「あの、これ……」
「あ、うん。ありがとう」
俺は缶ジュースを受け取ると、そのままつられて彼女――佐原さんの顔を見た。三十分前に見た岡本の顔よりも数段力がなく、目も赤くなっていた。
「……ひどい、よね? 私の顔」
「いや、そんなこと……」
「ううん、大丈夫……気を遣わなくて。さっき、スマホのインカメラで見て、ぞっとしたから」
自嘲気味に笑いながら、彼女は目元を拭う。その手の甲に滴が乗り、そのままツーッと下に落ちた。
俺たちが今いるのは、屋上のイベントエリアにある小さなベンチだ。イベントエリア中央では、さっきも見たゆるキャラが見事なステップで踊り、観客を魅了していた。
「そういえば……」
ゆるキャラショーには目もくれず、彼女は視線を缶ジュースから俺の方へと移した。
「私と霜谷くんって、二人で話したこと……あんまりなかったよね?」
「ああ、そういえば」
言われて思い返してみると、佐原さんと話す時はいつも夏生か岡本がいた気がする。二人になった時と言えば、片方がいなくてもう片方がトイレにでも行っている時くらいだ。
「私、元々内気な性格で……ほとんど話したことがない人と話す時、緊張しちゃうんだ」
言葉を選ぶようにゆっくりと、彼女は言った。
「今も少し緊張してて……遅くてイライラするかもしれないけど、ちょっとだけ、お話を聞いてくれないかな?」
「うん、いいよ」
俺と佐原さんの間には距離がある。それは、これまでほとんど話さなかったことや、今も話し方の端々から俺に気を遣っているのが見て取れることからも、明らかだった。岡本とのことを話す前に、まずはこの距離を少しでも縮めないといけないと思った。
「ありがとう」
そこで佐原さんは、ふぅーっと息を吐いた。ほとんど深呼吸に近い、長い息。そこまで緊張していたのか、と俺は少し心の中で落胆する。
「えっと、私と佳くんが喧嘩した理由は、聞いた?」
「ああ、聞いたよ」
落ち込んでばかりもいられないので、俺は頭を切り替えて頷いた。
「そっか。じゃあ……私の夢とかについても?」
ためらうように、佐原さんは聞いた。彼女の視線は手元の缶ジュースの一点に留められ、何かをじっと待っているみたいだった。
この話は佐原さんにとって話しにくいことなんだろうな、と思った。俺はこの話を、直接佐原さんから聞いていない。でも、喧嘩のことを聞いたあの日、岡本と夏生しか知らない事実を俺は聞いてしまった。ここで頷いていいものかと一瞬迷ったが、
「うん、聞いた……ごめん」
俺は頷き、頭を下げた。
「その……病室で岡本から話を聞いていた時に、成り行きで……ごめん」
ここで隠し事をしても意味がない。というより、ほぼ間違いなく悪い方向へ行きかねない。
佐原さんはそんな俺の返事を黙って聞いていたが、やがて小さく笑った。
「ふふっ。霜谷くん、深刻になりすぎだよ。そんな大層な話じゃないし」
でも、夏生ちゃんが言っていた通り良い人だね、と佐原さんはまた短く笑った。
なんだか釈然としないが、そこまで気にしていないようなので良しとすることにした。不要なモヤモヤを飲み込むように、手に持った缶ジュースを一息にあおる。果汁の香りが鼻孔をくすぐり、時間が経って弱くなった炭酸が乾いた喉にしみていった。
「でも、そこまで聞いてくれてるなら、話しやすいや。実はね、聞いてほしいのは……佳くんについてなの」
「岡本について?」
こくっ、と佐原さんは首を縦に振った。
「私と佳くん……最初はそこまで親しくなかった。むしろ、私はあまり好きじゃなかったの」
彼女は確かめるように、缶のふちを指でなぞった。
「佳くんと私は、学校で偶然同じ委員になって……それから、放課後に話すことが多くなった。佳くんは優しいんだけど、自分の思ってることはほとんど言わなくて……なんか、全て適当にこなしてるって感じだったの」
なるほど、と思った。確かに岡本は、ほとんどのことをそれなりにこなして、後はだいたい周りに合わせていた。自分のことは言わない。他人のことにも踏み込まない。あの時以来、彼はそういった感じに変化していったのは、間違いなかった。
「私は当時、小説家って夢を……きれいさっぱり諦めようとしていた。委員会とか勉強とか、学校のことを一生懸命にこなして、忘れようとしていたの。……だからかな。その時の佳くんの態度とか、姿勢とか、すごく嫌だなって、思ってた」
そこで一度、佐原さんは缶ジュースを飲んだ。何かを、飲み込むように。
