ようやく丞相が帰ってくれたので、溜息をついた華は豪奢な椅子にもたれた。
 お茶を淹れた宮女から、「このあとは光禄寺郷が挨拶に訪れる予定です」と言われて、華はそっと手にした茶碗を卓に戻した。
 偉いお爺さんたちの話を聞くのは、もう限界だ。瑛琉が来ないのも気にかかる。もしかして、怪我の具合が思ったより悪いのだろうか。
「瑛琉……青龍皇子がまだ来ないけれど、なにか聞いていない?」
「青龍様は皇帝陛下のお呼びだしに応じて、宮廷へおいでになっているそうです」
 急用で来られないだけらしい。怪我が悪化したのではないとわかって、ほっとした。
 けれどこのままでは、官人たちからさらに長い説教を聞かされることは想像に易い。
 少しだけ散歩に出かけてくると言って、華は主殿を抜けだした。
「ふう。身分が高いと、低いときとは別のことで窮屈なものね……」
 主殿を中心として巡らされている水路の東側には、青龍殿がある。
 瑛琉はもう戻ってきているだろうか。精悍な彼の顔が脳裏をよぎった華は、東へ足を向けた。
 園を縦横に走っている水路はごく浅く、美しい景観を見せるために造られた人工の川である。
 さらさらとした水のせせらぎが耳を撫でる。水路の底に敷かれた玉砂利が陽の光を受け、光り輝いていた。
 ふと華は懐から、青龍の指輪を取りだした。
 太陽にかざすと、一段と青の宝玉が煌めく。
 皇子たちはそれぞれの四神獣を象徴する指輪をはめている。預かったままになっているが、これは瑛琉に返したほうがよいだろう。
 華嵐妃が贈り物を返すのは、皇帝の資格を剥奪することになるだとか……。
 けれど、四神の指輪は別物ではないだろうか。
 物思いに耽っていたそのとき、どんっと背を押された。
「きゃっ!」
 均衡を崩して足を滑らせ、水路に落下してしまう。
 ばしゃりと高い水音が鳴り、咄嗟に川底に手をついた。
 振り向くと、茂みの向こうに走って逃げていく男の後ろ姿が目に入る。
 彼に突き落とされたのだ。着ている衣から、どこかの宮殿に仕える宮男と思われる。
 でも、どうして。
 呆然として立ち上がると、胸から下までずぶ濡れになっていた。
 はっとした華は、青龍の指輪を持っていないことに気がつく。
「あっ……指輪は⁉」
 落下した衝撃で、水路に落としてしまったのだ。
 慌てて水底を探るが、玉砂利が光を反射させているので判別しにくい。
 川の流れはゆるやかなのだが、指輪のような軽いものは流されてしまうかもしれない。
 華は腕を濡らし、必死になって指輪を探した。
 どうしよう、あの指輪がないと、瑛琉はどうなってしまうの……?
 涙目になりながら水路を往復しては身をかがめる。だが指輪はどこにも見当たらなかった。
「もし。どうしました?」
 ふいに柔らかな声をかけられ、顔を上げる。
 少年の面差しを残した黒髪の男性が、心配げな表情で水路縁からこちらをうかがっていた。翡翠色の深衣を纏い、金の刺繍を施した豪奢な帯を巻いている。
 彼は先ほど突き落とした宮男ではない。衣装も異なるが、あの宮男はかなり背が高かった。彼はそれよりずっと小柄で華奢だ。華より少々上背があるくらいである。
「指輪を落としてしまったの……、とても大切な指輪で……」
「そうなのですね。でもそんなに濡れたら、風邪を引いてしまいます。落とし物は宮男に探させますから、どうか川からあがってください」
「だけど……あの指輪がないと……」
 諦めきれないでいると、少年は水路へ下りた。豪華な衣装が膝まで水に濡れてしまう。
「あっ……あなたも濡れてしまうわ!」
 くしゅん、と少年は小さなくしゃみをこぼした。
 華の傍にやってきた彼は、袖で口元を押さえると、大きな黒い目をゆるめる。まるで子犬のようなかわいらしさだ。
「お願いです。僕が風邪を引かないうちに、一緒に水からあがりましょう」
 もしかしたら彼は体が弱いのかもしれなかった。指輪を落としたのは華の過失なので、巻き込むわけにはいかない。
 少年に袖を引かれ、華は水路から出る。
 ずぶ濡れになったふたりの足元には水溜まりができた。
「あなたをこのままお返しするわけにはいきません。僕の宮殿で着替えましょう」
「宮殿……というと?」
「あちらです」
 少年が指し示した方角は、主殿の北にある玄武殿だった。
 あそこは第四皇子の玄武が住む宮殿だ。見ると少年の手には、鮮やかな緑色の宝玉を冠した指輪がはめられていた。
「あなたはもしかして、玄武皇子なの?」