中原の大国である嵐陵国には、変わった伝承がある。
皇帝の妃嬪たちが住む後宮の奥に、男だけの園があるという。男後宮に住む彼らは、特別な女性からの寵愛を得るために研鑽しているのだとか。
皇帝をしのぐ権力を持つと言われるその女性の名は、嵐妃――。
伝説の嵐妃について語る客たちの噂話を、華は溜息交じりに聞き流した。
市井で貧しく暮らす者たちにとって、煌びやかな禁城は遠くから見ることしかできない憧れの場所だ。まして、その奥にあるという秘密の園に君臨する伝説の妃はどれだけ豪華な生活をしているのだろうと、想像を巡らせるのも楽しいかもしれない。
けれど、華にはまったく関係のないことだった。
彼女の頭を悩ませているのは、どうやって生活のための金を工面するかということである。
華は街角で饅頭を売っている、凡庸な町娘だ。
もとから両親はいない。家族は婆様のみ。物心ついた頃から、婆様が営んでいた小さな饅頭屋の手伝いをしている。
もしかしたら婆様は祖母ではなく、華は拾われたみなしごではないかと思ったこともある。なぜなら、婆様が決して華の生い立ちや両親について語らないから。
ともあれ、華を育て上げてくれたのは婆様だ。貧しい暮らしながらも、ふたりで細々と生きてきた。
だが婆様が体調を崩して寝込んでしまったので、近頃の華は看病をしながらひとりで饅頭屋を続けていたのだった。
「お待たせしました。ふたつですね。四元になります」
客が持参した竹かごに饅頭をふたつ入れる。代わりに受け取った代金は軽い硬貨なのに、ずしりと重く胸に響いた気がした。
饅頭屋は儲かる商売ではない。
ふたり暮らしで、やっと食べていける程度だ。地代や経費などを納めてしまうと、婆様の薬代を捻出する金など残っていない。
客が途切れたのを見計らい、華は粗末な作業場の後ろにある小屋へ入る。婆様の看病をするためだ。一間しかない狭い小屋が、華の暮らす家だった。雑多に物が積み上げられた小屋のわずかに空いた隙間に、薄汚れた筵を敷いている。婆様は柳のような体をそこに横たえ、ぜいぜいと息をついていた。
婆様の額に乗せた布をそっと取り、桶の水に浸していると、掠れた声がかけられる。
「……あの男は、来たのかい?」
思い当たる人物はふたりいる。どちらも今日はまだ来ていないので、華は正直に答えた。
「まだよ。大丈夫だから、婆様はゆっくり休んでいて」
「すまないね……。華に、こんな暮らしをさせるために、わたしは……ごほっ」
咳き込んだ婆様の背を、華は優しく撫でさする。
婆様には、なんらかの後悔があるようだが、今さらそれを聞こうとは思わなかった。それよりも気弱になっている婆様の容態が心配だ。
「私のことはいいのよ。病気が治ったら、またふたりで店に立とうね」
休んでいるだけで回復するような病気でないことは、薄々察していた。
だが薬代もないのに、医者に診てもらえるような金など用意できない。
婆様を寝かせてから、裏の井戸で桶の水を替えた華は溜息をついた。
どうしよう……。借金を申し入れても断られてばかりだし……。
残る手段は、もはや娼館への身売りしかないのだろうか。
それか結婚して、旦那様に薬代を出してもらうか。
どちらも難しい選択だ。華は十九歳の未婚の娘ではあるのだが、美人ではない。誰とも交際した経験がないので、男性に媚びを売る方法すら知らなかった。
そう簡単に結婚してくれる相手が見つかるはずもなく、娼館で客をとれるような才覚もない。ましてなんの技能も持っていない華に見向きする男などいない。
ただ、ひとりを除いては――。
婆様が眠っているのを確認して店先へ戻ると、なにやら騒ぎが起こっていた。男のわめき声が耳に届く。
「離せよ! 金は払うつもりだって、言ってるだろ!」
「嘘つけ。饅頭だけ取って逃げようとしただろうが。俺は見ていたぞ」
友人の瑛琉が、屈強な腕で男の襟を掴み上げていた。
わめいている男は、温かな湯気を立てた饅頭を握りしめている。店先に置いている大きな蒸輿の蓋が外されていた。どうやら華が席を外した際に、盗まれてしまったらしい。
「瑛琉。お願い、離してあげて」
華が頼むと、瑛琉は不機嫌そうに眉をしかめた。
「なんでだよ。役人に突きだそうぜ」
「できるだけ揉め事を起こしたくないの。それに、そのお客さんは私がいるときはお金を払ってくれているわ。たまたま払い忘れただけですよね?」
華の助け舟に縋りつくように、男は首を縦に振った。彼は慌てて懐から代金を取りだす。
「そ、そうなんだよ! ちょいと急いでいて、忘れただけなんだ」
両手で二元を受け取った華が「ありがとうございます」と声をかけると、瑛琉は渋々ながら手を放した。解放された男は転がるように道を駆けていく。
「いいのか? あれは確信犯だぞ」
「いいの。店に立っていなかった私が悪いのよ」
唇を噛みしめた華は崩れかけた蒸輿を直す。
婆様の看病をしている間に、店頭の饅頭がいくつか消えていることは何度かあった。
