気がついたら寝台に横たわっていた。
 兄が心配そうに私を覗き込んでいる。いえ、心配ではない、これは、絶望。そして優しさ。

「兄上、申し訳ありません」
「いや、お前のせいではない。私が甘かった。申し訳なかった」

 兄は手袋をはめた手で私の頭を優しく撫でる。体中が熱い。呼吸がしづらい。頭がぼんやりする。毒だ。

 その瞬間を私は覚えている。いつも用事を頼んでいる商人が室に来た。私はいつもどおり奥にこもり、侍女が応対していた。私の本当の自室は狭く薄暗く、窓1つない。広さも3畳ほどでもとは物置だった。締め切った室で火を焚いたら毒が生じるらしく、空気穴が1つだけ開いている。侍女はせめて窓のある部屋をと勧めるが、これは兄が私を守ってくれているのだ。私をあらゆる危険から。
 固く重い錠を内側に設置してある。ここに閉じこもっていれば敵に襲われることもない。毒矢に怯えることもない。それにこの薄暗い室は兄や弟たちと一緒に過ごした馬小屋や納戸を思い起こして少しだけ安心する。
 けれども誤算は1つだけ。穴が開いていたことだ。空気が通るその穴が。

 その時、ふいに室外がばたばたと騒がしくなった。刺客かと思ったがここにいる限りは安全だ。念の為兄に言われたように穴から離れて身を隠す。
 しばらくして外が静かになった。いつもであれば侍女が客の退去を知らせにくるのに来ない。とすれば室外にはまだ客、つまり潜在敵が存在する可能性がある。兄には安全が確保されるまで決して外には出るなときつく言われている。それに兄は朝と夕に私に会いにくる。さきほど昼餐をとってからしばらくたっている。恐らく待っても5刻後ほどには兄が訪れるだろう。それを待っていればいい。
 そう、そう思っていたのだけれど、ふと気がつくと室内が少し煙っていた。なんだろうと思ったらあたまがフラフラと揺れ、体の表面がヒリヒリしてきた。なんだろう、これは。そう思ううちに意識を失った。

 どうやら賊は客の端女だったようだ。主人である客と私の侍女たちを皆殺しにした上で室内を施錠密封し、その中で毒をまいて自死したらしい。そう兄は語った。
 ……そうなのですか。またみんな死んでしまったのですね。
 平陽公主様は新しい侍女を送ってくださるけど、いつもみんなすぐに死んでしまう。私の代わりに。私を生かすために。けれども結局私も死んでしまうようだ。皆の死が無駄になった。そのことは悲しかった。兄の言いつけどおり侍女とも最低限しか接触しなかったけれど、みんな良い人のように感じた。きっとあの中に死んでいい人なんていなかったはずなのに。

 私が気がついたのは全てが片付いた後だった。室は兄の下働きによって再び美しく整えられ、まるで何事もなかったかのようだった。
 劉髆が兄と一緒に帝のもとにいたことだけは救い。
 そんなことを思いながら私はぼんやりと兄の優しい声を聞いていた。

「兄上、私は死ぬのですね」

 兄は珍しく苦しそうに頭を振った。

「お前は死なない、これはそういう毒だ」
「死なないのですか?」

 意外だ。でもそれなら何故そのような顔を。そしてその兄の透き通った瞳に反射する私の姿をみて気がついた。そうか、ここは後宮だ。後宮で最も重要なのは命ではない。ここでは命なんて紙のように軽いんだ。死んでしまってもすぐに何事もなかったかのように忘れ去られ、新しい女がやってくる。

「けれども李夫人は死んでしまったのだ」

 兄のその酷く優しそうな透き通った瞳は血の涙を流していた。兄は昔から少しも変わっていない。美しいままだ。
 夕暮れの橙の光が窓から差し込む寝台の側に佇む兄は、西方から伝わるギヤマンのように透き通って儚く美しく見える。けれど、その身中は焼けた鉄のような激しく熱い怒りが渦巻いているのを感じる。これは兄と暮らした私と広利しかわからないものだろう。
 ふと、室の入り口ががやがやと騒がしくなり、帝の玉声が聞こえた。

「私が報を聞いてすぐに飛び出してきたから心配されたのだろう、お前は本当に帝に愛されているね」
「はい」
「少し待っていろ。ここはちゃんと守らせてあるから少し休め。夜半に戻る。念の為、劉髆は一晩預かる。まだ小さい。万一毒が残っていれば危険だ」

 兄はそう言って室を出た。帝と何やら話す声が聞こえる。私は急な病に倒れ安静にする必要があることになったらしい。病か。しばらくすると声が聞こえなくなった。声が聞こえなくなったことに恐怖を覚えた。倒れたときと同じような静寂。震える肩を両手で抱きしめる。けれども今度は何も起こらず、ほっと息を吐いた。

 新しい下働きは明日平陽公主に送って頂けるらしい。それまでは兄の信頼できる者が誰も入らぬように周囲を見張っているそうだ。1人で過ごす夜は初めてかもしれない。いつも下働きか、それ以前は兄か広利兄さんが側にいた。心細い。けれども私はいつも守られている。

