最初、俺は夏生が何を言っているのかわからなかった。

「消える……? 消えるって、どういう意味だ……?」

「そのままの意味だよ。私は……多分だけど、いなくなっちゃう」

 困ったような笑みを、夏生は浮かべた。

 なんで、笑えるんだ……?

 イライラした。でもそれ以上に、心の奥底から悲しみが湧き上がってきた。
 こらえきれずに、俺は飛び起きた。

「な、なんで……?」

 なんで、もっと早くに言ってくれなかった?
 なんで、そんなに冷静なんだ?
 なんで……消えるんだ?

 いろんな疑問が一気に襲ってきた。でもなぜか、どれも喉の奥につっかえたように、言葉として出てこなかった。

「最初……病院の裏庭で、私と会った日のこと、覚えてる?」

 唐突に、夏生はそんなことを聞いてきた。

「ああ、覚えてる……忘れるわけ、ないだろ……っ!」

 六月なのに、気温が十度とかわけのわからない低さだった。母親からそのことを聞いた俺は興味がわいて裏庭に行って、雪がちらつく曇天の中……夏生と出会った。

「私はあの時、佳生の発作を抑えた。でも本当はね、治そうとしたの」

「え?」

「佳生の病気を治すことが、私の本当の願いだったから。でもその時にね、気づいちゃったんだ。私自身の力、生命力みたいなものが、弱まっちゃったことに」

 初めて聞く事実に、俺は呆然とした。

「次の日に私と会った時…………ううん、その後も。キャンプの時とか、ショッピングモールで奈々ちゃんを探してた時とか、私がこの姿なのに、雪が降ってなかったでしょ? あれ、私の中の力が弱まっちゃったからなんだ」

「うそ……だろ……?」

 やっとそれだけを言った俺に、無情にも夏生は首を横に振った。

「発作を抑えるだけならそんなに減らないんだけど、治すとなると話は別なんだ。それで、ここ数日に少しずつ佳生の病気を治してきて、ほとんど確信したの。私は……佳生の病気を完治させると同時に、消えちゃうだろうな……って」

 苦笑いを浮かべて、一息に彼女はそう言った。

「だから……一緒にはいれない…………ごめん、ね?」

 何度も見てきた、人懐っこい笑顔。太陽のような、ひまわりのようなその笑顔に幾度も救われたのに、今はただひたすらに残酷で、心をえぐる表情だった。

「うそだ……うそだうそだうそだうそだうそだっ!」

 立膝をついたまま、俺は彼女の肩に掴みかかった。

「俺は絶対認めねぇぞ、そんなこと! それは、俺の代わりに夏生が死ぬってことじゃねえかっ! そんなことをして、俺が喜ぶとでも思ってんのかよっ⁉」

「佳生、それは違う――」

「違わねえだろっっ!」

 夏生の言葉を遮って、俺は叫んだ。

「なんでもっと早く言ってくれなかった? なんでもっと前に相談してくれなかった? もしかしたら、他の方法があったかもしれないだろ⁉」

 俺は、溢れ出てくる言葉を吐露した。

「なんでこんなに親しくなったんだよ⁉ なんでこんなに思い出をたくさん作ったんだよ⁉」

 一息に、まくしたてた。

「なんで、なんでっ……なんで俺は……夏生のことを、好きになっちまったんだよ……」

 声が震えて、視界がぼやけた。
 受け入れられなかった。
 信じたくなかった。
 信じてしまったら、認めてしまったら、すぐにでも夏生が消えてしまうような……そんな気がした。

「……ごめんね」

 彼女の肩に手を置き、俯いて涙を流す俺を、夏生はそっと抱きしめた。

「ほんとはね、ここまで親しくなるつもりはなかった」

 俺の背中を優しく撫でながら、夏生は言った。

「適度な距離を保って、時が来たら治して、消えるつもりだった」

 彼女はとても冷たかったけど、それは前よりも、弱くなっているような気がした。

「それなのに……やっぱり私は、あなたのことが好きになってしまって……もっと知りたい、もっと一緒にいたいって、思ってしまった。いつかは離れちゃうって、わかってたはずなのに……」

 夏生の声も、震えていた。

「だから、岡本くんや奈々ちゃんに見られたあの日のことは、いいきっかけだと思ったの。これ以上辛くならないように……佳生の病気をこっそり治して、消えるはずだった……」

 言葉のひとつひとつを噛み締めるように、夏生は続ける。

「でも私は……最後にもうちょっとだけ……あとほんの少しだけでいいから、佳生と一緒にいたいって……思ってしまった。すぐに治せばいいのに、十日以上もかけて……」

 夏生も、泣いているみたいだった。

「そうしてグズグズしてたら、佳生が来ちゃうんだもん……ほんとダメだな、私……」

 そこで夏生は、抱きしめる手を緩めた。俺も顔を上げ、彼女を真っ直ぐ見据える。

「なんで私は……佳生のことを、好きになっちゃったんだろうね……」

 目と目が合った。
 彼女の青い瞳からも、とめどなく涙が溢れていた。
 俺の視界も、涙でいっぱいだった。

「俺は……夏生と離れたくない」

「……ありがとう。私も、離れたくないよ…………でも、わかって……」

 直後。全身を鉄板で焼かれたような痛みが駆け巡った。あまりの痛さに俺はバランスが保てなくなり、彼女に倒れ掛かった。

「はぁ、はぁ……な、なんで……」

「時間、みたいだね……。佳生の病気は、実はほとんど末期なの。今すぐ治さないと、次は命が危なくなる」

「……え?」

 言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。

「佳生……今まで、ありがとう」

「待っ――」

 夏生の横顔が映っていた視界が、白に染まった。
 ほぼ同時に、唇に冷たい感触があった。

 ――なつ、は……?

 キスを、された。

 柔らかくて、ひんやりとした感覚。
 優しくて、でもどこかそれは、脆くて…………

 ………………え?

 刹那。冷たい何かが、身体の中で弾けた。

 それに伴って、今度は熱い何かが次々と分裂しては蒸発していく。

 身体の中で起こっていることなのに、その様子が手に取るようにわかった。

「っ……!」

 その意味を理解して、俺は急いで顔を離した。

「ふふっ」

 夏生の身体が、透けていた。

「夏生、まさかっ……?」

「契約、終わっちゃったね……」

 夏生の身体から、白くて細かい粒が立ち昇っていた。

「でもね佳生、これだけは忘れないで。雪はね、溶けて消えても、また雪になるんだよ」

 そう言うと、夏生は俺に抱きついてきた。

 でも、そこにあるはずの感触は、微塵も感じられなかった。

「夏生……なつ、は……っ!」

 離れたくない、離したくない彼女を、必死に抱きしめた。

 感触はなくとも、確かに彼女は、そこにいた。

「佳生……っ! 本当に、ありがとう……っ! 私に、夏を生きさせてくれて……!」



 最後に見た夏生の笑顔は、この世のなによりも、綺麗だった。