病室の窓を開けると、冷ややかな風が室内に吹き込んできた。その冷たさに、思わず肩をすくめる。
後ろで、ガタッと何かが倒れる音がした。見ると、サイドボードに立ててあった卓上カレンダーが風で床に落ちていた。拾い上げて、元あった場所に戻す。
もう、九月も下旬。
夏生がいなくなってから、既に十日以上が経過していた。
基礎体温が正常に戻ってから発作も全く起きておらず、まるで何事もなかったかのように毎日が健康に過ぎていった。
「くっそ……今日もいなかったな」
硬いベッドに腰を下ろし、誰に言うでもなくつぶやく。
岡本に諭されて以来、俺は毎日裏庭とひまわり畑に足を運んでは夏生を探していた。葉が赤に黄色に色づいた裏庭や、枯れた花々がすっかり撤去されたひまわり畑は、季節がもう夏でないことを雄弁に語っていた。
でも、俺は諦めない。
あの日に、そう決めたから。
「霜谷ー、元気かー?」
「こんにちは。霜谷くん」
回想にふけっていると、唐突に聞き馴染みのある声が飛び込んできた。
「おっす、二人とも。病院の中でも遠慮なしとは……相変わらず仲良さそうだな」
つながれた二人の手を見ながら、俺はからかった。
「え? あ……!」
「ふぇ⁉ あ、私たち……手つないだままだった……」
岡本と佐原さんは、今気づいたようにパッと手を離した。その様子が何とも初々しくて、俺は思わず笑ってしまった。
「ははは。もう結構経つのに、亀より進むのが遅いんじゃないか?」
「うっせ! 余計なお世話だ!」
俺の軽口に、岡本は顔を赤くして反論した。
夏生がいなくなってから、俺たちの間には微妙な雰囲気が流れていたが、最近になってやっと戻り始めていた。
今まで通りに楽しく過ごしていたら、ひょっこり彼女が姿を見せるかもしれない。
そんな淡い期待をみんな持っていたのか、誰ともなく軽口をたたき合うようになっていた。
「それで、どうだった?」
いくらか二人をいじったところで、俺は尋ねた。
「ああ。わりぃ、今日も見つけられなかった」
「ごめんね。今日はショッピングモールの中とか、霜谷くんと夏生ちゃんが行ったっていう花火大会の会場とかを探してみたんだけど……」
真っ赤にしていた顔を曇らせて、二人は答えた。
「そっか。二人ともありがとな」
軽口を言っていた時となるべく調子が変わらないように、俺は言った。
わかってはいた。
もし見つかっていれば電話してきたり走ってきたりで大慌てだろうし、何か痕跡があれば軽口をたたき合う前に言ってくれるだろうから。
でも、直接二人の口から聞くまでは、どうしても期待を捨て去ることができなかった。
「……でもさすが夏生だな。あいつ、かくれんぼとか得意そうだし」
少なからず落ち込んでいるのがわからないよう、俺は冗談を口にしてみる。すると、岡本からじろりと睨まれた。
「またへったくそな冗談言いやがって。無理はするなって言っただろ?」
「……ああ、わるいな」
全く、こいつには敵わないな、と思った。佐原さんのことになると情けなくて弱々しくなるくせに、俺のことになると見透かしたかのように遠慮なくズバズバと言ってくる。悔しくもあるが、正直今の俺にとってはありがたかった。……佐原さんの時も、これくらい男らしくなればいいのに、とは思うけど。
「……なんか、余計なこと考えてねーか?」
「いや、別に」
沈んだ気分もだいぶ紛れてきたので、俺はさらにそれを振り払おうと仰向けにベッドに倒れ込んだ。パイプの脚が、ギシギシと頼りない音を立てる。
「そういえば、霜谷くんの体調の方はどうなの?」
それまで見守るように俺たちのやり取りを見ていた佐原さんが、思い出したように言った。
「ああ、今日の問診や検査でも異常はなし。外出禁止期間も、今日で終わるらしい」
ぼんやりと天井を眺めながら、俺は昼に先生から聞いた言葉をそのまま口にした。
外出禁止期間が終わるということは、外出届さえ出せばまた前みたいに外を出歩くことができる、ということだ。本来なら病院外に夏生を探しに行ける絶好の機会だが、岡本たちのおかげで、心当たりのあるところはほとんど探し尽くしていた。
「外に探しに行けるようになるのは嬉しいけど、後はどこあるだろ……」
ごろん、と寝返りを打ってみるも、頭の中はモヤモヤしたまま。思考の端から、良いアイデアが突然入り込んできたりするはずもない。
「あ、じゃあさ。ちょっと遠いけど、あそこ探しに行ってみようよ!」
うなりながら真っ白なシーツに顔をうずめていると、佐原さんが声を弾ませて言った。
「あそこ?」
「ほらっ、キャンプ場だよ! 遠くてまだ探しに行ってなかったでしょ?」
岡本の疑問に、佐原さんが答える。
キャンプ場……。
シーツに沁み込んだ病院独特のにおいを感じつつ、思考をめぐらせる。
そういえば、前に夏生とキャンプ場について話したことあったっけな。夏生のおかげで調子が良くて、外泊許可が下りそうで、岡本も賛成してくれて……。
――何か嫌なことがあって行きたくないとかあるんだったら、言ってくれよ
俺の言葉が、不意に頭の中に蘇る。
あ、そうだ。あの時、なぜか夏生は複雑な、切なそうな表情をしていた。場所が示ヶ丘だとわかるまでは、楽しみにしていたキャンプが叶いそうで明るく笑っていたのに。
記憶の断片を手繰り寄せて、俺は必死に思い出そうとする。
――嫌なこととかは全然ないよ! むしろいい思い出があるくらい!
