鍋の蓋がコトコトと音を鳴らして主人を呼んでいる。
 スープが煮つまって、焦げたにおい漂わせ始めているのに、誰も来る気配がない。

 青年はうなりながら目を開けた。
 と、ぐりぐりと大きなガラス玉の瞳がふたつ、彼を覗きこんでいる。

「ワッ」
「おお、おきた」
 少女――? いや、少年か?
 性別すら判然としない年ごろの子どもが、大きな足音を鳴らして部屋を飛びだしていった。

「魔女、おきたよ! あれ、壊れてなかった!」
「壊れてないかは、わからないよ。あとで見に行ってやるから、世話しておやり」
「はあい」

 青年は驚いた心臓をなだめながら、誰もいなくなった部屋を見まわした。
 
 雑然とした丸太小屋に、藁をしきつめたベッド。
 毛織物のかけ布はゴワゴワと硬い。
 窓から渡されたロープに、青年の着ていた服が適当にひっかけられて、床に水溜まりを作っている。

 壁一面を覆う書棚。
 床には所せましと並べられた植物のポット。
 紙くずやネジ、金属の破片が散乱している。

 そして、奥の部屋にいるらしい、魔女。

 どうどうと水の流れる音が、薄ガラスの窓を細かに震わせている。
 すぐ隣に、あの河が流れているらしい。


 子どもは薪ストーブの前に踏み台を置き、あぶなっかしい様子で鍋を下ろす。
 シャツの袖で木のうつわを汚れをぬぐい、焦げたスープをよそって戻ってきた。

 横たわったままハラハラと見守っていた青年の前に、勢いよくうつわが突きだされる。
 跳ね飛んだスープがまつ毛にかかって、青年はウワッと目をしばたたいた。

「こどもがつくった。魔女がつくったんじゃないから、だいじょうぶ」
「こども――。キミが作ったのか?」
「そう。こどもがつくった。魔女はお料理へたくそ。だから、こどもが世話してあげる」

 こどもの肩に、指の長さほどの小さな鳥――新緑の芽の色のハチドリがとまっている。
 その半身が、機械仕掛けだ。
 青年が指を伸ばすと、ハチドリはピュイッと高い音で鳴き、機械でできた片翼を広げて部屋の外へ飛んでいってしまった。

「あのコも“失せもの”。だけどかえらなくて、ここにいる」
「失せもの……」
「あなたも、こどもも、ハチドリも」

 よく分からないままに青年がうつわを受けとると、こどもは満面の笑みになる。

「……ありがとう。その、おれは、キミに助けてもらったのかな」
「そう。あなたはどこが壊れてるの? いらなかったのに、ちゃんとしてるね」

 謎かけのような言葉に、青年は眉間に皺をよせた。

 焦げた玉ねぎが、まるごとうつわに浮かんでいる。
 青年は玉ねぎをさじの背でつぶし、スープを喉に流しこんだ。
 その熱に、体の芯が震える。
 そうしてまだ、人間の形を保っていることを実感すると――、今さら、あの、すべてあぶくになって溶けていくようだった、ぬるい水の心地よさが、畏ろしくなってきた。
 それに、このあどけない風のこどもも、姿を見せぬ魔女も。

 河はどうどうと、部屋の真横を流れている。

「おれはどのくらい流されてきたのだろう。すぐに帰らなくてはいけないんだ。あいつと話して、続きにかからないと」
「あいつって、だぁれ?」
 こどもはベッドの端で足をぶらぶら遊ばせながら、首をかしげる。

「あいつは――、あいつだよ。私のおさななじみで……」

 おさななじみの名前が出てこない。
 青年はさじを持つ手を止める。
 名前だけではない。顔も、声も、なぜ話をしなければならないのかも。なんの続きに焦っていたのかも――。
 思い出そうとするほどに、記憶があぶくになって弾けて消えていく。

 青年の取り落としたさじが、軽い音をたてて床に転がった。

「なんだ、やっぱり壊れてるじゃないか。それじゃ還れないよ、あんた」

 部屋の入り口から、美しい女が腕を組んで青年を眺めた。
 月光の瞳。白くかすんだ霧の肌。夜のようなローブをまとった女だ。

 青年は息を呑む。
 とっさに両手が「何か」を探そうとした。
 だが手のうつわを置かねばと考えた瞬間に、何を探そうとしたのかも忘れてしまった。

 わななく両手を見下ろし、呆然とする。 

「……おれは、どうしたら帰れますか」
「さぁ。ハチドリの翼や時計の針なら直してやれるけども。人間はねぇ」

 魔女は血の気のない白い唇を三日月の形にゆがめ、笑い声をたてる。

「魔女。この人、ここにいてもいい?」
「好きにおし。こどもが世話をするならね」
「するよ!」

 こどもは小さな手でこぶしを作り、大きく頷いてみせる。
 魔女は青年に向けるよりも優しい瞳でこどもを眺め、衣擦れの音だけ残して出ていってしまった。