 そういえば体は動く。とてもだるいけれども。本当に死なないんだな。
 窓を閉めなければ。そう思い体を起こすと夜具も夜着も汗でびっしょりと湿っていた。せめて着替えようと思って前をはだけると、全身の力が抜けた。

-李夫人は死んだ。

 私の白かった体は赤く腫れ上がり、ところどころ深い亀裂が刻まれている。これは治らない傷なのだろう。

 あ、あぁ。

 思わず声が出た。私は美しくなければならない。そうでなければ意味はない。美しくなければ。兄の願いを潰えさせてしまった。私は、なんてことを。涙が止まらない。顔も腫れているのか涙が通る筋は散々に乱れ、皮膚に痛みが沁み込んだ。
 窓が開いていたのを思い出す。こんな姿は誰にも見せることはできない。急いで窓辺により、閉じる間際に空に満月が輝いているのが見えた。
 私はあの満月を知っている。草原の夜、兄が私たちの頭を撫でながら眺めていた月だ。私たちを幸せにしてみせると呟いていた。先ほどの優しい兄の声。私が長安城を訪れたときに聞いて以来、聞くことのなかった家族としての声。私はもう兄の同志ではなくなった。共に李家の呪いを解く同志ではなくなってしまったのだ。私は兄をこの後宮に一人ぼっちにさせてしまった。
 でも、今こそあの満月に私も誓う。
 私ができることはもう少ないけれど、たとえ死んでしまったとしても、私も李の家を幸せにすることを。
 何故李に会えぬのだ。朕に叶えられぬ望みなど何もないはずなのに。
 李よ。何故会えぬ。今日こそは何としても会う。

 李、そなたほど野の花のような荒々しい美しさを持つ女は見たことがない。
 衛も舞芸は美しく、後宮のお高く止まった女どもとは違う子供のような純粋さがあった。だがあれはどこか後宮の匂いがした。もともと姉上の婢で長安で生まれ育ったからだろう。どこか奇麗にまとまって訓練された美しさがあった。
 変わった貴妃もこの後宮には多くいた。西方から集めた貴妃には野趣あふれる者や珍しい姿形の者も多くいた。けれどもやはり中華のものとは相容れぬのだ。

 そこで李だ。(すもも)の華のような艶やかさと美しさ。そして北方生まれの玉のように白く吸い付くような肌と鈴のような美しい声。それに野の花のように逞しくありつつも都会の洗練さを兼ね備える趣き。同じようなものは延年くらいだ。だが延年と李では少し違う。
 延年は延年で何か妙に透き通った美しさがあり、従順なのに何か朕にも明かさぬ謎めいた部分がある。李は謎めいていつつも何か妙に暖かかった。女というものはこういうものなのだろうか。

 後宮は冷たい。8000人からの女がいても見ているのは朕の子種だけだ。ここはそういう場所でそれが貴妃の仕事だ。だから貴妃は自らを美しく飾り、それ以外の部分は隠す。意見なぞ言わぬ。どこかで聞かれれば悪いように使われてしまうからな。けれども李は隠さなかった。朕が許せば朕と異なる意見すら述べ、時には戯れた。
 それから李は同志だった。朕が信じる神仙の話を喜んで聞き、頷き、そして朕が聞いたことがないような、旅先だからこそ知り得る各地の神仙の話を語ってくれたのだ。他の貴妃に話してもこうはいかぬ。表面はにこやかに繕いながらもその目からは興味がないことは明らかだった。李のように朕の話を聞いて頷いたりはせぬ。

 もう5日も李に会うてない。
 延年は病が酷いと聞いていたが、ならば余計見舞いにいかねばならぬ。だから強引に室に入った。

 ところが李は全身を包帯で巻いた上で袖と首の長い服ですっかり体を覆い隠し、顔も枕で強く隠していた。これではあの白く輝く肌すら見る事も叶わぬ。あの白魚のような美しい指先すらも包帯で覆われている。

「李や、朕にその顔を見せておくれ」
「何卒ご勘弁下さい、後生です、どうか、何卒」
「ならぬ、顔を見せよ」
「恐れながら申し上げます」

 傍に控える延年が奏上する。

「李夫人は未だ病に蝕まれております。帝に病が感染るやもしれませぬ。お控え下さいませ」
「ならぬ。これほど元気ではないか」
「妹だからこそわかるのです。妹は帝に病を感染さぬよう全身を布で巻き、その息が帝を害さぬよう隠しております」
「主様。ふがいなく、申し訳ございません」

 朕のためだと言う。そこまで言われてしまうと、何も言えぬ。朕は引き下がるしかなかった。
 朕が引き下がるなど本来あってはならぬこと。けれどもこの李がそこまで言うのであればそのようにしよう。

