「ありがとう。でも、ごめんね。私は行けない」

「え、どうして?」

 彼は少し悲しそうな顔になって言った。ズキッと心が痛む。

「私は、雪女だから。あんまり日の当たるところには出られないんだ」

 私は精一杯笑顔を作ってそう言った。実際、うそではない。今の季節に日の当たるところに出れば、多分しばらく動けなくなる。彼の前でならまだしも、大勢の人の目があるところでそうなることは、どうしても避けたかった。

「だから、ここでお別れ」

 私は、ここまで握っていた手を離した。少しだけ、名残惜しかった。

「そっか……。じゃあさ、名前、教えてよ」

「な、まえ……?」

 思考が、停止した。
 なまえ、ってなに?
 いや、もちろん知っている。私は人と関わりはないけれど、知識だけは頑張って身につけたから。でも、「私の」、なまえ……?
 彼は、突然沈黙した私を怪訝そうな顔で見ていた。

「……なまえは、ないよ」

 ほとんど聞こえないような小さな声で、私は言った。
 そっか。私って、なまえないんだ。
 自分で言っておいて、なんだかすごく悲しかった。せっかく今日笑えたのに、また泣きたくなってきた。……ううん、もう、泣きそう。
 私の目から一滴、頬を伝って涙が流れようとした。

「夏生」

 彼の声が、聞こえた。

「え?」

「夏生。君の名前! 夏に生きている雪女だから! あと、僕の名前から一文字プレゼントしてる!」

 あ、今更だけど僕の名前は佳生ね、と彼は照れながら言った。

「なまえ、くれるの……?」

 私は恐る恐る聞いてみた。だってそれは、親という存在がいない私には、一生手に入らないものだと思ってたから。

「うん。だって、名前がないと呼べないじゃんか」

 それに、と彼は付け足す。

「名前がないって、すごく悲しいもんね」

 私の目にたまっていた涙は、結局流れてしまった。
 でもそれは、悲しいからじゃない。
 今日私は、存在し始めてから初めて……ううん、生まれて初めて、嬉しさのあまり泣いている。何度も、嬉しくて泣いている。

「ありが、とう……っ!」

 私は今日、嬉しい言葉をたくさんもらったし、今ももらっている。これ以上はバチが当たるんじゃないだろうか。
 彼は、泣きじゃくる私に困り果てたのか、呆然としている。
 でもごめん、しばらく止まらなさそう。
 私が心の中で彼に謝った時だった。

「わあっっ!」

「きゃあぁ⁉」

 いきなりの大きな声に、私は思わず悲鳴をあげた。そして、ドサッと尻もちをつく。

「え、え?」

 目の前では、彼がお腹を抱えて笑っていた。何が何だかわからない。

「え? 何? どしたの?」

「あは、あははは。ご、ごめんごめん」

 まだ収まりきっていない笑いを噛みしめながら、彼は謝る。

「な、なんか、どうしたらいいかわからなかったから、驚かしたくなった」

「え?」

 それはつまり、私は遊ばれたということだろうか。
 ……。
 なんだか、無性に腹が立ってきた。

「ちょ、ちょっと!」

 私は立ち上がり、彼に抗議の声を向けた。

「わあ、ごめん、夏生。多分、ほんと多分だけどもうしないから許して〜」

 彼はおどけつつ、キャンプ場とは反対の、元来た道へと走り出した。

「多分じゃなーい! 佳生待てー!」

 私は怒るふりをしながら、込み上げてくる嬉しさを噛みしめながら、彼の背中を追いかけていった。



 ***



 私は、閉じていた目をそっと開けた。
 地平線の彼方から太陽が顔をのぞかせている。少しだけ、眩しい。佳生と出会ったあの夏を思い出しているうちに、どうやら夜明けが来ていたようだった。

「ふふふ、懐かしいな」

 私はそう呟き、自分の右手に視線を落とす。そこには、私の大好きな花があった。かなり、小さいけれど。
 ここに来る前、示ヶ丘のキャンプ場で摘んだものだ。この花は、あの夏に彼と摘んだ思い出の花。私にとっては、自分の人生を彩る花だ。

「でも、多分忘れてるんだろうなー」

 佳生はあの時のことをずっと忘れている。雪女との出会いを忘れるなんて、どんな神経をしているんだろうか。
 でも、おかげで助かったこともあったし、嬉しかったこともあった。だから、それほどショックではない。むしろ、ちょっとだけ感謝しているくらい。

「あれ、もうこんな時間」

 なんかいろいろ浸っているうちに、お日様はどんどん昇っていた。
 持っていた花を小さな箱にしまい、足元に置く。

「ありがとう、佳生……」

 小さく、そっと胸に抱くようにつぶやく。心の底から大好きで、あの時からずっとずっとかけがえのない存在だった人の名前を――。