「え?」

「え、じゃねーよ。霜谷、お前もそうなんだろ? 雪村さんと会って、雪村さんと過ごしてきたから、お前は変わった。違うか?」

「そ、それは……」

 俺はたじろいだ。
 俺が、夏生と過ごしたことで、変わった? ごまかしやうそが通じなくなったのも、それが原因……?

 不意に、夏生と過ごした日々がフラッシュバックした。


 ――ふふっ、驚いたでしょ?

 初めて彼女に会った時の、悪戯っぽい笑顔。


 ――もうすごいとしか言いようがないよこれは! すっごく綺麗……っ!

 ひまわり畑の前で、子どもみたいにはしゃぐ夏生の歓声。


 ――ふふっ、わかった。その名前、ありがたくもらうね

 静寂の夜の中、天の川をバックに優しく微笑む夏生の姿。


 ――待っててね、すぐ鎮めるから

 そう言って発作を何度も抑えてくれた彼女の、優しい冷たさ。


 ――佳生おはよー! 書けた?

 俺のタイムカプセル目掛けて飛び込んできた夏生の、ほのかな香り。


 ――でしょでしょ? 一度でいいから着てみたかったんだー!

 青色の浴衣に身を包んだ夏生の、照れた表情。


 ――ねねっ! 早く行こうよ!

 初めて行くショッピングモールにテンションが上がった夏生の、無邪気な笑顔。


 いつも彼女は素直で、明るくて、笑顔を振りまきながら、俺のそばにいてくれた。
 そんな彼女を見ていると、自分の気持ちがするすると出てきて、
 そんな彼女と一緒に過ごしていると、気持ちが晴れやかになって、
 そんな彼女が笑ってくれると、心が暖かくなった。

「お前はさ、どうしたいんだよ?」

 岡本の声が聞こえる。


 ――もう、思い残すことはないよ

 それだけ言い残して、霞む視界の先で遠ざかっていく彼女の、後ろ姿……。


 俺は……やっぱり――

「夏生と、一緒にいたいよ……」

 岡本の言葉に、俺は正直に答えていた。

「そうだよ。俺だって、夏生と一緒に過ごしてきて、変わった。前は、痛熱病になって、高校に行けなくなって、人生を諦めて、いつ死んでもいいようにって、ずっと思ってた」

 一度言ってしまうと、もう止められなかった。心の底から、どんどん言葉が、気持ちが、溢れてきた。

「……でも、あいつと出会って、あいつと過ごしてきて、俺は……もう一度生きたいって思えるようになった。あいつと、夏生と一緒にいたいって、思ったんだよ……」

 視界がぼやけて、岡本や佐原さんの輪郭が曖昧になっていく。声も震えてきて、抑えようと思ったけど、無理だった。

「だから俺は、探した。夏生が俺の病気を治して、どこかに行ってしまったなんて……思いたくなかった……。初めて会った裏庭も、一緒に抜け出したひまわり畑も、二人ではあんまり行ったことがなかった病院周辺の場所だって探した。今の俺に探せる範囲で探したけど、いなかった……。どこにも、見つからなかった……」

 今まで笑い合った思い出の場所が、悲しみの色に染まっていく感覚。
 それは、まるで彼女がもうどこにもいないことを突き付けられているようで、苦しくて、辛くて……。
 痛熱病の発作の方が、よっぽどマシだった。

「もうどうしたらいいか、わかんないんだよ……。このまま夏生に会えなかったら、俺……なんで生きているのか、またわからなくなって……そんななら、痛熱病で死んだって良かっ――」

「待て。それ以上は、絶対許さねえぞ」

 突然、岡本が俺の胸ぐらを掴み上げた。

「お前が、どうしたらいいかわからなくなったのはわかった。それが、雪村さんがお前の病気を治してどこかに行ってしまったかもしれないからだってことも……。落ち込むのも混乱するのも当然だし、仕方ないと思う」

 彼の目は、今まで見たことがないくらい鋭かった。
 本気で怒っているのが、わかった。

「でもな、だからって言っていいことと悪いことがある。仮に雪村さんがいなくなったとして、お前は残りの人生を、雪村さんからもらった命を、そんなふうに過ごしていくつもりなのか⁉」

 静かだけど、確かな怒気を含ませて、岡本は小さく叫んだ。
 周りの音が、消えた気がした。
 岡本の言葉が、心の中で反響していた。

「もしそうなら、俺はお前を絶対許さないからな。病後なんて関係ない。引きずり回してでも、正気に戻させてやる」

 そこで、岡本は病衣から手を離した。

「俺はまだ探すぞ。霜谷が探したのはこの辺だけなんだろ? だったら俺は、ショッピングモールの裏の林とか、可能性の高いところを手当たり次第に探す」

 行くぞ、と岡本は佐原さんの手を引っ張り、病室の入り口に向かった。佐原さんは驚いたように「えっ」と声をあげたが、彼女にも思うところがあるようで、特に何も言うことなく岡本の後に続いた。

「霜谷。お前は、どうするんだ?」

 彼はそう言って一瞬振り返ったが、そのまま病室の扉を勢いよく開けて出て行った。
 数秒後には、扉がパタンと音を立てて閉まり、病室は俺だけになった。

「俺は……」

 ――私ね、一度でいいから、真夏の空の下で生きてみたいんだ

 季節外れの雪が舞い散る裏庭で、生への希望を胸に笑った夏生の言葉が、聞こえた気がした。

 俺はまだ、諦めない。

 母親が持ってきてくれた羽織ものを着ると、俺も急いで病室を後にした。