「わかった。早く回復せよ」

 だが会えぬとなるとますます李のことが気にかかる。このようなことは初めてだ。後宮の女どもに来訪を拒否されたことなど一度もない。ありえぬ。
 良薬仙薬を李に送るよう申し付ける。早く良くなるように。
 李よ。
 足下に延年が侍っている。李によくにた男。延年を見るたびに李への想いが募る。
「兄上、私は死にます」
「すまないな」

 兄は優しく私の頭を撫でた。
 すまないな。
 その一言だけで全てが伝わっていることがわかった。
 毎夜兄は明け方近くに私の室を訪れる。そのころには夜番の下働き以外はみな眠りについている。夜半に男が室に忍ぶというのは本来あってはならないことだけど、そうはいっても兄は実の兄で宦官だ。私が病という理由もあり、咎められることはなかった。

「兄上、私はしばらく顔を見せないまま帝に会おうと思います。顔を見せぬままであれば美しい私がずっと帝の心に残るでしょう。私の死とともに」
「そうだね、それであれば体も見せぬほうがよい。よい布を用意しよう」
「ありがとうございます」
「それから美しい絵を沢山かかせようね。その美しさがずっと心に残るように」
「私は美しかったのでしょうか。兄上より」
「妹よ、そなたは誰よりも美しい。そうでなければならなかった。でもお前はもうただの妹だ。ゆるやかに余生を過ごせばよいとも思うのだが」
「いいえ、私は兄上とともに。ともに家族を幸せにいたしましょう」
「そうか」

 そうか。妹よ。それほど覚悟してくれていたのか。
 不甲斐ない兄ですまないな。

「劉髆のことだけがが心配です。まだ幼いのに」
「お前が死んだ後に帝に劉髆を諸侯に封じて頂けるよう進言しよう。帝は最近ますます不安定であらせられる。長安からは離れたほうがよいとの進言にはご納得頂けるように思う」
「私の死が劉髆の役に立つのですね」

 妹はゆるりと微笑んだ。
 そうだ。まずはお前の子だ。妹よ。
 俺はお前の子を李家の呪縛から解き放つ。お前の死を契機にして。
 喜べ妹よ。
 劉髆が、お前の子がきちんとした身分を得て生きていくことができるように。体を売ることもなく末永く過ごしていけるように。俺はそれを成し遂げる。
 そう言うと妹はさらに微笑んだ。

「劉髆も広利兄さんも幸せでありますように。兄上も」
「代わりに帝とどのような話をしたのか教えておくれ。特に神仙のことを。続きは俺が引き受ける。劉髆は俺が必ず守る。約束する」

 兄は優しくそう微笑んだ。
 それから帝は私の室に何度か訪れ、その度に兄は帝を止めた。
 私はすっかり元気になった。けれども肌はちっともよくはならず、ますますただれて妙な汁を吹き出すようになった。頻繁に包帯をかえて清潔に保ち続けなければ膿の匂いが室を漂う。

「兄上、そろそろお別れです」
「そうだね、いい阿片を手に入れた。苦しまずに逝けるだろう」
「ありがとうございます。帝と広利兄さんに手紙を書きました」
「俺が必ず届ける。約束する。妹よ。俺は君も幸せにしたかった」

 兄上は私が眠りにつくまでずっと側にいて、手袋越しに包帯で包まれた手を握ってくれた。
 兄上、不甲斐なくて申し訳ありません。
 私は先に参ります。
 どうかこの先、兄上に不幸が訪れませんよう。
 そして兄上が念願を果たして李家の呪縛を説いてくださりますことを。
 さようなら、大好きな兄上。
 それから劉髆、元気で。
「な、なんだと? もう一度述べよ」
「昨晩、李夫人は息を引き取りました」
「な、何を言う、あれほど元気であったではないか」
「誠に残念です」

 そう言い切る前にばさばさといろいろなものが降ってきた。
 武帝は手当り次第に俺の方に物を投げつけているのだろう。
 床に頭を擦り付け、動かず耐える。やがて手の届くところに物がなくなったのか、それは止まった。

「何故、何故だ! せめて丁重に葬儀を」
「それも昨夜のうちにすませました」
「何故だっ!?」

 武帝の息が整うのをまって告げる。

「帝。妹は毒で死んだのです。ですから帝に万一にでもその影響が及ばないよう面会を控えさせました」
「何だとっ!? 誰だ、誰が李を殺した。誰だ! 一族を皆殺しにしてやる」
「どうかお鎮まり下さい。李夫人はそのようなことは望んでおりません」
「そんなはずはないっ!」
「いいえ、ですから私も申し上げず、誠に申し訳ありません。いかようにも処罰下さい」
「何? 何故延年を罰する話になる。お前は妹を失ったのであろう」

 表をあげてほほえむ。なるべく妹に似るように。なるべく妹の面影が残るように。
 今日は予め妹が好みそうな柄の服を来て、妹に似せた化粧を施した。帝はますます妹に想いを募らせるだろう。

