店員がいないから金を払わなくていいだろうと解釈する人間の性が悲しかった。
「俺が店を手伝ってやるよ。婆様の具合が悪いから、店先を離れないといけないんだろう?」
その言葉に上目を向けると、瑛琉の澄み渡った双眸と正面からぶつかる。
彼は一年ほど前からふらりとこの街に現れ、饅頭屋に足しげく通っている男だった。
眦の切れ上がった精悍な相貌の瑛琉は、体躯のよい美丈夫だ。年齢は二十三歳だそうなので、華より年上である。
仕事はなにをしているのか、華は知らない。剛健な肩と強靭な胸板は武道の心得があると思わせるが、道場を営んでいるわけではないという。用心棒にしては、いつも上質な衣を纏っていた。立ち居振る舞いに品があるので、裕福な家の子息なのかもしれない。
「そういうわけにはいかないわ。婆様が瑛琉のことを認めてないもの」
「まったく……あの婆様の頑固さには困ったもんだな」
なぜか婆様は瑛琉を嫌っていた。婆様が店に立っていたときは、早く帰れと瑛琉を追い返したこともある。
瑛琉は好青年であり、毎日のように饅頭を買ってくれる上客だ。しかも、度々華を気にかけて、店を助けてくれる。彼のなにが婆様の機嫌を損ねるかといえば、正体がわからないところだろうか。
「とりあえず、饅頭をひとつくれ」
「はい。いつもありがとう」
蒸輿から饅頭を取りだし、瑛琉の差しだした竹かごに入れる。すると彼は、代金とともに包みを渡してきた。
「なにこれ?」
「薬だ。婆様に飲ませてやれ」
上等な布に包まれた小さな竹筒は封がしてある。薬は高価なので、饅頭のひと月分の売上でも買えないほどだ。華は目を見開いた。
「わ、私は薬代なんて払えないわよ?」
「金はいい。俺の善意だ。薬といっても咳を楽にするだけのものだ。婆様の病気を治すには、医者に診せたほうがいい」
「それは……そうなんだけど……」
そのような金がないことは瑛琉にもわかっているはずだ。瑛琉が言葉を紡ごうとしたとき、彼の背後に派手な恰好の美女が現れた。
「瑛琉、なにしてるの?」
彼女は地主の娘の麗だ。美男子の瑛琉が華にかまうのが気に入らないらしく、いつもこちらをにらんでくる。咄嗟に華はうつむき、作業するふりをした。
腕に巻きついてくる麗に、瑛琉は嫌そうに眉を寄せる。
「麗か。俺がなにをしようが勝手だ。今は華と話している最中だから邪魔しないでくれ」
「そんなのあとでいいじゃない。お父様がこの店に用事があるんですって。わたしたちは茶館でお茶でも飲んでいましょうよ」
麗の言葉に、華はぎくりとした。
ちらりと目を向けると、麗の父親である李はすぐ近くの飯屋の主人と話している。でっぷりとした李はこの一帯の地主であり、街の権力者だ。
婆様の危惧した”あの男”とは、ひとりは瑛琉である。そしてもうひとりは、地主の李だ。
鋭い眼差しで李の姿を一瞥した瑛琉は、「そうだな……」とつぶやくと、腕に絡ませた麗とともに立ち去った。
ふたりは結婚するのかもしれない……と、ぼんやり華は思った。
地主の娘である麗の手に入らないものなどないだろう。瑛琉もお金持ちの子息のようだし、裕福な家の者同士が結婚するのは世の道理だ。
もし、私が瑛琉と結婚できたなら……。
ありえない夢想を、華は打ち消した。
そんなことは境遇が許さない。それに金の世話になるために瑛琉と結婚するなんて、想像するだけでも彼に対して失礼だ。
飯屋の主人を罵倒した李が、こちらにやってきた。
はっとした華は、咄嗟に薬を懐に隠す。
「おい、なにを隠したんだ? 見せろ」
横暴な李に逆らうことなどできず、華は仕方なく瑛琉からもらった包みを差しだした。
「薬です。婆様の咳を和らげるためのものです」
「ふん。貧乏人のくせに薬だと? どうせ盗んだんだろう」
「違います!」
盗んだわけではないけれど、瑛琉の名を出せば、彼に迷惑をかけてしまう。なにも言えない華は、李が包みを懐にしまうのを見ていることしかできない。
せっかく、瑛琉が薬をくれたのに……。
悔しさに唇を噛みしめた華に、李はさらに追い打ちをかけた。
「ところで、金は用意できたか? できるわけないよな。明日には立ち退いてもらうぞ」
引き上げられた地代を払いきれない店主は、李から立ち退きを迫られているのだ。この辺りの商店は李に逆らったら商売ができない。ほかの店主たちも金の工面に奔走しているようだが、病気の婆様を抱えた華には無理な要求だった。
ここから追い出されたら、野垂れ死ぬしかなくなってしまう。
華は両手を合わせて必死に頼み込んだ。
「お願いです、李さん。もう少し待ってください。お金はなんとかしますから」
「ムダだ。おまえらのような貧乏人に金が用立てられるわけないだろう。地代が払えないなら、おまえはわしの愛人になれ」
それは地代の代わりに、李と枕をともにするということだ。身売りと同じである。
「で、できません! 私の体には痣があるので、李さんのお目汚しになりますから」
