わせた。生前に諡号を送ればまた劉髆が祭り上げられると考えたのかもしれない。
劉髆の息子はその後短期間帝に即位したが廃され、劉髆の4人の子女には湯沐邑の土地を千戸下賜されてその家は長く続いたという。
おしまい。
なるべく胸をはった。俺が潔白であることを示すために。
時折すれ違う官吏は俺の姿にギョッとして目を伏せた。
俺の人生は既に後宮の外にいた時間よりここにいる時間のほうが長かった。
楽府に向かう時によく通る通路。奇麗に彩色された欄干。そして美しく切りそろえられた青々とした木々と艶やかな花々。そびえる清涼な山々。見上げた薄く青い空の端には、やはり小さな満月が白く浮かんでいた。
満月なのだな。なんとはなしにそう思う。
昼の月は夜見る月よりほんの少しだけ小さく見えた。
「何卒昌邑王をお許しください」
跪き、地に額を擦り付けた。
「延年よ。残念ながらそれはできぬ。できぬのだ」
「存じております。けれどもお調べになられたでしょう。昌邑王はなにも関与していないことを」
「それは知っておる。表をあげよ」
顔を上げると武帝はやつれ、病の色が濃かった。
「私は以前、帝にも平陽公主にも申し上げました。昌邑王には太子となるつもりがございませぬと」
「それも知っておる。知っておるのだ。だが、ならぬ。示しがつかぬ」
武帝は嘆息した。けれども俺はなるべくにこやかに微笑んだ。
そう。本来は許されるはずがない。
俺が心配していたとおり、劉髆は祭り上げられてしまったのだ。劉髆の知らぬ間に。
首謀者はやはり劉屈氂だった。劉屈氂の息子は広利の娘を娶っている。その縁で、広利が武帝より匈奴討伐の命を受け出兵する際に酒宴を開いた。劉拠太子が死を賜った巫蠱の獄の直後のことだ。
そしてその際に劉屈氂は広利に、武帝に昌邑王、つまり劉髆を太子に立てるよう請願したらどうかと勧めたそうだ。そうすれば今後の憂いはなくなると述べて。それを笑って流したという手紙が広利から届いている。それはすでに武帝に提出してある。
時期を考えると恐らく劉拠太子の冤罪にも劉屈氂が噛んでいるように思われた。劉屈氂と江充は宮殿で会うことも多かったのだろう。どこからどこまでは計画であったのかはもはやわからない。
劉屈氂の息子は劉髆の義理の従兄弟となる。劉髆が太子となり次期帝となれば劉屈氂はその権勢を思うまま振るうつもりだったのだろう。広利の娘と劉屈氂の息子が婚姻するのを防げばよかったのかも知れないが、残念ながら俺には後宮の外のことなど全くわからぬ。
本当であれば広利も無実なのだ。だが広利はもう無理だろう。その内容を知っていて、且つ首謀者である劉屈氂の外戚にあたるのだから。今は広利は匈奴に出兵しているが、そのままどこかへ逃げることを願うのみだ。やはり李家の呪いからは逃れられぬのか。暗澹たる想いを笑みに隠す。
いや、劉髆だけはなんとしても。
「延年よ。そなたは何を笑っておるのだ」
「帝、それは私も昌邑王も何ら恥じるところがないからです」
「本来なら族誅は九族滅亡と定められているから昌邑王に累が及ぶことはない。しかし知らぬ間にとはいえ、劉髆は張本人なのだ。帝位簒奪は巫蠱の儀などよりよほどの大罪だ」
「ですから私で代わりとして頂きたく」
「延年よ、お前はそもそも九族に含まれない」
武帝は苦しげに述べた。
なんとはなく、妹が死んだ直後の様子が思い浮かばれた。
そうだ、俺と妹はよく似ている。
もはや帝の寵は他の貴妃に移っていたとしても、武帝にとってあれほど死を悼んだ妹を再び失うことは耐え難いはずだ。そうすれば、妹を失った時の妹の願いは叶えねばならぬ心持ちになるというもの。どうか、どうか劉髆をお助け下さい。
「存じております。ですが私は昌邑王より近く帝に侍っておりました」
「だがお前も知らなかったのだろう?」
「献上致しました手紙の通り、広利からの手紙で気づくことができたのかもしれません。それが私の罪でございます」
「馬鹿な。あんな手紙で何がわかる。ただの酒の席でのことだ」
「昌邑王はその手紙すら、見てはおりません」
なるべく妹に似せて笑む。武帝に妹の手紙と妹を思い出してもらうために。
「昌邑王は李夫人の子です。私はしがない宦官に過ぎません。私にはなんの力もありません。だから昌邑王を守ろうと帝に封じて頂きました。けれどもそれでもまだ私は守ることはできなかった」