「至らぬ妹も不相応に帝のご寵愛を頂きましたから恨みを買ったのでしょう。何の後ろ盾もない私と妹がおすがりすることができるのは帝だけです。劉髆公子も同じ立場にあります。帝が仇を誅されれば恨みをかうことになるでしょう」
「そんな、そんなことはないぞ。なんなら劉髆は太子とする」
「なりませぬ。そのようなことをおっしゃられては。ますます劉髆公子が命を狙われてしまいます」
「ならば、ならばどうすればよいのじゃ」

 苛立ちの交じる武帝の言葉に用意していた言葉を差し出す。
 妹の願いとともに。俺の願いとともに。劉髆を一族の呪いから開放するために。

「李夫人も劉髆公子を心配されておられました。臣の身で申し上げることは誠に僭越ながら、劉髆公子をどこかに封じて頂くことは叶いますでしょうか。小さな村1つでもかまいません。ここにいる限り劉髆公子の身は危険にさらされ、私では守ることが叶いませぬ。せめて辺境にでも封じていただければ劉髆公子が太子の位を望んでいるなどという誤解が生じることも防げます」
「けれどもそんなことをすれば劉髆に会えぬではないか」
「力のなき私をお許し下さい。私は李夫人を守れませんでした。この上劉髆公子の御身を考えますれば」

 何度も頭を床に打ち付ける。涙を流す。頭上から、ぐぅ、といううめきが聞こえた。
 武帝は劉髆を贔屓できない。そうすれば権力を求める有象無象が劉髆を祭り上げ、消費され、劉髆は潰れて死ぬだけだ。そんなことは武帝は自身の経験からよく知っている。武帝も本来は帝となる立場にはなかった。武帝はやがて、苦渋に満ちた声で告げられた。

「そのように取り計らおう」

 数日後、劉髆公子を昌邑(しょうゆう)王に封じるという下知を頂いた。
 昌邑。どうやら海の近くのようだ。長安からなるべく遠く。その願いは叶えられた。

「劉髆公子、健やかにお育ち下さい。延年はそれをお祈り申し上げますね」
「えんねん、またね」

 俺は信頼できる部下をともとして、事情がよくわかっていないであろう劉髆を送り出した。
 俺は後宮からは出られない。ひょっとしたらもう会うこともないのかもしれない。劉髆が馬車で去るその轍を俺はその日、日が暮れるまで眺めた。どうか、劉髆がどこかの地で幸せに過ごせますよう。
 俺は李家の呪いのなかからようやく1人、解き放つことができたのだろうか。顔を上げて暗闇からゆったりと俺を眺め下ろす満月を眺めた。
 昌邑王というのは劉髆のために作られた地位だ。どこの馬の骨かわからない宦官の俺では後ろ盾がない。だから俺の協律都尉と同じように新しく作られたのだろう。つまり吹けば飛ぶ。劉髆の地位はまだ盤石ではない。より李家の足場を固めよう。 

 俺は日々妹に近づくよう化粧を施し、雰囲気を似せた。仕草も全て妹と同じように。
 俺がもともとどうだったのか、それはもはやよくわからくなったがそれはそれでかまわない。俺と妹の悲願は李家の呪縛を解き放つこと。妹の子劉髆は倡ではなくなった。あとは広利とその子らに長くの幸せを。

 武帝は夜な夜な俺を求め、俺の向こうに妹を求めた。
 俺は妹の話をして、妹が話すように神仙について語った。
 妹の手紙には8割がたの帝への愛と、2割程度の家族への心配がしたためられていた。
 広利は弐師将軍(じししょうぐん)に任命され、汗血馬(かんけつば)を得るために大宛に派遣された。血のような汗を流して走る馬らしい。弐師将軍も広利のために作られた役職だ。広利はもともとはただの芸人だ。やはり吹けば飛ぶ。失敗した報が届く度に妹の姿で武帝を取りなした。

 武帝は俺をモデルにたくさんの妹の絵を描かせた。
 その絵は後宮や宮廷に飾られた。妙なものだ。絵の中で妹が優しげに微笑んでいる。こんな顔だっただろうかと思って手鏡を眺めると、同じ顔が微笑んでいた。

 広利が惨敗したらしい。広利はもともとはただの芸人だ。武官としての技量はあるのかもしれないが将として学んだこともないのだろう。武帝はおそらく広利に衛皇后の弟の衛青や甥の霍去病のような英雄としての活躍を期待していたのかもしれないが、広利に将の才はないようだ。あまりの敗戦に長安への帰還禁止の命で留めている。戻ってきてしまうと論功行賞を行わねばならず、広利は罰せられてしまう。
 けれどもやはり、武帝は未だに妹を求めている。広利への厚遇は妹への執着が原因だ。この状態を固めたい。
 だから伝手を頼って道士に金を握らせた。
「偉大なる帝よ、こちらにおこし下さい」
「うむ、少翁(しょうおう)よ、そちは誠に死者の魂を呼び起こすことができるのか?」
「真でございますとも」

 朕が案内された狭い室には薄暗い帳がめぐらされ、真ん中で二つに区切られていた。その周りは燈火で囲まれている。
 帷の向かいには肉と酒が並べられており、これが死者を呼ぶという。
 調合された霊薬を玉釜で煎じた丸薬が金炉で炊かれると、発酵した草のような、熟した果物のような、得も言われぬ不思議な香りが漂った。
 