だが介護も店の仕事も、変わってくれる人はいない。
皇帝の妃嬪たちが住む後宮の奥に、男だけの園があるという。男後宮に住む彼らは、特別な女性からの寵愛を得るために研鑽しているのだとか。
皇帝をしのぐ権力を持つと言われるその女性の名は、嵐妃――。
伝説の嵐妃について語る客たちの噂話を、華は溜息交じりに聞き流した。
市井で貧しく暮らす者たちにとって、煌びやかな禁城は遠くから見ることしかできない憧れの場所だ。まして、その奥にあるという秘密の園に君臨する伝説の妃はどれだけ豪華な生活をしているのだろうと、想像を巡らせるのも楽しいかもしれない。
けれど、華にはまったく関係のないことだった。
彼女の頭を悩ませているのは、どうやって生活のための金を工面するかということである。
華は街角で饅頭を売っている、凡庸な町娘だ。
もとから両親はいない。家族は婆様のみ。物心ついた頃から、婆様が営んでいた小さな饅頭屋の手伝いをしている。
もしかしたら婆様は祖母ではなく、華は拾われたみなしごではないかと思ったこともある。なぜなら、婆様が決して華の生い立ちや両親について語らないから。
ともあれ、華を育て上げてくれたのは婆様だ。貧しい暮らしながらも、ふたりで細々と生きてきた。
だが婆様が体調を崩して寝込んでしまったので、近頃の華は看病をしながらひとりで饅頭屋を続けていたのだった。
「お待たせしました。ふたつですね。四元になります」
客が持参した竹かごに饅頭をふたつ入れる。代わりに受け取った代金は軽い硬貨なのに、ずしりと重く胸に響いた気がした。
饅頭屋は儲かる商売ではない。
ふたり暮らしで、やっと食べていける程度だ。地代や経費などを納めてしまうと、婆様の薬代を捻出する金など残っていない。
客が途切れたのを見計らい、華は粗末な作業場の後ろにある小屋へ入る。婆様の看病をするためだ。一間しかない狭い小屋が、華の暮らす家だった。雑多に物が積み上げられた小屋のわずかに空いた隙間に、薄汚れた筵を敷いている。婆様は柳のような体をそこに横たえ、ぜいぜいと息をついていた。
婆様の額に乗せた布をそっと取り、桶の水に浸していると、掠れた声がかけられる。
「……あの男は、来たのかい?」
思い当たる人物はふたりいる。どちらも今日はまだ来ていないので、華は正直に答えた。
「まだよ。大丈夫だから、婆様はゆっくり休んでいて」
「すまないね……。華に、こんな暮らしをさせるために、わたしは……ごほっ」
咳き込んだ婆様の背を、華は優しく撫でさする。
婆様には、なんらかの後悔があるようだが、今さらそれを聞こうとは思わなかった。それよりも気弱になっている婆様の容態が心配だ。
「私のことはいいのよ。病気が治ったら、またふたりで店に立とうね」
休んでいるだけで回復するような病気でないことは、薄々察していた。
だが薬代もないのに、医者に診てもらえるような金など用意できない。
婆様を寝かせてから、裏の井戸で桶の水を替えた華は溜息をついた。
どうしよう……。借金を申し入れても断られてばかりだし……。
残る手段は、もはや娼館への身売りしかないのだろうか。
それか結婚して、旦那様に薬代を出してもらうか。
どちらも難しい選択だ。華は十九歳の未婚の娘ではあるのだが、美人ではない。誰とも交際した経験がないので、男性に媚びを売る方法すら知らなかった。
そう簡単に結婚してくれる相手が見つかるはずもなく、娼館で客をとれるような才覚もない。ましてなんの技能も持っていない華に見向きする男などいない。
ただ、ひとりを除いては――。
婆様が眠っているのを確認して店先へ戻ると、なにやら騒ぎが起こっていた。男のわめき声が耳に届く。
「離せよ! 金は払うつもりだって、言ってるだろ!」
「嘘つけ。饅頭だけ取って逃げようとしただろうが。俺は見ていたぞ」
友人の瑛琉が、屈強な腕で男の襟を掴み上げていた。
わめいている男は、温かな湯気を立てた饅頭を握りしめている。店先に置いている大きな蒸輿の蓋が外されていた。どうやら華が席を外した際に、盗まれてしまったらしい。
「瑛琉。お願い、離してあげて」
華が頼むと、瑛琉は不機嫌そうに眉をしかめた。
「なんでだよ。役人に突きだそうぜ」
「できるだけ揉め事を起こしたくないの。それに、そのお客さんは私がいるときはお金を払ってくれているわ。たまたま払い忘れただけですよね?」
華の助け舟に縋りつくように、男は首を縦に振った。彼は慌てて懐から代金を取りだす。
「そ、そうなんだよ! ちょいと急いでいて、忘れただけなんだ」
両手で二元を受け取った華が「ありがとうございます」と声をかけると、瑛琉は渋々ながら手を放した。解放された男は転がるように道を駆けていく。
「いいのか? あれは確信犯だぞ」
「いいの。店に立っていなかった私が悪いのよ」
唇を噛みしめた華は崩れかけた蒸輿を直す。
婆様の看病をしている間に、店頭の饅頭がいくつか消えていることは何度かあった。
だが介護も店の仕事も、変わってくれる人はいない。