「……でもね。ある日たまたま、佳くんの作詞ファイルを見てしまって……。そこには、佳くんが一生懸命考えた歌詞がつまってた。でもそれは、とても悲しくて、とても辛そうだった。その時、私わかったの。佳くんは、何かに苦しんでて、本当は自分の気持ちを、もっともっと言いたいんだって……」
佐原さんの声は、少し震えていた。
「その時から佳くんのことが気になり始めて、支えたいなって思った。そうしてたら、なぜか告白してくれて……嬉しくて、付き合い始めたの。付き合ってから、佳くんは前よりもいろいろなことを話してくれた。作詞のこと、夢のこと、もちろん霜谷くんのことも。……でも、佳くんが自分の思ってることをあまり話さないのは、変わらなかった。いつも気を遣っていて、話し方は親しげなんだけど、どこか距離があって……」
そこで、佐原さんはすぅっと息を吸い込んだ。残暑を含んだ空気が彼女の胸に入り、抜けていく。
「でも佳くん、霜谷くんといる時は、そんな感じがあまりなくて……すごく驚いたし、嬉しかった。でも、それと同じくらい不安にもなった。もしかしたら……私じゃ支えられないのかな、って……。そんなこと考えてたら、あのコンテストの結果発表の日、空回りしちゃった……」
誤魔化すような佐原さんの笑顔が、目の前で小さく揺れた。
「私、どうしたらいいのかわからないんだ。このまま仲直りしても、また同じように支えられずに、喧嘩して……どんどん溝が深まっていくんじゃないかって……」
小さな笑顔とは裏腹に、その目元に溜められた涙が彼女の感情を物語っていた。多分、今回以外にも知らないところでいろいろあったのだろう。その不安や思いが、今回の喧嘩で爆発してしまったことが見て取れた。
「佐原さん」
ここまで聞いて、それだけ彼女が悩んでいるなら、言うしかないと思った。
本当は言おうかどうか迷っていた。やっぱり本人の口から聞くのが一番だろうし、部外者の俺が言うのも気が引けたから。
でも、このまますれ違いが続けば、岡本たちの仲がどうなるかわからない。岡本は俺の一番の友達だし、佐原さんはその彼女だし……。そして夏生の、初めての友達だろうから。
「岡本の家が母子家庭の理由、知ってる?」
「え……?」
突然の話題に、佐原さんは戸惑いの声をあげた。
そしてしばらく考えると、ふるふると首を横に振った。
「実は、岡本の両親は離婚してて、それを岡本は自分のせいだと思ってた時期があるんだ。そしてそれは、多分まだ、あいつの中でくすぶり続けているんだと思う」
「え、どういうこと……?」
「詳しいことは、岡本から直接聞いた方がいいと思う。でもそれ以来、岡本は自分の考えていることをあまり話さなくなった。特にそれは、恋愛とかそういうものに関する時に強く出てるんだ」
今思えば、あのキャンプで執拗に俺と夏生とのことを聞いてきたのは、そういったものへの不安があったからかもしれなかった。佐原さんが言うように、岡本は俺にはそれなりにいろいろ話してくれていた。それに安心し、気づけなかった自分が、なんだか情けなかった。
「でも、あいつはあいつなりに少しずつ変わろうとしてる。佐原さんと付き合ったことも、この仲直りも」
「私と、付き合ったことも……?」
「うん。だから……もし無理じゃなければ、これからもあいつを、岡本を支えて、そばにいてやってほしい」
そばにいてくれるだけで心強いし、勇気づけられる。そのことを、俺も最近知ったから。
俺はベンチから立ち上がり、佐原さんに頭を下げた。昼よりも長くなった影が、二つに折れる。その動きを視界の端で感じながら、俺は彼女の言葉を待った。
「……霜谷くん、頭を上げて?」
折れた影が、真っ直ぐになる。
「霜谷くん、教えてくれてありがとう。おかげで、少し胸のつかえがとれた気がする。まだ不安もあるけど……やっぱり私は、佳くんが大好きだから、離れられないよ」
茜色の陽光が、彼女の晴れ晴れとした顔を照らした。
「そっか。ありがとう」
逆光の影の中、俺も小さく笑った。本当に良かった、と思った。
「ふふっ。なんだか、ここに来て霜谷くん、頭を下げてばっかりだね」
「ああ、全くだ」
本当に、なぜ岡本ではなく俺なのか。
「でもね、しっかり夏生ちゃんのことも、気にかけないとダメだよ?」
夏生……?
「ああ、もち、ろ……ん……」
午後四時を知らせるアナウンスとともに、不安と焦りが急激に心の中で渦巻いていった。