「まだなのか」
「まだでございます。霊は夜の(かそけ)きものですので。それから生きた人間は死者とは相いれませぬ。先程の約束を決して破られませぬよう」
「わかっておる。帳に触れてはならぬのだな」

 そうこうしていると、帳の奥で香の煙がうっすらと形をなしてきたように思われた。薄暗い帳の向こうで薄ぼんやりと人の形を取ってはまた崩れていく。気のせいといえば気のせいと言い切れそうな微かな残滓。

「李よ、李なのか?」

 呼び掛けども返事はない。たる思いで何度も声をかけるが煙はゆらゆらとたなびくだけだ。

「少翁よ、これは李の魂なのか」

 道士の声はいつのまにか聞こえなくなっていた。そして白い煙に当てられて、朕は心なしかふわふわとした心持ちとなってきた。
 目を凝らしているとだんだんと李の顔を形作っていくように思われる。思わず駆け寄ろうとするのを押し留める。煙のような李は帳の奥で佇んだり座ったり、ゆらゆらと揺れ動く。はっきりとは見えぬものの、確かにその所作は李そのものだった。
 妖のように神霊のように李は不可思議にゆれ、その煙は時折くっきりと形を取ってはまた崩れ落ちた。李よ、何故返事をせぬのだ。

「李よ、李よ、そこにおるのか」

 是邪非邪 李よ、お前は本物なのかそれとも幻か
 立而望之 朕はここに立ってお前を望んでいる
 偏何姍姍其來遲 けれども李よ、何故お前はそんなにゆっくりと蠢き、やってきてはくれないのか

 嗚呼。
 宮廷に飾った笑わぬ絵よりよほど朧げであるのにどうしてこれほどまでに求めてやまぬのか。李よ、お前は李なのだな。亡霊となってもこの反魂の香で朕に会いにきてくれたのだな。

 そのような悲痛な声を延年は帳の向こうで聞いていた。

 広利は精鋭と十分な糧秣を下賜されて今度こそ大宛を打ち破り、三千頭もの汗血馬を武帝に奉じた。戦果の内容は酷いものだったが、武帝も広利の戦弱さが身にしみたのだろう。武帝は広利を戦禍から遠ざけ海西(かいせい)侯に封じた。広利もようやく、誰にも恥じることのない居場所を手に入れたのだ。

 その報を聞いた夜、俺は月を眺めた。
 何かある時に見る月はいつも満月だ。草原で李家の呪縛を解くと誓ったあの夜も、初めて武帝に召された夜も、妹が初めて武帝の前で舞った夜も、そして妹が毒を受けた夜も。
 でもこれで。李家の呪縛は解けた。最後の俺以外は。俺はいいんだ。俺は家族の呪縛を解くために長安城に刺さった楔なのだから。このまま広利と劉髆と、その子や孫が幸せになれば俺はいい。もとより俺は子が成せない体だ。俺で呪いを終わらせる。ここからは出られないから、広利と劉髆に会うことももうないのだろうな。そう思うと少し物寂しく感じる一方、呪いから自由になった彼らを喜ばしく感じる。
 こころからため息をついた。これで妹の子も弟も李家の呪いから解き放たれた。
 満月を再び眺め、久しぶりに1人で酒を嗜む。密やかな祝杯だ。俺の中とあの世にいる妹よ。宿願は果たしたぞ。2つ並べた杯に酒を注ぎ、静かに小さな杯を乾した。
 武帝は反魂の儀を試みて後、さらに多くの道士や法士を求めるようになった。少翁に再び反魂の秘術を乞うたが、少翁はこの間が特別で人は本来亡者にかかわってはなりませぬと言われた。だから武帝はますます怪しげな仙術紛いに傾倒していった。そして巫蠱の獄が起きた。

 まずい、まずいぞ。恐れていたことがまさかこんな形で起こるとは。
 太子の劉拠と衞皇后が死を賜った。つまり、今は太子が空位だ。今長安城にいる公子は劉弗陵(りゅうふつりょう)のみであり、その齢は未だ3つだ。つまり、既に封じられている劉髆が巻き込まれる可能性がある。通常は王や候に封じられてしまえば公子に戻ることなどない。
 けれども、いや、李家の呪いはまだ続いているのか。運命はあくまで俺の家族を不幸にするというのか。呪いは何としても俺で留めなければ。吹き出す汗が止まらない。

