「わぁ、すごく綺麗」

 彼女は、夜空に輝いている星々を見てそうつぶやいた。その声には、ひまわり畑の時と同じように感嘆の色が混じっている。

 俺たちがいるのは、いつもの裏庭。消灯時間のあと、俺はこっそりと病室を抜け出し、見回りの看護師さんたちに見つからないよう時には遠回りをしながらも、なんとか辿り着いた。気分は映画に出てくるスパイで、久しぶりにドキドキしていた。

「あー疲れた」

 俺は達成感を感じつつ、小さく伸びをした。

「お疲れさま。それと、来てくれてありがとね」

 小さく微笑みながら、彼女はそう言った。なんだか彼女らしくない、と思った。

「もしかしたら、来てくれないんじゃないかなって思ったから」

「なんで?」

「んー、なんとなく」

 彼女は夜空に目を戻してからそう言った。田舎町の病院ということもあって、星たちは雑多な光に遮られることなく、はっきりと頭上に広がっている。

「あっ! もしかしてあれが天の川?」

 彼女は星空の一部を指差した。その先には、大小さまざまな星々が列を成して(きら)びやかに光っていた。

「そうそう、あれだよ」

 俺もその星々の列――天の川へと視線を移して言った。
 天の川は、息を吞むほどの美しさだった。整然と並んだ星々は不規則なリズムで煌々(こうこう)と瞬いており、夏の夜空を一種の芸術作品に仕立て上げていた。小さいころから天の川自体は何度も見てきたが、今目の前に広がっているそれは全くの別物のように感じた。

 天の川に視線を向けながら、俺たちはそれほど大きくない裏庭を歩いた。

 そこでふと、俺は先ほどから思っていたことを口にした。

「あのさ、もしかしておまえって……」

「名前がないの」

 俺の語尾にかぶせるように、彼女はそう答えた。

「さっき病室を出た後、気になって様子を見に戻ったら……聞こえちゃって」

 彼女は夜空から目をそらさずに続ける。しかし、その視線の先には天の川はない。

「そっか……」

 俺は、それだけしか答えられなかった。

 名前がない。

 それは、すごく不安で、寂しい感じがした。

 前から、なんとなく察してはいた。でも、いざ本人の口からそう告げられると、なんて返したらいいかわからなかった。


 しばらくの沈黙。五分とも、十分ともつかないような時間の中で、俺たちはただただ夜空を眺めていた。その沈黙を破ったのは、彼女だった。

「でも、いいの。人から呼ばれる機会なんてないしさ。名前なんて、多分あっても意味ないから」

 視線を夜空から俺の方へと移し、笑いながらそう言った。その笑顔は、泣いているように見えた。

 なぜか、心の中がざわざわした。

 どこかで見たような笑顔。

 ……そうだ。あの時だ。

 俺が、両親を悲しませまいとして、こっそり鏡を見て作っていた笑顔に、そっくりだった。


夏生(なつは)、とかどうだ?」


 俺は、咄嗟に答えていた。自分の言った言葉に、自分でも驚いた。

 彼女はと言うと、「え?」と小さく声をあげ、戸惑っていた。それでも、俺は続けた。


「夏に生きることを夢見ている少女で、夏生。俺の名前から一文字取ったっていうのもあるけど、意味はこんな感じ。我ながら傑作だと思ってるんだけど」

 どうかな? と彼女に返答を求めてみる。なかなか出過ぎたことをしたと思ったけど、もう後には引けなかった。俺はじっと彼女の目を見て、待った。

「佳生が、つけてくれるの?」

 その声は、少し震えていた。

「俺はおまえのこと、これからも呼ばないといけないしな。名無しは呼び方に困るし、頼むからつけさせてくれ」

 もっと気の利いたセリフもあったのかもしれないが、これ以上は照れくさくて無理だった。

「ふふっ、わかった。その名前、ありがたくもらうね」


 夏生は、微笑みながらそう答えた。