その言葉に、華の手から力が抜けた。
 先代の嵐妃は手の甲に花型の痣があったそうなので、簡単に人に見せられたわけだが、華の場合は際どいところに刻まれているので、男性に見せるのは憚られる。
 けれど、華の出自を明らかにしてくれたのは瑛琉なので、恩人に見せないわけにもいかないだろう。
「い、いいわ……。ちょっとだけなら……」
 夜着の裾を捲り上げれば、上半身は曝さずに、腰の痣を見せられる。ただし太股と下穿きが、すべて見えてしまう。
 瑛琉は恐ろしいほどに炯々と双眸を光らせている。頰を朱に染めた華は、もじもじと夜着をたぐり寄せた。
「俺が捲るか?」
 平然と問われて、ぎょっとする。
 彼のてのひらは膝頭から離れない。布越しとはいえ、男の熱い手を急に意識してしまい、華は慌てて払いのけた。
「わ、私が自分で捲るから、瑛琉はさわらないでね」
「善処する」
 その返答は了承ではなく、できうる限りがんばるけど耐えきれないときはさわるという意味では?
 彼の意図するところを察して口端を引きつらせたが、椅子に腰かけた華にかぶりつくように瑛琉が跪いているので逃げ場がない。
 観念した華は、そろりと夜着の裾をたくし上げた。
 痣がある腰のところだけを曝そうと、裾の端を引っ張り、下穿きを隠す。
 左側の腰骨の上に、花びらのような痣が現れた。それを瑛琉は食い入るように見つめる。
「……なるほど。先代の嵐妃に刻まれていた花型の痣に酷似している。これは花びら一枚のみだが、完成するとまったく同一のものになるな」
「瑛琉は、先代の嵐妃に会ったことがあるの?」
「ああ。子どもの頃だけどな。だが公正を期すだとか言われて、嵐妃の娘――つまり華には会わせてもらえなかった。そのときにはもう、園にいなかったんだろうな」
 今となっては先代の嵐妃がなにを考えていたのか不明だが、華としては母親と暮らしたかった。両親とともに暮らす平和な日常があればそれだけでよかった。華を手放したのには、なんらかの事情があってほしいと願わずにいられない。
 うつむいた華は、生温かな感触を腰に感じて、ふと目を向ける。
「ひぃっ⁉」
 引きつった悲鳴が喉元から漏れた。
 ぬろりと舌を出した瑛琉が、腰の痣を舐め上げていたからだ。
「ななななにするの⁉」
「さわってないだろ。舐めたら血流が高まって、残りの花びらが浮きでてくるかと思ってな」
「舐めるのもだめ!」
 焦った華は腰を浮かせ、瑛琉の額をてのひらで押し戻す。皇子に対して不敬だが、かまっていられない。
 瑛琉は抵抗をものともせず、強靱な腕をまわして華の腰を抱き寄せた。
「もう少し舐めさせろ。おまえの肌は美味い」
 目的が変わっている気がする。舐めても痣が浮きでるわけがない。
 なんとしても牙城を崩させまいとした華は夜着をひるがえし、捕まえようとする瑛琉から逃げ回った。

 瞼を開けると、朝陽が射し込んでいる豪奢な寝室が目に映る。
 広い寝台で身を起こした華は、昨日の出来事が夢ではないのだと実感した。
 華嵐妃となり、これからは宮殿で過ごすことになったのだ。もう饅頭屋で働かなくともよいし、地代の支払いに頭を悩ませなくとも済む。
 礼をした宮女たちの手により、夜着から着替える。
 高貴な妃しか纏えない襦裙は、名匠が手がけた最高級品だ。
 朱の背子には金糸で精緻な花鳥が織り込まれている。撫子色の裳はさらりと揺れ、肩にかけた薄紅の被帛には細やかな花模様が刺繍されていた。
 こんなにも綺麗な衣装を着たのは初めてなので、緊張した華は身動きがとれない。
 しかも宮女は黄金の宝冠を台座に用意した。まさかこれを結い上げた髪に乗せるというのだろうか。重くて首がもげてしまうではないか。
「あの……宝冠はつけなくてけっこうです」
「華嵐妃様は園の主でございます。この宝冠を身につけるのは、主としての慣習となっております」
 嵐妃の園での慣習があるらしい。
 主と言われても、華にはそのような自覚が持てない。
 そのとき、着替えの間に瑛琉が顔を出した。
「おはよう。そういう恰好も似合うじゃないか」
 昨夜は壮絶な追いかけっこの末に帰ってもらったが、瑛琉は懲りもせず、饅頭屋を訪れるときとまったく同じ態度である。
 着替え中に入室するのはどうなのかと思うが、宝冠を断りたいところだったので瑛琉に助けを求めた。
「おはよう、瑛琉。この宝冠をつけるのは慣習だそうだけれど、首が折れてしまうので断ろうと思っていたところだったの」
「首が折れるのは困るな。華はまだ慣れていないわけだし、今日はいいだろう。俺が代わりの飾りを挿してやるよ」