 武帝は既に齢六十の半ばを超え、体が効かず朦朧とする日々が増えていた。おそらくそれほど長くはないだろう。劉拠太子が帝となる日も近いのだろうとぼんやりと思っていた。
 近頃は俺も流石に年を取り、詩吟以外に帝の側近くに侍ることもなくなった。そして後宮の中でも武帝の中でも、妹はすっかり過去のこととなっていた。
 この後宮では全ての事象が儚く移ろう。いなくなった者のことに拘泥する者はいない。帝の寵も鉤弋(こうよく)夫人、(おう)夫人へと移り変わっている。けれどもそれでよいと思っていた。すでに弟妹の呪縛は解けたのだ。俺の望みは叶えられた。新帝の御代となれば後宮が一新されるだろうけれど、楽府に残れず放逐されたとて十分な私財は手にしていたからそれはそれでよい。そう思っていた。
 後宮の内が外からわからないように、後宮の内から外の世界はよくわからなかったのだ。後宮とはそもそも移ろうもので、その絶対的な価値はただ頂点にあらせられる帝の寵愛しかないのだから。

 けれども後宮の外はよほど相対的で複雑だった。様々な者と思惑が交錯する世界。
 武帝は年若くして即位され長い年月統治を行ってきた。そのため太子劉拠もすでに齢40近い。凝り固まり淀んだ治世。その歪みが人と人との間に堆積し、汚泥のように深く積もり、ぎしぎしと身動きが取れないようになっていた。
 その複雑な汚泥は武帝の崩御とともに刷新され、劉拠太子の世に切り替わる。そのはずだった。そうすると後ろ盾のない江充(こうじゅう)のような立場など吹けば飛んでしまうのだろう。そして恐らく江充には死が待っていた。だから江充はあのような行動を起こしたのだろう。

 江充は官吏だ。俺も儀典で何度か会ったことがある。つまらなそうな表情の真面目な男という印象だった。その江充の真面目さを武帝はいたく気に入ったと聞く。

 こんな話がある。もともとは妓女であった江充の妹が(ちょう)の太子(たん)に娶られたが、江充は太子丹の悪事を趙王と武帝に奏上したのだ。その結果、太子丹は死罪となった。そして当然のことながら、江充は趙王に深く恨まれている。
 同じようなことが江充と劉拠太子の間にもあった。ある時江充はほとんど使用されていない武帝専用の通路を劉拠太子の使者が横切ったのを見咎めたそうだ。誰かに害があるものではない。だが江充はその真面目さゆえ、劉拠太子が言わないでほしいと乞うにもかかわらず武帝に奏上した。武帝はおもねらない者だと江充をいたく褒めてより信用なされるようになり、江充は監査役の命をうけた。
 けれども当然ながら、江充と劉拠太子の関係は悪化した。劉拠太子の御代となれば放逐は免れまい。それに俺と異なり阿らない江充は敵を多く作ってしまっていた。

 その夏、武帝はお体を崩され、騒がしい長安城を離れて北西の静かな甘泉宮(かんせんきゅう)に移られた。
 俺が長安城で楽府の仕事をしていると、突然官吏が室に入り調べ始めた。何事かと尋ねると、また巫蠱(ふこ)の儀が行われたという。巫蠱の儀とは地中に呪物を埋めて人を呪うものである。
 ここのところこういう話ばかりだ。先だっても武帝が不審な影を見かけ上林苑のあたりまで大捜索が行われた。その後も不正を行っていた朱安世(しゅあんせい)が捉えられた際に公孫敬声(こうそんけいせい)が甘泉宮への道の途中で巫蠱を仕掛けたという話がうかんだ。それから始まり、多くの者が獄死した。
 武帝は巫蠱を酷く嫌われている。ご自身も陳皇后に巫蠱の儀をかけられ、それがもとで陳皇后は放逐されたと聞く。

 官吏に詳細を尋ねた。武帝が体調の不良を嘆かれた際、江充から武帝に巫蠱の儀が行われた疑惑があるとの誣告があったそうだ。これまでの江充の進言からも恐らくそれは正しいのだろう。そもそも後宮というものは毒や呪いが横行している。妹もそれで死んだようなものだ。これを機に怪しげなものを一掃してほしい、俺は単純にそう思っていた。
 ところが巫蠱の出どころが問題だった。劉拠太子の邸より巫蠱が見つかったのだ。そのころには世間では澱の重なる武帝の御代から劉拠太子の新しい御代への期待が高まっていたらしい。だから劉拠太子が巫蠱の儀を行ったという話も世間ではありうるものとして受け止められ、それが武帝の耳にも入ったようだ。

 けれども以前平陽公主の席でお会いした劉拠太子は真っ直ぐな方だった。巫蠱など使うようには思えない。劉拠太子は冤罪と主張し江充を切った。だが曲がりなりにも江充は監査役として調査を行なったのだ。そのため武帝は丞相の劉屈氂(りゅうくつり)に劉拠太子の討伐を申しつけたそうだ。

 最終的には劉拠太子のみならず衛皇后も死を賜り、その一族の多く、そして賓客とされていた者までが処刑された。
 そしてこの江充による誣告を皮切りに多くの虚実乱れた巫蠱の罪の誣告が蔓延した。
 よくよく考えてみれば巫蠱の儀など他人の家に呪いを埋めておけば巫蠱を行っていたという言いがかりをつけられる。既に家にある以上、自分のものじゃないという証明なんてできやしない。違う証明なんてできない。