「だから延年のせいではない」
こころなしか気遣うような音があふれる。
妹よ。俺が勝手に始めたことなのに俺に付き合って散ってしまった妹よ。
お前はあの時、俺の願いは成就すると言ってくれた。
だから俺は何が何でも成就しなければならないのだ。
俺は劉髆を守る。だから力を貸してくれ。妹の魂よ。
そう強く思っていると、奇妙なことが起こった。ふいに宮外から風が不思議に吹き込み、煙のような白いもやが窓からさらりと吹き込んできた。
いつか道士が焚いた香のように不思議な香りのたつその煙は俺の周りをくるりと漂い、そして帝に向かう。そしてそれに武帝も気がついた。
「李、李なのか? また現れてくれたのか?」
「李、李なのか? 現れてくれたのか?」
武帝は少し慌て、その白い靄に手を伸ばした。
それは不思議に濃淡ができ、いつしか女性の姿を薄っすらと形作った。
「李。すまなかった。朕は知らなかったのだ。李が暗殺されたことなど」
「李、お前を失って朕はとても悲しんだ。これほど悲しみを覚えたことなど他にはない」
「李。お前は変わらず美しいなぁ。誰よりも」
空気が少しだけ振動するのを感じる。
俺には妹の声は聞こえなかったが、武帝と妹は何かを語らっていた。
妹の姿は醜い姿ではなく美しい姿のまま武帝に刻みつけられている。
薄っすらとその煙のなかから浮かぶその姿は俺と同じくすこし微笑んでいるようだった。
ふいに武帝が俺をみて涙をこぼした。
どうか。どうか劉髆の命をお助けください。帝よ。
それが俺の、そして妹の願いです。
再び俺は跪き、妹が飲んだものと同じ阿片を煽る。
「帝、どうか私の命をもって私の代わりに昌邑王をお助けください」
「延年、待て、今何を飲んだ⁉ 医官。誰か速く医官を」
「帝、李家の不幸は私が全て贖います」
「なんのことだ延年、お願いだ、死なないでくれ、どうか」
武帝が玉座を離れ俺に近づいてくる。
とろけるように瞼が落ちてくると、ふいに妹の形をした煙が俺の上に重なり、体がふわりと軽くなった。
暗い。死とはこのようなものなのか。もう体は何も動かない。けれど、妹がともにあるのを感じる。ふと口から音がこぼれているのに気がついた。
『尊き主様。どうか、劉髆をお助けください』
「李なのか? 延年なのか?」
『それだけを、どうか。私たちの祈りを』
「わかった、助ける。必ず助けるから、だから行かないでくれ。後生だ」
『主様、ありがとうございます。私も延年もとても幸せです』
ふいになにかに引っ張られる気がして、俺が俺の体からぺりぺりと引き剥がされるような感触がした。
ぼんやりと目を開けると、ふわりと宙を漂っている心持ちになった。
『兄上、もう大丈夫。李家の呪いは兄上の体とともに地上に置いてきました。もう兄上は自由です』
そう、か。
なんだかふわふわと空を登っていく心持ちだ。
長安城を上から眺めているような。不思議な気持ちだ。
そう思うと次第に高度が高くなり、より遠くまで見渡せた。
視線は秦嶺山を超え、眼下には緑が広がっている。
かつて、家族とともに苦労して超えた山が小さく見える。
『兄上、私たちが生まれた平原はあのあたりですよ』
少し離れたところに草色の原が広がった。思ったより近いのかな。あんなに歩いたのに。
そして空を見上げると、薄い青色の空にただ1つだけ白い満月が浮かんでいた。
そうか、俺は地を這わずに空を眺めているのだな。
『一緒に月に行きましょう。あの恒久の月に。桃源郷で楽しく暮らしましょう、兄上。そこで広利や劉髆が来るのを一緒にまつの』
桃源郷、か。月に桃源郷があると、そういえば昔そう願っていた。
『もう手が届きます。私にも、兄上にも』
そうだ、な。
◇◇◇
その後、劉髆は何も知らなかったこと、李延年がその代わりに自死を賜り責を果たしたということで罪に問われることはなかった。
武帝は長い間太子位を空白とし、亡くなる間際に大司馬将軍に任命した霍光に命じて、その崩御後、李夫人に考武皇后の名を贈らせ、皇后の格式で祭祀を行わせた。生前に諡号を送ればまた劉髆が祭り上げられると考えたのかもしれない。
劉髆の息子はその後短期間帝に即位したが廃され、劉髆の4人の子女には湯沐邑の土地を千戸下賜されてその家は長く続いたという。
おしまい。