でも、彼女はすぐにいつものように笑って、確かにそう言っていた。いい思い出があるから、大丈夫だって…………あれ? いい思い出?
「それだ!」
俺は叫びながら飛び起きた。びっくりしたように目を見開いた二人の顔が視界に入ったが、俺は構わずに続けた。
「前に、夏生が示ヶ丘のキャンプ場にはいい思い出があるって言ってたんだ。ってことは、夏生は以前、俺たちと会う前にそこに行ったことがあるはず。しかも、夏生は夏の間、涼しい森の中とか洞窟とかで過ごしていたって会ってすぐの頃に言ってたから、もしかしたら住んでいた可能性もある。なら、今いる確率はかなり高い!」
病院のにおいをこれでもかと吸い込んで辿り着いた推理を、俺は一息に話した。目を丸くして俺を見つめる岡本と佐原さん。そんな二人の様子に、俺はハッと我に返った。
「あ、いや……急に思いついたもんだから、つい……」
「いや! よく思い出したな、霜谷! ってかもっと早く思い出せよ!」
ちょっと後悔しかけた俺の言い訳をよそに、岡本は俺の背中をベシッとたたいた。思いのほか強く、肌にジーンと感触が残った。
「いってーな。力強すぎるんだよ」
「わるいわるい。でも、お前が言ってたことは十分可能性があるよ。今度許可取って行ってみよう」
なぁ、奈々? と岡本は隣に座っている佐原さんに目を向けた。佐原さんも納得しているようで、「きっと夏生ちゃんはそこにいるよ!」と目を輝かせている。
きっと、もうすぐ会える。
二人の意気揚々としたやり取り見ていると、不思議とそう思えた。そして、そう感じたのは今日だけじゃない。
岡本に諭されてから数日後、俺は二人に夏生とのことを全て話した。夏生との出会いから彼女の正体、俺たち二人の契約など、必要だと思ったことは全て。
それから、どんな言葉が二人の口から飛び出して来るのかと身構えていたが、それは何ともあっさりしたものだった。
――話してくれてありがとう! なんかホッとしちゃった!
――俺もホッとした! これで俺たち四人、もっと仲良くなれるな!
そんな言葉を、二人は満面の笑顔とともに俺に向けてくれた。
他にも、仲直りのお礼が言いたいこと、最初は驚いたけど怖いとかそんな感じはしなかったこと、むしろ今まで気づいてあげられなくて申し訳ないことなど。もっと早く二人に伝えておけば良かったな、と心の底から思った。
また、四人で集まって楽しく遊びたい。わいわいと騒いで、どうでもいい話で盛り上がりたい。そのために、夏生を見つけ出したい。そう思えるように、なっていた。
もちろん、それは簡単じゃない。岡本たちに手伝ってもらっていろいろな場所を探したけど見つかっていないし、仮に示ヶ丘キャンプ場にいるとしても、あのだだっ広いキャンプ場だ。隠れているであろう夏生を見つけられる可能性はかなり低い。しかも、今回は両親を連れて行けないので外泊は厳しい。冬になると立ち入り禁止になる区域もあることを踏まえると、計画的に探さなければいけない。
――でも。
困難はいろいろあるけれど、岡本と佐原さんがいれば何とかなるような気が、俺にはしていた。
「なぁ、それでさ、早速――」
探す計画を持ち掛けようとした、その時だった。