 その年の長安は異常な緊張につつまれ、武帝が甘泉宮から戻られるまで濃い死の匂いが漂い続けていた。改めて調べ直したところ劉拠太子は冤罪であり、江充の誣告が政敵を葬るためのものであったことが知れ、江充の一族は全て誅殺されたが、もう劉拠太子は戻らない。
 武帝は酷く落胆なされてますます神仙に傾倒された。長安全体におぞましい空気が漂った、という。というのは俺は相変わらず世と隔絶された後宮にいて、人づてに聞く話しか知ることができなかったからだ。

 だが時折聞く劉屈氂という名前。その名は広利から聞いたことがある。広利の娘婿の父。だが良い印象がない。嫌な予感がした。とても嫌な予感が。
 俺は白い装束を纏い、久しぶりに薄く化粧を施して宮廷の廊下を歩いていた。
 なるべく胸をはった。俺が潔白であることを示すために。
 時折すれ違う官吏は俺の姿にギョッとして目を伏せた。
 俺の人生は既に後宮の外にいた時間よりここにいる時間のほうが長かった。
 楽府に向かう時によく通る通路。奇麗に彩色された欄干。そして美しく切りそろえられた青々とした木々と艶やかな花々。そびえる清涼な山々。見上げた薄く青い空の端には、やはり小さな満月が白く浮かんでいた。
 満月なのだな。なんとはなしにそう思う。
 昼の月は夜見る月よりほんの少しだけ小さく見えた。

「何卒昌邑王をお許しください」

 跪き、地に額を擦り付けた。

「延年よ。残念ながらそれはできぬ。できぬのだ」
「存じております。けれどもお調べになられたでしょう。昌邑王はなにも関与していないことを」
「それは知っておる。表をあげよ」

 顔を上げると武帝はやつれ、病の色が濃かった。

「私は以前、帝にも平陽公主にも申し上げました。昌邑王には太子となるつもりがございませぬと」
「それも知っておる。知っておるのだ。だが、ならぬ。示しがつかぬ」

 武帝は嘆息した。けれども俺はなるべくにこやかに微笑んだ。
 そう。本来は許されるはずがない。
 俺が心配していたとおり、劉髆は祭り上げられてしまったのだ。劉髆の知らぬ間に。

 首謀者はやはり劉屈氂だった。劉屈氂の息子は広利の娘を娶っている。その縁で、広利が武帝より匈奴討伐の命を受け出兵する際に酒宴を開いた。劉拠太子が死を賜った巫蠱の獄の直後のことだ。
 そしてその際に劉屈氂は広利に、武帝に昌邑王、つまり劉髆を太子に立てるよう請願したらどうかと勧めたそうだ。そうすれば今後の憂いはなくなると述べて。それを笑って流したという手紙が広利から届いている。それはすでに武帝に提出してある。

 時期を考えると恐らく劉拠太子の冤罪にも劉屈氂が噛んでいるように思われた。劉屈氂と江充は宮殿で会うことも多かったのだろう。どこからどこまでは計画であったのかはもはやわからない。
 劉屈氂の息子は劉髆の義理の従兄弟となる。劉髆が太子となり次期帝となれば劉屈氂はその権勢を思うまま振るうつもりだったのだろう。広利の娘と劉屈氂の息子が婚姻するのを防げばよかったのかも知れないが、残念ながら俺には後宮の外のことなど全くわからぬ。
 本当であれば広利も無実なのだ。だが広利はもう無理だろう。その内容を知っていて、且つ首謀者である劉屈氂の外戚にあたるのだから。今は広利は匈奴に出兵しているが、そのままどこかへ逃げることを願うのみだ。やはり李家の呪いからは逃れられぬのか。暗澹たる想いを笑みに隠す。
 いや、劉髆だけはなんとしても。

「延年よ。そなたは何を笑っておるのだ」
「帝、それは私も昌邑王も何ら恥じるところがないからです」
「本来なら族誅は九族滅亡と定められているから昌邑王に累が及ぶことはない。しかし知らぬ間にとはいえ、劉髆は張本人なのだ。帝位簒奪は巫蠱の儀などよりよほどの大罪だ」
「ですから私で代わりとして頂きたく」
「延年よ、お前はそもそも九族に含まれない」

 武帝は苦しげに述べた。
 なんとはなく、妹が死んだ直後の様子が思い浮かばれた。
 そうだ、俺と妹はよく似ている。
 もはや帝の寵は他の貴妃に移っていたとしても、武帝にとってあれほど死を悼んだ妹を再び失うことは耐え難いはずだ。そうすれば、妹を失った時の妹の願いは叶えねばならぬ心持ちになるというもの。どうか、どうか劉髆をお助け下さい。

「存じております。ですが私は昌邑王より近く帝に侍っておりました」
「だがお前も知らなかったのだろう?」
「献上致しました手紙の通り、広利からの手紙で気づくことができたのかもしれません。それが私の罪でございます」
「馬鹿な。あんな手紙で何がわかる。ただの酒の席でのことだ」
「昌邑王はその手紙すら、見てはおりません」