「俺が店を手伝ってやるよ。婆様の具合が悪いから、店先を離れないといけないんだろう?」
その言葉に上目を向けると、瑛琉の澄み渡った双眸と正面からぶつかる。
彼は一年ほど前からふらりとこの街に現れ、饅頭屋に足しげく通っている男だった。
眦の切れ上がった精悍な相貌の瑛琉は、体躯のよい美丈夫だ。年齢は二十三歳だそうなので、華より年上である。
仕事はなにをしているのか、華は知らない。剛健な肩と強靭な胸板は武道の心得があると思わせるが、道場を営んでいるわけではないという。用心棒にしては、いつも上質な衣を纏っていた。立ち居振る舞いに品があるので、裕福な家の子息なのかもしれない。
「そういうわけにはいかないわ。婆様が瑛琉のことを認めてないもの」
「まったく……あの婆様の頑固さには困ったもんだな」
なぜか婆様は瑛琉を嫌っていた。婆様が店に立っていたときは、早く帰れと瑛琉を追い返したこともある。
瑛琉は好青年であり、毎日のように饅頭を買ってくれる上客だ。しかも、度々華を気にかけて、店を助けてくれる。彼のなにが婆様の機嫌を損ねるかといえば、正体がわからないところだろうか。
「とりあえず、饅頭をひとつくれ」
「はい。いつもありがとう」
蒸輿から饅頭を取りだし、瑛琉の差しだした竹かごに入れる。すると彼は、代金とともに包みを渡してきた。
「なにこれ?」
「薬だ。婆様に飲ませてやれ」
上等な布に包まれた小さな竹筒は封がしてある。薬は高価なので、饅頭のひと月分の売上でも買えないほどだ。華は目を見開いた。
「わ、私は薬代なんて払えないわよ?」
「金はいい。俺の善意だ。薬といっても咳を楽にするだけのものだ。婆様の病気を治すには、医者に診せたほうがいい」
「それは……そうなんだけど……」
そのような金がないことは瑛琉にもわかっているはずだ。瑛琉が言葉を紡ごうとしたとき、彼の背後に派手な恰好の美女が現れた。
「瑛琉、なにしてるの?」
彼女は地主の娘の麗だ。美男子の瑛琉が華にかまうのが気に入らないらしく、いつもこちらをにらんでくる。咄嗟に華はうつむき、作業するふりをした。
腕に巻きついてくる麗に、瑛琉は嫌そうに眉を寄せる。
「麗か。俺がなにをしようが勝手だ。今は華と話している最中だから邪魔しないでくれ」
「そんなのあとでいいじゃない。お父様がこの店に用事があるんですって。わたしたちは茶館でお茶でも飲んでいましょうよ」
麗の言葉に、華はぎくりとした。
ちらりと目を向けると、麗の父親である李はすぐ近くの飯屋の主人と話している。でっぷりとした李はこの一帯の地主であり、街の権力者だ。
婆様の危惧した”あの男”とは、ひとりは瑛琉である。そしてもうひとりは、地主の李だ。
鋭い眼差しで李の姿を一瞥した瑛琉は、「そうだな……」とつぶやくと、腕に絡ませた麗とともに立ち去った。
ふたりは結婚するのかもしれない……と、ぼんやり華は思った。
地主の娘である麗の手に入らないものなどないだろう。瑛琉もお金持ちの子息のようだし、裕福な家の者同士が結婚するのは世の道理だ。
もし、私が瑛琉と結婚できたなら……。
ありえない夢想を、華は打ち消した。
そんなことは境遇が許さない。それに金の世話になるために瑛琉と結婚するなんて、想像するだけでも彼に対して失礼だ。
飯屋の主人を罵倒した李が、こちらにやってきた。
はっとした華は、咄嗟に薬を懐に隠す。
「おい、なにを隠したんだ? 見せろ」
横暴な李に逆らうことなどできず、華は仕方なく瑛琉からもらった包みを差しだした。
「薬です。婆様の咳を和らげるためのものです」
「ふん。貧乏人のくせに薬だと? どうせ盗んだんだろう」
「違います!」
盗んだわけではないけれど、瑛琉の名を出せば、彼に迷惑をかけてしまう。なにも言えない華は、李が包みを懐にしまうのを見ていることしかできない。
せっかく、瑛琉が薬をくれたのに……。
悔しさに唇を噛みしめた華に、李はさらに追い打ちをかけた。
「ところで、金は用意できたか? できるわけないよな。明日には立ち退いてもらうぞ」
引き上げられた地代を払いきれない店主は、李から立ち退きを迫られているのだ。この辺りの商店は李に逆らったら商売ができない。ほかの店主たちも金の工面に奔走しているようだが、病気の婆様を抱えた華には無理な要求だった。
ここから追い出されたら、野垂れ死ぬしかなくなってしまう。
華は両手を合わせて必死に頼み込んだ。
「お願いです、李さん。もう少し待ってください。お金はなんとかしますから」
「ムダだ。おまえらのような貧乏人に金が用立てられるわけないだろう。地代が払えないなら、おまえはわしの愛人になれ」
それは地代の代わりに、李と枕をともにするということだ。身売りと同じである。
「で、できません! 私の体には痣があるので、李さんのお目汚しになりますから」