 なるべく妹に似せて笑む。武帝に妹の手紙と妹を思い出してもらうために。

「昌邑王は李夫人の子です。私はしがない宦官に過ぎません。私にはなんの力もありません。だから昌邑王を守ろうと帝に封じて頂きました。けれどもそれでもまだ私は守ることはできなかった」
「だから延年のせいではない」

 こころなしか気遣うような音があふれる。
 妹よ。俺が勝手に始めたことなのに俺に付き合って散ってしまった妹よ。
 お前はあの時、俺の願いは成就すると言ってくれた。
 だから俺は何が何でも成就しなければならないのだ。
 俺は劉髆を守る。だから力を貸してくれ。妹の魂よ。

 そう強く思っていると、奇妙なことが起こった。ふいに宮外から風が不思議に吹き込み、煙のような白いもやが窓からさらりと吹き込んできた。
 いつか道士が焚いた香のように不思議な香りのたつその煙は俺の周りをくるりと漂い、そして帝に向かう。そしてそれに武帝も気がついた。

「李、李なのか? また現れてくれたのか?」

「李、李なのか? 現れてくれたのか?」

 武帝は少し慌て、その白い靄に手を伸ばした。
 それは不思議に濃淡ができ、いつしか女性の姿を薄っすらと形作った。

「李。すまなかった。朕は知らなかったのだ。李が暗殺されたことなど」
「李、お前を失って朕はとても悲しんだ。これほど悲しみを覚えたことなど他にはない」
「李。お前は変わらず美しいなぁ。誰よりも」

 空気が少しだけ振動するのを感じる。
 俺には妹の声は聞こえなかったが、武帝と妹は何かを語らっていた。
 妹の姿は醜い姿ではなく美しい姿のまま武帝に刻みつけられている。
 薄っすらとその煙のなかから浮かぶその姿は俺と同じくすこし微笑んでいるようだった。
 ふいに武帝が俺をみて涙をこぼした。
 どうか。どうか劉髆の命をお助けください。帝よ。
 それが俺の、そして妹の願いです。
 再び俺は跪き、妹が飲んだものと同じ阿片を煽る。

「帝、どうか私の命をもって私の代わりに昌邑王をお助けください」
「延年、待て、今何を飲んだ⁉ 医官。誰か速く医官を」
「帝、李家の不幸は私が全て贖います」
「なんのことだ延年、お願いだ、死なないでくれ、どうか」

 武帝が玉座を離れ俺に近づいてくる。
 とろけるように瞼が落ちてくると、ふいに妹の形をした煙が俺の上に重なり、体がふわりと軽くなった。
 暗い。死とはこのようなものなのか。もう体は何も動かない。けれど、妹がともにあるのを感じる。ふと口から音がこぼれているのに気がついた。

『尊き主様。どうか、劉髆をお助けください』
「李なのか? 延年なのか?」
『それだけを、どうか。私たちの祈りを』
「わかった、助ける。必ず助けるから、だから行かないでくれ。後生だ」
『主様、ありがとうございます。私も延年もとても幸せです』

 ふいになにかに引っ張られる気がして、俺が俺の体からぺりぺりと引き剥がされるような感触がした。
 ぼんやりと目を開けると、ふわりと宙を漂っている心持ちになった。

『兄上、もう大丈夫。李家の呪いは兄上の体とともに地上に置いてきました。もう兄上は自由です』

 そう、か。
 なんだかふわふわと空を登っていく心持ちだ。
 長安城を上から眺めているような。不思議な気持ちだ。
 そう思うと次第に高度が高くなり、より遠くまで見渡せた。
 視線は秦嶺山を超え、眼下には緑が広がっている。
 かつて、家族とともに苦労して超えた山が小さく見える。

『兄上、私たちが生まれた平原はあのあたりですよ』

 少し離れたところに草色の原が広がった。思ったより近いのかな。あんなに歩いたのに。
 そして空を見上げると、薄い青色の空にただ1つだけ白い満月が浮かんでいた。
 そうか、俺は地を這わずに空を眺めているのだな。

『一緒に月に行きましょう。あの恒久の月に。桃源郷で楽しく暮らしましょう、兄上。そこで広利や劉髆が来るのを一緒にまつの』

 桃源郷、か。月に桃源郷があると、そういえば昔そう願っていた。

『もう手が届きます。私にも、兄上にも』

 そうだ、な。

◇◇◇

 その後、劉髆は何も知らなかったこと、李延年がその代わりに自死を賜り責を果たしたということで罪に問われることはなかった。
 武帝は長い間太子位を空白とし、亡くなる間際に大司馬将軍に任命した霍光(かくこう)に命じて、その崩御後、李夫人に考武(こうぶ)皇后の名を贈らせ、皇后の格式で祭祀を行わせた。生前に諡号を送ればまた劉髆が祭り上げられると考えたのかもしれない。
 劉髆の息子はその後短期間帝に即位したが廃され、劉髆の4人の子女には湯沐邑(とうもくゆう)の土地を千戸下賜されてその家は長く続いたという。

おしまい。

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